第1話『異端者の学園へようこそ。では死ね(1)』

 視界を埋めつくした色を上から順番に示すなら、銀・青・肌色・黒・肌色・黒である。


 内訳をぶっちゃけると――天の川を思わせる、美しい白銀の髪の色。透き通った瞳が讃える、澄んだ冬空の色。繊細な首筋から淡く霞む谷間までの、雪の様な色。たわわに実った二つの果実を包む、レース付きブラジャーの色。白くなまめかしいお腹の色。

 そしてやはりレース付きの、ガーターベルトとセットになったパンツの色だ。


 三橋みつはし有司ゆうじはそれらの色彩が網膜にぶちまけられるのを、ただ受け入れるしかなかった。外界と部屋を隔てる最新式の自動ドアが、ぷしゅー、と間抜けな音を立てて開き切る。


 完全な不意打ち、完全な不可抗力、完全な予想外である。予測可能回避不能というスラングが一昔前にあったらしいが、これは予測不可能回避も不可能だ。

 だってそうだろう。一体どういう予知能力を持っていたら、待ち合わせ場所に指定された学生寮の扉を開けたら見ず知らずの女の子が居て、しかも着替えの真っ最中だという前提の行動をとれるというのだ。普通無人だと思うだろう。誰かがいるとしても待ち合わせ相手だと思うはずだ。

 そもそも万が一漫画やアニメの見過ぎで着替えの最中に遭遇することを期待していたとしても、それが現実に起こることなど誰が想定するだろうか? いや、誰もするまい。そもそも別人がいるとか思いつくわけがない絶対に。うん。


 初対面の少女の方は、丁度黒色ブラのホックを外し、肩紐に手を掛けたところだったらしい。呆然とする彼女の指が緩み、カップがずるりと下がる。そのせいで、細身で小柄な体躯には若干不釣り合いな、大きく柔らかそうな双丘が半ばまで露わになってしまった。

 整いすぎる程整った、と言ってもいい、どこか幼さを残した美貌が、さっ、と耳はおろか首筋まで真っ赤になる。ついでに有司の平凡極まりない顔の方は真っ青に。

 少女の、綺麗な桜色をした愛らしい唇が空気を求めるように薄く開閉、喉の奥から何事かを絞り出そうと試みる。しかしさすがに動揺しているせいか、中々言葉が出てこない。


 いまのうちだ。何か弁明の言葉を放ってこの場を収めよう。意図的な遭遇ではなかったことを、具体的には百四十文字以内で説明するのだ。誠心誠意謝れば、どんなに気難しい人でもある程度は酌量の余地を残してくれるに違いない。

 そう思って言葉を探す。よし見つけた。これで事態を収束する!


「え、えっと……良いカラダしてんねぇ……?」


 間違えた。どうやら思っていたより混乱していたらしい。


「殺します」


 即答。温度の一切籠っていない冷徹な宣言が、ぐさりと心臓を突き刺して。気が付けば有司の身体は、何処からか放たれた不可視の一撃によってすぽーんと吹き飛んでいた。当然の結末である。


 ***


 遡ること数分前。

 三橋有司は新出雲市の景観を背景に、少々年代物の携帯端末と壮絶な睨めっこを繰り広げていた。画面に表示されているのは、コミュニケーションSNSの発展したこのご時世では珍しい電子メール。ただのメールであるならばわざわざ睨めっこをする必要性などないのだが、今の彼には事情があった。


 メールには待ち合わせ場所を指定したメモが添付されているのだが、なんの間違いか画像を開くためにパスワードが設けられており、おまけにそのヒントが暗号形式なのだ。

 しかも見たことのないタイプの。恐らく相手方が趣味で作ったものだ。いくら簡易的なものとはいえ人様に送る文書に使うか普通、などと悪態をつきながらも必死に解読に励むこと既に二十五分。

 ようやく法則性を発見し、解読を開始したまでは良かったのだが、どうも回答にはいくつかダミーが仕込まれているらしく、中々正解にたどり着けない。


 EVと自動運転が主流となった昨今にしてはやや前時代的な、やかましいクラクションの音が集中力をかき乱し、ただでさえ募る苛立ちが余計に加速する。


「だぁぁああもうッ! 分かるかこんなもん!」


 都合十四回目となるエラーを吐き出され、ついに有司は匙を投げた。絶叫と共に天を仰ぐと、ベンチの背もたれに全体重を預けて脱力する。流石に疲れた。もうやめだやめ。いっそ街中を訪ねて回った方が早い気さえしてきた。


「すぐ諦めるのは兄様あにさまの悪い癖」

「うるせー。だったら解いてみろよ自分で。言っとくけど出題者の性格悪すぎて嫌になるぜマジで」


 その様子を見とがめて、少々低めの幼げな声がすぐ隣から飛んでくる。仏頂面で携帯端末を投げると、素早く伸びた細く、小さな腕が、包み込むようにひょい、とキャッチ。

 まるで夜空の様に艶やかな黒い髪を持つ、驚くほど可憐な娘だった。陶磁器のように滑らかな、それでいて少女特有の柔らかさと温かみを感じさせる肌に、一流の人形師が全霊で刻み上げたかと思えるほどに整った顔立ち。良家の令嬢だと言っても通用する、仕立ての良い黒のワンピースが包む体は、今年で十六歳になることを思えば相当に小柄だ。幼女と言っても差し支えあるまい。


 金色の目で端末の画面を見つめる彼女は、名を三橋みつはし舞花まいかと言った。

 凡庸極まりない黒髪黒目の有司に対し、肩書を疑わざるを得ないほどの美少女であるが、残念ながらというべきか、それとも嬉しいことに、というべきか、彼女は有司にとってきちんと血の繋がった妹にあたる。前述の通り容姿のレベルが違いすぎて、似ている部分と言えば遺伝的に長い前髪くらいしかないが……。


 彼女は三十秒ほどかけて一通り暗号文章を見ると、パスワードの入力画面に移動。小さな指で『I Love You』と入力。素早くエンターキーを押すと、これまでの苦労は何だったのか。極めてあっさりロックが解除された。

 舞花が携帯端末を差し出しながらこちらを見つめてくる。ポーカーフェイス、というには少々表情が変わらな過ぎ、と言っていい彼女だが、よくよく見れば口角が上がっている。ドヤ顔という奴だ。


「腹立つ~」

「この程度も分からない兄様が悪い。でも安心して。私と結婚すれば、兄様はこの頭脳を好きなように使える。自らの思考力を高める必要もない」

「いや普通に鍛えるわ自分を」


 ほぼ反射に近い速度で答えると、舞花は一転、沈んだ空気を纏い、「おかしい……こうやってピンチを救えばイチコロのはずだったのに……」と呟いた。おかしいのはお前の恋愛観の方だ、と言いたい気持ちをぐっとこらえる。


 まぁ何にせよ、開けてもらったのは事実だ。有司は感謝をひとこと述べると、添付ファイルを開封。直後、眩暈を覚えて目頭を押さえて再び天を仰いだ。


 仕方あるまい。なんせあれだけの苦労と若干の屈辱を経てたどり着いた答えは、とてもではないがヒントになり得ない内容だったのだ。

 考えてみてほしい。特徴的な建物の名前も外観も記されておらず、ただ道路の大まかな形と『ここ』とだけ記入され大きな丸で囲まれた長方形が描かれただけの地図で、土地勘のない人間がどうして目的地に辿り着けるだろうか。どう考えても無理である。これだけで一種の暗号だ。


 もう相手の目的というか、パスワードを設定した意味さえ分からなくなってきた。二重プロテクトを掛ける理由が全く特定できない。


「大体なんだこのパスワード。ふざけてんだろ」

「全くその通り。兄様が『性格の悪さが分かる』と言ったのが良く理解できた。これは兄様から自発的に『愛しているI Love You』を入力させることで言質を取る罠」

「マジかよアホくさ」


 送り主の性格を考えると普通にありそうというか、むしろそれ以外に考えられないあたりが極めて悪質である。


「そんなことやってる暇があるなら、もうちょっと綺麗に地図を描いてくれよな全く」


 描画ソフトとかそういう類のものを使うなり、実際の地図を貼り付けるなりすればもうちょっとマシなものができたはずだ。それすらもしないあたりが、実に筋金入りだと思う。

 正直会いたくない。だが会わないわけにもいかない事情がある。

 有司は大きなため息を一つ吐くと、端末をポケットに突っ込みながら立ち上がった。


「ほら、行くぞ」

「ん」


 舞花も後を追ってくる。

 整然と並んだ街路樹の向こうに見える、自動車や大型バスが行き交う街の風景。その様子は、六年前とはまるで別物。かつてはコンクリートと鋼で構築されていたこの街も、今や最新式のハイ・カーボンへとあらかた置き換わった。《異端者》とその関係者の為に作られた特区のモデルケース、新出雲は、異端世界からもたらされたあらゆる技術をふんだんに使用しているのだ。


 そうとも、《異端者》は何も、戦士だけとは限らない。むしろ《異端騎士》という称号が態々設けられているだけあって、技術系の路線で才能を発揮する人物の方が多いとさえ言える。ナノカーボン技術を転用し、万能物質へと進化させたのも、そういった《異法》に触れた科学者たちの功績である。


 今の時代の異端を、新たなる時代の正統へと書き換える──その役割を担うのが《異端者》だ、などと宣う者もいると聞くが、たったの六年でここまでの発展が成し遂げられたことを考えれば、そんな思想を抱くのもむべなるかな、と言えた。

 そんな時代の象徴たる万能炭素。目的地へと近づくにつれて、その色が徐々に変わっていく。鋼を思わせる鈍い白から、いっそ神聖さすらも感じさせる、淡い青を帯びた白へ。


 ハイ・カーボンにも等級がある。この色は、普通は表社会に流通していない一級品のものだ。建築に使用するには莫大な資金とコネクションを必要とする。

 それが、目的地を含む周辺建築物の全てに使われていた。いっそ冗談だと言われた方が納得のいく大盤振る舞いだが、視界の端に見える『私立神無月学園』の標識に、有司は酷く納得する。その名前は有名だ。何せ《異端者》、特にありとあらゆる問題を代理戦争レプリカの形で解決する、新時代の剣闘士──《異端騎士》の育成を専門にする、国内有数の教育機関である。


 恐らくは並みの金属やカーボンでは耐久に難があるのだろう。《異端者》達の操る絶技、《異法行為イリーガル・アーツ》がもしも暴走でもした場合を考えれば、彼らが力を振るう代理戦争用コロシアムの建材と同じ材料で学園を造るのも、妥当な判断であると言えよう。


 それにしたって金をかけ過ぎな気がしないでもないが。成金主義極まる鋼の城に、有司は思わず舞花に問うてしまう。


「……ここで合ってるのか?」

「間違いない。走り書きされてる名前とも一致している……と思う」


 携帯端末の画面を拡大するものの、字が汚すぎて良く読めない。だが周辺建造物の特徴は一致しているように思えた。どうやら、呼び出し人は、この敷地内で待っているらしい。あれほど面倒くさい仕掛けを備えていたのだ。恐らく自分たちを訪問させた理由もろくなことではないだろう。正直全力で帰りたい。

 とはいえ、来てしまったものはどうしようもない。さっさと用事を済ませて帰るに限る。


「じゃぁ、待ち合わせ場所を探しますかね、っと……えー、銀色のビルの三〇二号室……」


 こうして彼ら兄妹は、地図に汚らしく書き込まれたメモを頼りに、指定通りの場所の扉を開き。兄の方はものの見事に地雷を踏み、間抜け面を曝して宙を舞ったわけである。


 銀髪美少女手ずから吹き飛ばされた有司の身体は、砂塵と埃をまき散らしながら勢いよく滑空した。その速度たるやきりもみキックを思わせる回転がかかるほど。最終的にびたーんと音を立てながら柱にぶつかり停止すると、揺れる天井からぱらぱらとハイ・カーボンの欠片が落ちてきた。絵面は最早コントか何かの一場面だ。


 その一部始終を部屋の外から見ていた舞花が、間抜けな兄にむけて一言。


「……兄様の馬鹿」

「うるせぇ。今のは混乱してただけだ」


 苦し紛れの言い訳に、明星を思わせる金色の瞳がじとっと非難の視線を寄せる。ぷくー、と頬を膨らませる姿は確かに愛らしいのだが、今はそれすらも有司の心を抉ってくる。やめろ、そんな目で兄ちゃんを見るな、と鬱々たる気分になっていると、ふいに舞花の目からハイライトが消えた。


「そうだよね、いつもなら兄様が私以外にあんなこと言うはずないもんね。ふふふ、まさか兄様に限って巨乳好きだなんてそんな」

「いやそこじゃねぇだろ突っ込むところ」


 うつむき気味に紡がれた言葉のベクトルがおかしい。笑っているような口調なのに表情が全然変わってないから余計に怖い。


「誰のどこにナニを突っ込むですって……?」


 そんな微妙極まる空気が、一瞬にして緊迫したモノに塗り替わった。

 狼藉者をはじき出した自動ドアがもう一度スライドし、件の少女が姿を見せたのだ。今度は流石に服を着ている。ダークグレーの縁取りを施された白のブレザーは、私立神無月学園の制服だ。押し上げられた胸元と、黒いスカートから伸びる白い太腿の蠱惑的なラインに、先ほどの記憶が激しくフラッシュバック。やべ、動悸が……などと思っていると、彼女は綺麗な青の瞳に怒りを湛えて、震える声で続きを紡ぐ。


「し、信じられません! 嫁入り前の乙女の着替えを覗いた挙句、その純潔まで奪おうと画策するだなんて……!」

「誰もそんなこと計画してねぇよ? 前半は言い逃れできないけど後半は被害妄想だッ!」

「問答無用です。第一他人の着替えの場に侵入するような輩が、次に想定することなんて決まったようなものでしょう」


 何かを誤解しているようだが、どうやら反論は無意味のようだ。こちらも彼女の半裸を見たのは事実なため、変に弁明ができない。

 一切の感情を抑制した瞳と共に少女は、長い銀色の髪を揺らしながら、その右腕を虚空へと大きく突き出した。瞬間、腕の半ばまでが、透明な空間へと吸い込まれる。数秒ほど何かを探る様にその手を動かした彼女。


 ずるりと引きずり出された腕が握るのは、彼女の髪と同じ色、白銀の鎧を纏った機械の鎌だった。

 まるで工芸品の様に美しいモールドを施された装甲が、今は魔王の武器か何かのよう。《異端騎士》の証、己の《異法》を象徴する、異端兵装イリーガル・デバイス──ということはこの少女は研究者系統ではなく、《代理戦争》への参加を前提とした修行を積む、新時代の魔法戦士ということだ。


 虚空から機械鎌が完全に引き抜かれると同時に、少女の瞳もまた、氷河を思わす光を纏う。神秘的なその輝きは、《異端者》が己の能力を解放した証──即ち、彼らと諸人の間に隔たる、絶対的な格差、その発露の証拠だ。


「冷たッ……!?」


 思わず後退る。見れば足下、ハイ・カーボン製の床が、ぱきぱきと音を立てて凍り付いていた。冷気の出所は鎌の刀身。淡く発光するクリアブルーの刃で間違いあるまい。


 六年前、《大戦》と呼ばれる事件によって表舞台へと姿を見せた《異端者》は、端的に言うならば『現実世界に生きながら、異世界に身を置く人類』だ。当然の事であるが、別世界の法則は正統(ふつう)の世界のそれとは大きく異なる。過去の人類が夢物語の類と吐き捨てた空想も、異世界でなら普通のことだったりするのだ。そういった異次元の『正統』を、この世界の『異端』……《異法》と呼ばれる形で持ち込むことができるのが、彼らに与えられた異能の姿だ。


 そして《異端者》たちが接続する世界には、当然だが生命の生息できないような、極限の地だって存在する。


 少女の世界は極寒の園。生命の鼓動、その一切合切が凍てつく、終局の法則。

 異端世界イレギュラー・ゾーン、《遍く命は氷獄に芽吹くニヴルヘイム》。《異端者》たちから呼びならわされるのは、たしかそのような名だったはずだ。九世紀以前、ヨーロッパの《異端者》が多数接続し、現地における神話形成に影響したとされる異世界。

 同様の《異法》を持つ人間は比較的多い。何人かぱっと浮かぶ顔がある。


「目覚めなさい、《十二時の鐘が鳴る前に(グリムリーパー・サンドリヨン)》」


 だが――ここまで強力にリンクしている奴は、見たことがない!

 いっそ予備動作とさえ思える、軽い素振り。ただそれだけで、バキィィッ!! という嫌な音と共に、その切断面から。おまけに、凍てついた座標を中心に、周辺空間までもが氷の結晶に変わっていくではないか。

 氷の侵食速度はすさまじく、あっという間に周囲一帯が銀盤へと変貌する。有司の背筋を、吹き付けるそれとは別種の冷気がついと伝った。


「ちっ……!」


 流石にあんなものに直撃したら死ぬ。いや、いまどき命に係わるような傷は、即死でもしない限り治癒できるのだが、美しい青い目に宿った羞恥と憤怒の色からは、とてもではないが平和的解決の未来を探せそうにない。良くて全身に凍傷を負わされた挙句の牢屋行きだろう。

 どちらにせよ。


「ぼやぼやしてると氷漬けコース直行、ってわけか……!」

「大丈夫。兄様が凍死体になっても愛する自信が私にはある」

「そんな自信持たんでいいわ!」


 こともなげに言う妹の思考回路が怖い。おかしいなぁ、確かに昔から兄妹仲は良い方っていう自信はあったけど、それでもこういうタイプの妹じゃなかった気がするんだけどなぁ。というかここ最近毎日同じような内容で首をひねっている気がする。

 こんなところで凍え死ぬ気はさらさらない。ついでに妹の歪んだ愛を受け取る気もない。


「逃げるぞ、舞花!」

「ひゃん」


 有司は舞花の首根っこを掴むと、落下防止用のフェンスを飛び越えた。そのまま舞花を空中でお姫様抱っこの姿勢に変えたところ、妙に熱っぽい視線を送ってくる。やっぱり掴んだままが良かったかもしれない。


「あっ、こら、待ちなさい、この覗き魔!」


 頭上から少女の怒声が響くが知った事ではない。確かに過失はこちら側にあるのだが、命の危険があるのにはいそうですかと立ち止まる人間はそうそういないと思う。そもそも鍵をかけずに着替えをしていたあちらにも責がある気がしてならなかった。

 そのまま寮前の広場に着弾。ズン、という重苦しい音と共に、視界を埋め尽くすほどの砂煙が舞う。


『なんだなんだ』

『隕石?』

『誰かの《異法行為》か?』


 帰寮途中、あるいは単純に外に出ていたと思しき生徒たちが、何事かと目を剥く。数瞬遅れて足の下から痺れが上がってきた。視線も痛いし足も痛い。最悪である。


「やっぱ三階から飛び降りるもんじゃねぇな人間ってのは」

「行動前に自分にできるのか否かを判断しないのは兄様の悪い癖」

「うっせ」


 悪態を一つ。自覚はあるんだから余計なお世話だ。

 薄っすらと晴れ始めた視界であたりを見渡せば、細かい塵を吸い込んだか、通行人たち咳込みだしていた。大混乱、とまではいかないが、どよどよと困惑が広がっていくのが手に取るようにわかる。彼らには悪いが、好都合だ。今のうちに逃げさせてもらおう。


 と、思っていたのだが。

 すとん、という軽い音。一秒と少し遅れて、衝撃と突風。それから、感じたことのないほどの冷気が吹き付けた。弾かれた様に振り向けば、いつの間にか背後の世界は季節外れの猛吹雪。ホワイトアウトのその奥に、ぎらりと輝く光が見える。ほぼ直感だけで大きくバックステップ。同時に舞花を、抱えた姿勢から背負う形に変えて彼女の身を護る。

 瞬間、示し合わせたかのように、目の前を蒼白の刀身が通過した。


「はは、やっぱりそうなるよな……」

「当たり前です。逃がしませんよ」


 思わず漏れた乾いた笑いと共に、真っ二つに引き裂かれた霞みの向こう。銀髪の少女がはっきり見える。刀身の輝きと冷気は、先程よりも更に増していた。

 少女はそのまま手首を返すと、振り上げた鎌を切り降ろす。上段からの切り降ろしは、衝撃波と共に氷の刃を形成し、レンジ外までへの追撃を成す。有司も全身を使って攻撃を避けるのだが、その度に的確な追撃が返ってくる。どうやら、鎌を使った戦闘の方にも、それなりの覚えがあるらしい。


 異端兵装は《異法》の象徴。それが有する特殊能力は、必然的にその異法そのものを体現する。振るうだけで周囲を氷結させるなど、並の《異法》ではないはずだ。有司の知る同レベルの《異端騎士》の多くは、よく言えばその《異法》を前提とした、悪く言えば異能に頼り切った戦闘をする傾向にある。

 一方の銀髪の死神は、己の力に胡坐を掻くことなく、更なる高みを目指して研鑽を積んでいるのだろう。そこには『特別な人間』であることへの奢りや傲慢など欠片もなかった。


 こいつは、強い。間違いなく。


「……せぇぇえッ!!」

「うぉっ!」


 考え込んでいる暇は与えられない。『十二時の鐘が鳴る前に』と呼ばれた機械鎌、その斬撃と、凍てつく波動を紙一重で躱す。間髪入れず次の一撃。最早彼女の目からこちらの身を隠してくれる砂煙は欠片も残さず吹き飛ばされ、逆に有司の動きを止め、視界を塞ぎ、死へと近づける猛吹雪が、春の陽光を閉ざし始めていた。


 まるで正統世界そのものが、異端世界に浸食されてしまったようだ。

 否、実際にそうなのだろう。異端兵装を展開し、彼女がその身に宿した異世界の法則、それはただ存在するだけで周囲を氷で閉ざしてしまう、極氷の力なのだ。


「……つーか、さっきよりも吹雪の威力、強くなってね?」

「なってる。そろそろ寒い」


 有司の背中に身を寄せながら、舞花がぶるりと震える。どうやら、あまり長い事戦うのは健康的にも厳しそうだ。

 続く斬撃を跳躍で回避。反転すると再び舞花を抱え直し、有司は脱兎の如くその場を離脱した。最早待ち合わせの約束を破ることになるが、正直知った事ではない。そもそも元を辿ればあのメモのせいである。送り主は少しくらい痛い目を見てもいいと思う。


「ちょっと急ぐぞ、舞花。舌噛まないように気を付けろ」

「ん……どうするつもり?」

「三十六計逃げるにしかず、ってな」


 校門へと狙いを定め、全力疾走を刊行する。当然少女も追いすがる。

 追走劇は道行く少年少女たちにとっては一種の見世物にでも見えているのか。すれ違う度に彼らがとるきょとん、とした表情が、この状況の馬鹿らしさを物語っている気がしてならない。畜生暢気にしやがって。


『あれ、《白雪姫》じゃん。なんで兵装出してんの?』

『今逃げた奴追いかけてるのか?』

『まさか覗き魔?』

『学園最強の異端騎士に対して覗きとは……勇気のある武士でござるな』

『しかもよく見たら幼女同伴じゃねぇか。なんてうらやま……いやけしからん奴だ!』


 けしからんのはお前の方である。

 というか何故覗き魔と断定されているのだろうか。いや、下着姿をばっちり見てしまったのは何の言い訳もできない真実なのであるが。


 しかし《白雪姫》とはまた仰々しい呼称である。どうやら少女は二つ名持ちの《異端者》であるようだ。異名付きの《異端騎士》は珍しくないが、学生時代からついている例はあまり聞いたことがない。薄々感づいてはいたが、相当な実力者と思われる。


 それに先ほどから、脳裏の奥……こう、ちょいと小耳にはさんだ程度の情報が記録されているあたりが、酷い警鐘を鳴らしてきていた。《白雪姫》。どこかで聞いたことがあるような名だ。そもそもあの銀色の少女自体、見覚えがある気がする。

 推測を確証に変えるべく、有司は問う。


「舞花、『検索』はかけられるか?」

「もうやってる」

「流石……ッ!」

 緊迫した状況だというのに、思わず口元が笑みの形を取る。

「ふっ、良い女は常に男の考えを先回りして行動する。兄様も安心して惚れて良い」

「へいへい。それで?」


 いつもの世迷言を流せば、舞花は少しだけ不満そうな気配を纏う。だがすぐにそれを引っ込めた。流石にそんな状況ではないと分かっているのだろう。

 彼女の金色の瞳が、吹雪の中、淡く発光した。じっと見ていれば吸い込まれてしまいそうな渦が、その奥にちらりと見え隠れする。


 ──三橋舞花は、特別な人間だ。


 彼女はありとあらゆる《異端者》の情報を閲覧できる。生まれたばかりのレート1から、世界最強の《最大異端》たちに至るまで。文字通り、全ての《異端者》のデータを。

 故に此度も、彼女は即座に銀の死神の正体を言い当てた。


時凍ときとう氷菓ひょうか。年齢十五歳、私立神無月学園一年三組所属。国籍は日本。誕生日は一月十四日で、出身は新潟県新長岡市。身長百五十八センチ、体重四十五キロ。スリーサイズは上から八十九・五十八・六十二」

「十五で八十九? マジかよ……」

「兄様……?」

「うぉっほん」


 再び向けられるジト目を、今度は咳払いで誤魔化す。そうだ、それどころではなかったのだった。個人情報は良いから《異端者》としての情報が聞きたい。


「接続した異端世界むこうは、兄様の予想通り《遍く命は氷獄に芽吹く》。異端深度イレギュレートは7で、異端兵装イリーガルデバイスは《十二時の鐘が鳴る前に》……兄様、こいつ、この前の中継に出てた……」

「畜生やっぱりそうか」


 呻く。以前、どこかの企業同士の利権争いだかなんだかで起こった《代理戦争》、それが中継されている場面に遭遇したことがある。その時に勝った側の会社が雇っていた《異端騎士》こそが、今自分たちを追ってきている銀色の娘こと時凍氷菓だったのだ。

 

 中継の最後、解説者の口にした言葉が、舞花の『検索結果』と合わさり木霊する。レート7──それは彼女が、《異端者》の頂点までの道のりを、半ば登り終わっている、ということに等しかった。

 異端深度とは、簡単に言ってしまえば《異端者》の強さだ。一説には異端世界とのつながりの強さを示すらしく、《異法》を用いて実績を稼げば稼ぐほど蓄積していく。ありていに言ってしまえば、RPGで言うところのレベルと経験値である。


 どうやら、随分と面倒くさい相手の裸体を見てしまったようだ。普通に生きていたらまず体験できない、得難い出来事であったらしい。今回ばかりは『特別』に感謝せざるを得ない。

 いや、そういうことを考えている場合ではなく。というか感謝よりも先に恐怖と戦慄を懐くべき情報だったわけだが、今のは。


「それで、《異法》は?」

「《異法》は《時よ止まれ、お前は雪景色の様に美しいグリム・ニル・メフィスト》。これも兄様の予想通り、周囲を異端世界に浸食していくタイプの法則みたい。《異法行為》は──」


 舞花がはっと頭上を仰ぎ見る。


「兄様!!」

「──ッ!」


 彼女の悲鳴に突き動かされるが如く、反射的に体が動く。

 次の瞬間、つい先ほどまで立っていた場所を、大量の雪が押しつぶした。いいや、その表現は正しくない。厳密には『突き刺した』だ。吹雪がまるでドリルのように収束・回転し、有司をひき肉にするべく落下してきたのだ。

 竜巻を思わせる凍てつく波動の大渦が晴れれば、その内から、機械鎌をまるで槍の様な形に変形させた時凍氷菓が姿を見せる。


「──《時は流れる、雪崩の様にグリム・ニル・バルズル》」


 数刻遅れて、氷菓の口からその名が紡がれた。

 直後、嫌な音をたててハイ・カーボン製の道がひび割れる。その『傷口』が、ぱきぱきと音を立てて凍り付いて行く。その様子に、有司も、舞花も、見物していた生徒たちも声が出ない。それだけの衝撃が、氷獄の《異法》から放たれた一撃にはあったのだ。


 圧倒的、という言葉が相応しい。有司がこれまで見てきたレート7が使う《異法行為》の中で、最も威力が高いかもしれない。まともに命中すれば即死。万が一耐えきれても、その体は端から凍り付いて行く。何をどうやっても死だけが待つ、文句のつけどころがない死神の一閃グリムリーパー

 そんな技を、何のためらいもなく繰り出してきた、ということは。


「こりゃ、土下座しても許される雰囲気じゃぁなさそうだな」

「当然です。あなたのような輩を生かしていたら、この先どのような形で再犯を成すか分かりませんから」


 間髪入れずに応える氷菓。既に彼女は機械槍を鎌の姿に戻し、次の攻撃の準備をしていた。大技で『消費した』と思しき背後の吹雪も、徐々にではあるが面積を増し始める。

 何が何でもこちらを仕留めるつもりらしい。ですよねー、と内心でため息を吐く。過失者側としてどうこう言える立場にないことは分かるのだが、それはそれとして命が惜しい。繰り返すが、凍死体になるつもりはないのだ。


「逃げ場はどこにもありませんよ。今なら特別に、一瞬で凍らせてあげます。大人しく投降してください」


 青い瞳を氷の色に光らせながら、氷菓は降伏勧告を飛ばしてくる。そこに冗談や慢心は一切ない。有司にすら分かる。詰みだ。ゆるり、と両手を挙げてしまう。


「お別れの前に、聞いておきましょうか。あなた、お名前は?」

「名前? 三橋有司だけど……何でまた今更?」

「あなたが死んだ後、来世でも呪い続けるためです」

「こっわ。言うんじゃなかったわ」


 そんなに下着姿を見られたことが屈辱的だったのだろうか。

 まぁ、分からないでもない。あれほどの肢体と、この見るからにクソ真面目な性格である。恐らくこれまで恋愛経験もなければ、異性に見せるなどもってのほかだったのだろう。

 それを、名前も知らぬ初対面の男に見られたとあっては、記憶抹消ですら飽き足らない、となっても、決しておかしくない……いや、結構おかしい気はするな?

 実際の所は、彼女自身が言うように再犯防止のためなのだろう。見せしめというわけだ。


「しゃぁねぇ、巨乳美少女に名前覚えられて死ねるなら本望だ」

「兄様?」


 立ち止まると、舞花を下ろす。彼女から悲鳴に近い声が上がるが無視だ。


「ただし約束しろ。妹には手を出すな。悪いのは俺だけだからな」

「……いいでしょう」


 どうやら、そのくらいの良識はあるらしい。実際舞花は何もしていない。しいて言うならスリーサイズを暴露したくらいだが、まぁそれも聞いていたのは有司だけだ。黙っていれば気付かれまい。


「行け、舞花」

「嫌。兄様が死ぬなら私も死ぬ。というより兄様を殺して私も死ぬ」

「やめろ舞花。お前は俺の世界で一番大切な妹だ。何よりも大事な宝物だ。俺にそれを喪わせないでくれ」

「でも、兄様……!」

「大丈夫だから」


 食い下がる舞花の肩を押す。綺麗な金色の瞳を、自らのちょっと曇った黒い瞳でじっと見つめながら。

 数秒ほどそのままでいると、漸く分かってくれたのか。こくり、と小さく頷いて、舞花は見物客たちの方向へと走って行った。

 その様子を確認し、有司はくるりと振り返る。

 死神は、もう、その鎌に絶対零度の刃を形成し始めていた。


「……お別れは、済みましたか?」

「まぁな」

「では、さよならです――目覚めなさい、《十二時の鐘が鳴る前に》」


 ゆるり。時凍氷菓が機械鎌を振り上げる。

 瞬間、ゴウッ!! という重々しい音と共に、彼女を取り巻く冬の世界、その全てがクリアブルーの刀身へと凝縮した。その吸引力は正統世界そのものにも及ぶ。つい数秒前まで春の緑に染まっていた木々が、一瞬にして枯れ木と化した。大気からも熱が奪われていく。渦を巻く吹雪のせいで、青空さえ隠れてしまった。

 最早二人の周囲は、正統世界などではない。

 ここはニヴルヘイム。極寒の世界──彼女の触れた、永久凍土の異端世界だ。


『う、うわぁぁぁっ』

『やべぇ、《白雪姫》の異法行為だ! それも本気の……!』

『逃げろ逃げろ! 余波だけで氷像にされるぞ?』


 観衆が散り散りに逃げ出す。ああ、その言葉は真実だろう。今ここに立っているだけでも、手足が悴み、本来立てるべきではないような凍結音を奏で出す。

 あの刃が完全に振り下ろされたときが、自分の最期だ。

 そして、その時はすぐにやってくる。


「兄様ッ!!」


 舞花の悲鳴が、耳に届くと同時に。


「――《時は凍てつく、氷の様にグン・グリム・ニル》……ッ!!」


 時凍氷菓、第二の《異法行為》が、不埒者を断罪するべく振り下ろされた。

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