第4話『日常風景とは得てして異常である(1)』

 お兄ちゃん大好き系の妹に対する憧れが全くないのか、と問われれば、その答えはNOだ。男なら誰でもある程度は抱いたことがあるだろう。自分だけなら正直泣きたい。


 血を分け、幼いころからその成長を見守ってきた、一番身近な女の子。普通ならいつかは、自分の傍を巣立っていくのであろう彼女が、しかし己の第一として実の、あるいは義理の兄を置いてくれる、というのは、筆舌に尽くしがたい充足を感じざるを得ない。大昔、とある賢人は「妹とは世界そのものである」と言ったらしいが、大変納得のいく言葉だ。


「んっ……ふぅっ、あんっ……あっ……はぁぁっ……兄様、兄様ぁ……っ」


 無論それは、兄妹仲での範疇に、留まるならばの話だが。


 三橋有司が目を覚ますと、視界一杯に甘い色と匂いがぶちまけられていた。

 色の方は若干濃い目のピンク色。大人の女性が身に着けていれば大層似合うであろう、ちょっと大人びたカラーリングだ。

 匂いの方は、何と言えばいいのか……むせかえるような甘さだ。それでいて嫌なものではない。むしろ頭がくらくらしてくるというか、ずっと嗅いでいたら思考がぼやけておかしくなってきてしまいそうというか。ほんのわずかに指し込まれた酸っぱい香りがアクセント。


 おまけに顔全体にさらりとした不思議な感触が押し付けられているではないか。基本的にはシルクのように滑らかかつ、主に鼻の部分にフィットしているのは非常に柔らかい感触なのだが、ところどころに顔をひっかいてしまいそうなざらつきがある。

 まぁつまり白いフリルレースであり、シルク部分はピンク色のパンツ、その本体なのであるが。

 

 つまりこの状況を有体に言ってしまえば。

 三橋舞花が、実兄の身体……具体的には顔を使って獣欲(リビドー)を鎮めようとしているのである。


「ナニやってんだ舞花ぁぁぁぁああああああッ!」


 理解した瞬間、体は反射的に動いた。爽やかな朝には似つかわしくない怒声が響き渡り、寝室をびりびり揺らす。そのまま思い切り立ち上がれば、有司の顔の上に腰掛けていた舞花が、ベッドの上に転がって、彼女は「やぁん……っ」と妙に悩まし気な声を上げる。


「朝っぱらから変な声を出すなッ!! なんか俺が悪い事してるみたいじゃねぇかッ!!」


 具体的には婚姻関係の認められていない相手への性的な嫌がらせ。いや、嫌がらせをされているのはこっちの様な気がするのだが、世間的にこういう場合大体男のせいになる。

 引っ越し直後の殺風景な、ベッド以外に何も置かれていない実兄の寝室。上気した頬と、黒色のランジェリーから伸びる、赤らんだ小さな肩は、とてもではないが妹がそんな場所でするような恰好ではない。彼女はそのまま、痛みとは全く別種の意味合いが見て取れる涙を、その金色の瞳に湛えながらひとりごちた。


「うぐぅ……今日こそは朝の微睡みにかこつけて、既成事実を作ってしまおうと思っていたのに……兄様の攻めが気持ち良すぎて没頭していたら起床時間になってしまった……不覚」

「不覚じゃねぇよ馬鹿。大体俺は何もしてねぇよ」


 攻めてもねぇ。

 舞花は良くできた妹だ。気が利くし、器用だし、見た目も可憐。ちょっと言動はぶっ飛んでいて、なおかつ他者とのコミュニケーションが得意な方ではないが、実際の所は優しい子だし、打ち解けた相手とならいくらでも仲良くなれる性格だ。


 そんな彼女の唯一にして最大と言っていい問題点が『これ』である。

 三橋舞花は、実の兄である三橋有司に恋をしているのだ。そしてその恋を、かなり強引な形で、成就させようと躍起になっている。つまりジャパニーズ・YOBAIである。いや朝だけど。


 ため息を一つ。全く、何を間違えたからこんなことになってしまったのだろうか。皆目見当もつかないあたりが実に悪質だと思う。


「あのなぁ舞花。そういうことは安易にやるもんじゃないし、そもそも俺なんかにやるべきじゃないだろ」

「安易じゃない。これは私の夢とも直結する。私、兄様と子沢山な家庭が築きたい。正直八人くらい欲しい。そのためには今から頑張っておくべきだと確信している」

「んなわけねぇ!」


 ぐいぐいと自分を押し倒しにかかる舞花。体格差的に簡単に払いのけられると思ったのに、思ったよりも力が強い。一体あの小さな体のどこから、こんな膂力が出てくるのやら。


「一体いつまで寝ているつもりなんですか? もうすぐ八時で――」


 その声が途中で止まる。ドアの方面に顔を向ければ、そこには呆然とした表情で立ち尽くす氷菓の姿が。彼女は信じられない、とわなわな震えると、絞り出すように一言。


「まさか……兄妹で、そんな……?」

「いや誤解だからな? 何もしてないからな!?」

「知りません。全く、いやらしい人」


 ぷい、と背を向ける氷菓。何故だろう、シンプルな一言なのに、酷く傷つく。

 彼女はそのままリビングへの道を半ばまで進むと、ふいにこちらへ振り返る。


「早く着替えてください。朝ごはん、冷めちゃいますよ」


 それだけ言うと、彼女は足早に駆けて行ってしまった。ドアを開けっぱなしにされた寝室には、春先の若干冷たい風が入り込んでくる。ぶるりと一つ震えながら、有司と舞花は顔を見合わせ、首を傾げた。


「……朝ごはん……?」


***


「うっっっま……」

「あ、兄様……それは私の料理よりも、ということ?」

「すまん、そう」

「がーん」


 漫画なら口が三角形になると共に、目元が黒く塗られる演出でも入っているだろう。舞花がどんよりとした空気を纏って行動を停止した。だが今だけは構っていられない。それどころではないのだ、それどころでは。


 箸が止まらない。咀嚼が途切れない。まだ食べ始めたばかりだというのに、有司はもう氷菓の作った朝食の虜になっていた。豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭といった、彼女の銀髪碧眼の外見とは少々ミスマッチな純和食のメニューだが、一つ一つの仕込みや味付けに手が込んでいて素晴らしい。主食の白米も甘くて柔らかい。そういう品種なのだろうか。一噛みごとに多幸感が胸中に広がっていく。

 ああ、生きててよかった――そう、これほどまでに感じたことがあっただろうか? いや、ない。確信できる。


「凄いな時凍。正直いままでの人生で一番美味い朝飯だわこれ」


 本心からの感想を告げると、自分の分を口に運びながら、氷菓は困ったように眉を顰める。


「褒めても何も出ませんから、早く食べ終えてください。洗い物もあるんですからね」

「もったいなくてとてもじゃないけど早食いとかできねぇ。あと洗い物は俺がするよ。流石にそこまで女の子に任せっきりにさせるわけにはいかんだろ」

「そうですか? ……なら、お願いしますね」

「おう、任せとけ」


 そもそもの話氷菓は、護衛仕事の手始めに、と美有から命令されて、引っ越しの手伝いに来てくれているだけなのだ。本当なら朝食を作るのも有司と舞花の役割である。それをやってくれた上に、こんなに幸せな朝食時間を提供してくれるとは……これだけで一生分の借りを彼女に作ったような気がする。昨日の内に合鍵を渡しておいて正解だった。

 納得がいかない、と言った様子で紅鮭の身をつつく舞花。頬を膨らませる様子は可愛らしいが、箸捌きに怨念が籠っているような気がしてならない。


「むぅ……プロの味ではない……その辺の再現が完璧な私との差は歴然だと思うのに」

「馬鹿、そこが良いんだろうが」


 氷菓の料理の味は素朴だ。言い方は変だが、『お袋の味』、とでもいうのだろうか。食べるとホッとするのだ。それは星のついている様なレストランで提供される料理とはまた違う魅力だ。ちなみに舞花の料理は、どちらかというと後者に分類される。


「なんというか、《第三最大異端》の舌は肥えているものと思っていたのですが」

「どうだろうな。確かに《大戦争オリジナル》中は美味いもんいっぱい食わせてもらったけど……こう、合わなかったんだよな。過ぎたるは及ばざるがごとし、っていうか。だから時凍の飯の優しい味が染みてさ……正直涙が出るほど旨い」

「そ、そんなにですか」


 若干上擦った声を上げる氷菓。ちょっと嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。


「ぐ、ぐぬぬぬぅ……ゆるすまじ……」


 対抗意識を刺激されてしまった舞花が、ぷるぷる震えながらその瞳に嫉妬の炎を燃やす。このままだと箸を真っ二つに砕いてしまいそうだ。これはまずい。


「舞花の料理も好きだぞ、俺は」

「本当? 嘘じゃない?」

「いや本当だってば。実際美味しいのは確かなんだし……豪奢な方面に偏るから、毎度腹壊しそうになるのはどうにかしてほしいけど」

「ん……次から気を付ける」


 うっすら口角を上げながら、炎を鎮めてくれる舞花。有司はほっと胸を撫でおろした。

 確かに少々凝り性なきらいはあるが、舞花も相当料理が上手だ。普通、一度食べただけの味を完全に再現した料亭風の一品など作れない。むしろそういった細やかな芸のことを考えれば、料理の腕は舞花の方が上だともいえる。

 だからこれは単純な好みの問題。妹の作る再現高級料理と、護衛の作る家庭料理では後者の方が有司の胃袋をよりがっちりと掴んだ。それだけの話だ。


 ……改めて字面だけ見ると、自分が最悪な男であるように思えてくる。美少女の手料理を食べ比べするだけに飽き足らず、明確な優劣を自分の中で決めてしまうだなどと。その上片方には次に出す料理に関する要望まで叩きつけると来た。字面どころか実際最低である。

 だが料理、そして食事というのは、人間の生命活動と最も深くかかわる案件だ。どうか許してほしい。


 もう一度、氷菓の料理に箸をのばす。本当に旨い――一口食べると、箸が勝手に次の一口を取りに行っている。まるで魅了の《異法》でもかかっているかのように、いつまでの手が止まらない。

 特にこのきんぴらごぼうが最高だ。しょっぱさと甘辛さの比率が絶妙で、ごぼうの香りも相まって非常に食が進む。有司はどちらかと言えば小食な方だったのだが、これなら無限に食べていられそうな気さえしてくる逸品だ。

 そんな有司の様子に、氷菓が若干呆れの混じった調子で苦笑する。


「……お気に召したのなら、また作りましょうか?」

「本当かっ!? できれば毎日頼む!!」


 思わず大きな声が出た。びっくりしたのか、氷菓も目をぱちくり。反射的に悪い、と頭を下げる。おまけにまた舞花のスイッチを押してしまったのか、彼女はぎ、ぎ、ぎ、とロボットの様にこちらを向いたではないか。次に言う台詞は大体予想が付いた。先回りして答えておく。


「違うって」

「兄様……それは毎日俺の為に味噌汁を作ってくれ的な……?」

「んなっ……そ、そういうことを言うには、まだ早いと思うのですが……っ!」

「ちくしょう無駄だった。だからそもそも『そういうこと』じゃねぇっつってんだろ」


 確かに、氷菓と毎日味噌汁を作ってもらえる関係になれたら、それはとても幸せなことだろう。料理上手で物腰も柔らか。社会的地位も戦闘力も高く、おまけに銀髪巨乳で超可愛いときた。まるで男の理想の全てを詰め込んだような存在だ。


 だからこそ、自分には相応しくない。高望みをしているわけではない。逆だ。自分が彼女に相応しくないのである。ただ戦争で手柄を立てただけの自分よりも、もっと良い男がいるはずだ。それは舞花に対しても思っていることであり、有司が彼女の愛を受け取らない、「兄妹だから」以上の理由だ。


 そもそも有司は氷菓にとって、確かに戦闘スタイルの目標とする異端騎士ではあるかもしれないが、人間としては自分の着替えを覗き、ろくに謝りもせずにカウンターをしかけてきた挙句、あまつさえ(上司の命令とは言え)護衛をするように迫ってきた最低な男だ。

 彼女とて、そんな奴と一生を添い遂げたくなどあるまい。有司の返答に、「ああよかった」と胸をなでおろしてくれるだろう……と、思っていたのだが。


「では、あなたは思いつきでプロポーズの常套句そういうことを言うんですね。私だけではなく、誰にでも」

「あれぇ……?」


 氷菓は急に不機嫌になると、僅かに食事の速度を速めた。豆腐を口に運ぶ繊細な手元にも、僅かな怒気が見えている。それでもなお豆腐が潰れないあたりは流石というかなんというか。無言で箸を動かすその様子は、なんというか、こころなしか嫉妬しているような、していないような。

 予想外の展開に、有司はただ混乱するしかない。そんな兄に向って、舞花が呆れた調子で呟いた。


「女心を理解しないのは兄様の悪い癖」

「いやそういう以前の問題だろ今の」

「ふん」

「ええ……」


 妹にまでそっぽを向かれてしまった。最早どうしていいのか分からない。女心は秋の空、というが、それにしたって読めなさすぎではあるまいか。対女性免疫の薄い有司にとって、こういう状況で取るべき対応など想像できるわけもない。

 頭を悩ませていると、氷菓がくすくすくす、と、おかしそうに笑い出す。あ、こいつこんな笑い方もできたんだ、と、妙に不思議な気分になってしまった。美少女と言うのは所作一つとっても絵になる。冷たい表情や照れた顔も魅力的だが、なんというか、その。


「時凍は笑ってるのが一番可愛いな……」

「なっ……」

「兄様?」


 やべっ、声に出してた――そう気づいた時には後の祭り。時凍氷菓は雪の様な肌が融けてしまわないか心配になるほど真っ赤になり、逆に三橋舞花の視線の温度は氷点下を記録する。有司は肩をすくめると、空になった食器を持って立ち上がった。


「ごちそうさま!」


 足早にキッチンへと向かうと、兄様の馬鹿ーっ! という怒声が背後から耳に届いた。ゆるせ妹よ、兄ちゃんには現状を真正面から受け止める精神力がない。だって面倒くさいんだもん。


 食器の汚れと一緒に、ふがいない自分も流してしまえればいいのに――なーんてことを思ったり思わなかったりしながら、有司はきゅっと蛇口をひねった。

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