第8話

   20日目


 朝六時前に起きることすら稀なのに、五時半には家を出た。桃太郎曰く「誰もいないうちに出発したい」とのことだった。何か思うところがあるのだろう。

 朝靄が立ちこめる河川敷には、ジョギングや犬の散歩をしている人もいなかった。わたしたちは土手を下り、野球のグラウンドを突っ切って、桃太郎がボートを係留している桟橋に辿り着いた。

「これ、餞別」わたしはビニール袋を差し出した。中にはさっき立ち寄ったコンビニで買った水やパン、おにぎりなんかが入っている。

「別にいいのに」

「よくない。食べなきゃ死ぬよ」

「じゃ、ありがたくいただくよ」

 ボートに荷物が積み込まれる。浸水はしていないようだけど、たしかに二人が乗れるような余地はない。

「それじゃあ、行くわ」

「うん」

「ありがとな、色々と」

「無茶はするなよ。危なくなったらすぐ助けを呼ぶんだぞ」

「まあ、その辺は大丈夫だろ。どうにかなるって」桃太郎はへらへらっと笑う。

「いや、どうにもならないこともあるって。世の中なめない方がいいよ」

「んー」ボリボリと、首を掻く。「でもどうにかなったからなあ、実際」

「何が?」

「だってあんた、おれのこと拾ってくれたじゃん」

 わたしは口を開けたまま、何も言えなくなった。大層まぬけな顔だったに違いない。

 そんなわたしを桟橋に残したまま、桃太郎はボートに乗り込んだ。

「悪いけど、そこのロープ外してもらえる?」

 わたしは言われるまま、足元の柱に結んであるロープを解いた。取れたロープは桃太郎に投げる。

 ボートがゆっくりと動き出す。

「達者でな」

「そっちがな」わたしは言った。「鬼退治、頑張れよ」

「そっちも転職活動、頑張れよ」

 わたしはたぶん、笑った。「どうにかするよ」

「ああ」桃太郎の口元から、白い息が漏れる。「どうにかなるって」

 わたしは桟橋に立って、小さくなっていくボートを見つめていた。いつまでも、本当の本当に見えなくなるまで、見つめていた。

「――寒っ」

 ジャージのファスナーを首元まで上げ、桟橋を後にする。グラウンドを横切り、朝露に濡れた芝生を踏んで、土手を上がり始める。

 急斜面。

 転ばぬように気を付けながら、転んでもいいかと思ったりしながら、上り坂を進む。

 早く上りきりたい。

 そんな気持ちになったのは、随分と久しぶりな気がした。


〈了〉

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桃太郎と桃子 佐藤ムニエル @ts0821

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