第1場(2)
二人は念のため、谷までは雲の上を飛ぶことにした。人間に遭うことを避けるためだったが、雲の色と厚さからして下の天候で飛ぶのも不可能に思われた。
谷への帰り道、ギギは始終溜息を吐いていた。
「まあ、命は助かったわけだから、それはそれで良しとしようぜ」
隣を飛ぶビビが言った。だが、その言葉はギギの頭を持ち上げさせるには至らない。
「頭領もわかってくれるって」
頭領。
その言葉が出た途端、ギギは今日一番の深い溜息を吐いた。
再び雲の中へ潜る。
峨々とそびえる山脈の、奥深くへ分け入っていく。周囲を岩山に囲まれた谷が、彼ら竜の住処となっていた。植物はただの一つも見当たらず、ひたすら岩や石ころで構成された灰色の景色が広がるばかり。鮮やかな緑に彩られた人里から戻った目には、余計に寒々しいものとして映った。
雨が近いということもあり、谷には他の者たちの姿はなかった。皆、それぞれの巣穴に籠もっているようだ。鼻先の惨状を見られずに済み、ギギは軽く安堵した。それから心の隅で、このまま生え替わるまで穴の奥でじっとしていようか、とも考えた。
そんな淡い考えも、すぐに露と消えた。
「ギギ」
後ろから声を掛けられた。副頭領のゾゾだった。
「頭領がお呼びだぞ――ってお前、何だ、その顔は?」
「これには深い事情がありまして……」ギギは言い淀む。
「違うんだよ親父」と、ビビが入ってくる。「これはたまたま人間の攻撃が当たったんだ。ホントにたまたま」
「お前は黙っていろ」ゾゾは娘を諫め、ギギに言う。「とにかく、頭領の元へは行くんだ。お前の戻りが遅いので、いたく心配していたぞ」
心配、という言葉を口の中で転がしてみる。ギギの頭の中に浮かんでいる「頭領」とは、どうしても結びつかなかった。
ゾゾたち親子と別れ、ギギは一人、谷を進んでいった。そのまま自分の巣穴へ帰って、丸くなって寝てしまいたかった。何ならそのままずっと眠ったままでいたいとさえ思った。だが、頭領の存在がそれを許さなかった。彼は方向を変え、谷で一際大きく、高い所にある穴へと向かった。
穴の入口に降り立つと、丁度雨が落ちてきた。退路を断たれた気分になった。
目の前には、闇が広がっている。ギギの知るどんな闇よりも深い。そんな闇の底から、岩をも震わすような低い声が聞こえてくる。
「誰だ」
「ぼ……」言い掛けてから、慌てて言い直す。「私です。ギギです」
「入れ」
ギギは息を呑み、闇に向かって踏み出した。
穴の中を進んでいく。己の身の内で燃える炎が、僅かに周囲の闇を照らしていた。やがて奥の広間に辿り着いた。壁と天井の境目の、大きなヒビの間から外の光を取り入れており、通路ほどは暗くない。
仄暗さの底で蹲る影がある。「頭領」だ。ギギは身を固くした。
「た、ただいま戻りました」
「角はどうした」
労いより先に、低い声がのし掛かってきた。
「こ、これは、飛んでいる時に岩にぶつかって……」
雷鳴が轟き、穴蔵の光と影を反転させた。ギギは身を竦ませ、瞼をギュッと閉じていたので見ていなかったが。
「ギギよ」鳴り止まぬ轟音の向こうから、頭領の声がする。「ここでは真実のみを申せ。つまらぬ嘘は聞きたくない」
「……人間に」と、ギギは口の中で言葉を転がすように言った。「人間に、やられました」
溜息のような、空気の漏れる音が聞こえた。
「狩りの成果は」
「ありません……人間たちの住処に辿り着く前に、向こうから襲われたので」
「人間どもを狩ってくれば良かったであろう」
「そんな!」つい大声を上げたが、勢いはすぐに萎んだ。「か、彼らは言葉を話します」
「それがどうした。奴らは我々が言葉を話しても、飽くまで『化物』として殺そうとするのだぞ」
返事に詰まる。その言葉が真実であることは、身を以て味わったばかりだ。
「奴らに温情など不要」頭領が言った。「所詮は狩る者と狩られる者の関係でしかないのだ。竜と人とは、永遠に交わることはない」
ギギは何も答えない。答えたくなかった。
「強くなれ、ギギ――我が息子。お前には、この谷を統べる一族の血が流れている。その翼には、谷に生きる者全員の命が乗っているのだ。これはお前に課せられた宿命だ。祖先たちから連綿と受け継がれてきた、誇り高き使命だ」
そんなもの、今すぐここで捨て去って、鳥の餌にでもしてやりたい――。
なんてことを口に出来るわけもなく、ギギは色々な感情と共に言葉を呑み込んで、首を縦に振った。
「……はい」
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