翼竜は夜を飛ぶ

佐藤ムニエル

第1幕

第1場(1)

 風に、雨の匂いが混じっていた。空は既に灰色で埋められている。

 氷の棘が飛んできた。ギギは身を翻し、どうにか躱した。息つく間もなく、続けて新たに三本が追い掛けてくる。

 だからイヤだったんだ――。

 逃げながら、彼は胸の中でぼやく。

 こんな所まで降りてこなければ、彼らと遭うこともなかったのに――。

「ギギ!」

 ビビの叫びにハッとした。と同時に、氷の棘が左の腿を掠った。風を捉え、進路を変える。残りの二本は受けずに済んだ。

「畜生、チョロチョロしやがって」地上で黒ずくめの男が言った。

「足止めするだけでいい。どうにか当てろ」別の、鎧に身を包んだ男が言った。「おい、準備しておけよ」

 鎧の男が呼び掛けた先には、木を組んで作ったらしい道具が控えている。その傍らには、更に別の男が二人。人間は全部で四人だ。

「ギギ、狙われてるよ!」

 わかってる、と思うが、声を出す余裕がない。

 黒ずくめの男が杖を揮うと、更に氷の棘が現れ、ギギに向かってきた。

「頭下げて!」

 言われるままにする。炎の玉が頭上を通り過ぎていった。

「逃げてるだけじゃダメだ。戦え!」ビビが言う。

「そうは言っても……」

 視界の端で、雲が光った。遅れてくぐもった雷鳴が聞こえてきた。思わずそちらへ目を向けた次の瞬間、ギギは己が重大なミスを犯したことに気が付いた。

 右の翼に氷の棘が刺さった。

 棘は体温で直ちに溶けていく。ところが、今度は脇腹に何かがぶつかった。ギギの頭ほどはあろうかという石が飛んできたようだった。

「――!」声にならない声を挙げ、ギギは乾いた土の上に墜落した。

「ギギ!」ビビの声は遥か上空にあった。

 靄が掛かった景色の中を、人間たちが近付いてきた。ギギは抵抗を試みたが、身体に力が入らなかった。

「こいつを持ち帰るのか?」

「首だけで十分だ。要は殺した証があればいい」

 そんな会話が耳に入ってきた。

「魔道士、こいつの首を斬る魔法はないか?」

「お前の剣は何のためにあるんだ、騎士殿?」

 鎧の男らしき影の傍で、キラリと何かが閃く。武器のようだ。

「どうせなら汚したくなかったんだがな。刃が傷む」

「せこい奴め」

 人間たちの会話を咆哮が覆う。ビビだ。

「おい、もう一匹を近付けるな!」言いながら、武器を持った一人は近付いてくる。「大人しくしてろよ。痛くはしねえようにするからな――保証は出来んが」

 雨の匂いが濃くなった。

 早く帰らねば――。

 そう思うと、胸の奥が熱くなった。

 何かが滾っている。熔岩のような何かが。熱は胸から首を伝って、喉の奥まで上がってきた。口を微かに開いただけで、隙間から蒸気が漏れ出した。

 今なら――。

 今なら、やれるかもしれない――。

 だけど本当にやっても良いのか?

 突然、蒼白い瞬きと轟音が辺りを満たした。

 雷鳴――。

 ギギは驚きのあまり熱気を飲み下した。尤も、当人はそんなこと露も意識しておらず、一刻も早くこの場を立ち去ることで頭がいっぱいになっていた。彼は身体中からあらん限りの力を掻き集め、足掻いて足掻いて、背中の羽根も羽ばたかせた。

 鎧の男が何か叫んだ。それより大きくギギは吠えた。

 顔面に岩がぶつかった。鼻の奥に、先ほど胸に感じたのとは違う類いの温かさが広がった。だが、雷鳴がすぐ傍にあるこの状況では気にしている余裕もなかった。

 地面を撫でるように飛び、上昇気流を捉えて高度を上げた。

 頭上にあるのはまだ雷雲ではなかった。雲に突入し、真っ白な靄の中を突き抜ける。やがて抜け出た先は、紺色にさえ見えるほど青の濃い、静かな空だった。黒や灰色の雲は眼下に広がっていた。

「待てったら」雲を抜け、ビビが出てきた。彼女は息を切らせながら、「急に飛んでいくなよな。てか、逃げ足速過ぎ」

「ごめん……」言いながらギギは、鼻の頭に違和感を覚えた。痛みはあるが、それ以上に強い痺れが鼻の周りを覆っていた。

「ギギ、お前……」ビビは、赤い鱗で覆われた顔を蒼くした。

 鼻の頭に触れてみる。視界が妙に開けていることからも想像はしていたが、そこにある筈の物がなくなっていた。

 翼竜の証である角が、根元から折れていたのである。

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