番外編
春の出会い――前編
不眠。
物心ついた頃から夜に眠れなくなった。時間が経つのは思ったよりも遅い。目を閉じて必死に意識を手放そうとするもネガティブな思考ばかりが脳内を旋回し、雑巾を絞ったような息苦しさに襲われる。
夜職の母は夕方あたりになると家を出ていく。静まり返った家の中で身を縮めながら朝になるのを待つ日々だ。
夜が明けて小鳥が鳴き始める頃、重い体を起こす。機械作業のように顔を洗い、歯を磨き、制服に袖を通す。ゆとりのある制服。飼っていたペットが亡くなってからというのもの、食欲も湧かずずいぶんと体重が減った。
学校は楽しくない。人の視線、声が嫌い。決定的な何かがあった訳ではないのに気が付けば常に孤独の沼に沈んでいるような感覚になる。学校には行きたくない。できるならベッドから出ないで1日中部屋の中に閉じこもっていたい。でもそうすると眉間に皺を寄せ虎のような恐い目をした母が私を叩き、不眠がより加速する。
玄関から出て、朝の乾いた空気の中に足を踏み入れる。木々が揺れる音がした。私はため息をついた。音が嫌い。笑い声、話し声、吹奏楽部の演奏、車の行き交う音。上昇する音の波形分、私の心の波は乱れ不快感が押し寄せる。だからヘッドホンをする。
自らの五感に蓋をしてただ歩いている。いつからだろう、こんな風になってしまったのは。どうして私は生きてるんだろう。何のために生まれてきたんだろう。未来への希望なんてものはなく、こうしてただ息をしてるだけの自分の存在に価値があるのだろうか。検索画面の一番上に出ている「まずは相談してみませんか」の文字を目でなぞりながら、私が死んだときの母の表情を想像してみた。母は笑顔だった。
教室――人を均等に分配して狭い空間に閉じ込めるための場所。
仕切りが存在するので、生徒たちの笑い声や話し声が反響してストレスが溜まる。誰かの奇声が鼓膜を叩いたところで耐えかねてヘッドホンをつけて耳を塞いだ。でも音を消したところで視線は消えてはくれない。クラスのいたるところからの視線が突き刺さる。みんな自分の悪口を言っているんじゃないかと疑心暗鬼になる。いっそ目も耳も不自由になってしまえば少しは楽になれるのだろうか。そっと目を閉じて机に伏せたところで突如聴覚が戻った。
「ねー、何聴いてんの?」
「……」
驚いて顔を上げるとクラスメイトの比較的うるさい部類の女子が私のヘッドホンを耳に当てている。何この人。話したこともない人の私物を取り上げて自らに装着する行動原理が理解できない。
「ん、あれ。音聞こえないー」
「何も流してないからね」
「え、なに、これファッションってこと? イカしてんね!」
「……ありがとう」
作り笑いを浮かべて席を立つ。
ぶっきらぼうな態度を取って目を付けられるのは面倒だから無難に接するけれど、行動原理の分からない人と必要以上に親しくしたくない。気を遣うのも億劫なのでこの場から離れたい。
「ねぇ、神田さんはさ、部活何入るか決めた? てか中学の時何か入ってた?」
ヘッドホンを受け取って背を向けたものの、構わずに話しかけてきて癇に障る。空気の読めない人間は嫌いだ。
「何も。ここでも入らないと思う」
背を向けたまま答える。
「そっかー……え、何、トイレ行くん?」
「うん」
「私も行くー」
女子は付いてきた。
最悪。
「ねぇねぇ、部活入らないってことは学外で何か他のことやってたりするの?」
トイレの手洗い台の前。鏡越しに尋ねられる。
「そういう訳じゃないよ」
特にやりたいことがあるわけでもないから、部活に入ったり放課後の時間を何かに充てるメリットがない。ただ、それだけだ。
「ねぇ、放課後暇だったらバスケ部見に行かない?」
そういうことか。薄々そんな気はしていた。
入学式を終え、現在何かしら入部を考えている1年生は放課後に部活見学ができる期間となっている。
ヘッドホンを取られたくだりから長かったけれど、この人の本当の目的は一緒に見学してくれる人を探すことだったようだ。
「……部活入るつもりないって言ったよね」
女子はそこをなんとか、と私の手を取って言った。
「私の友達みんなバレー部見に行っちゃうから一緒に行く人いないの! 一生のお願い! 神田さん付き合って。ジュース奢るから!」
一人でトイレに行けないタイプの人間って哀れ。
こんなことに一生のお願いなんて馬鹿みたい。
「はぁ……」
小中はずっとリレーの選手だった。
自分の運動神経は悪くないことは知っていた。でも結束だとか絆だとかそういう暑苦しいのは苦手。個人プレーならまだしもチームプレーなんてごめんだ。
たいして仲も良くない人のために放課後を捧げて、入るつもりのない部活見学。これほど気の乗らないものはないけれど、「一生のお願い」であれば仕方がないか。明日あなたが死んでもこれで私は清々しい気持ちでいられるわけだし。
首を縦に振った。
「え、良いの?」
「うん」
「やった、ありがとう! 神田さんてめっちゃ優しいね! てか下の名前で呼んで良い?」
「うん」
「やったー。飛鳥! やばい、めっちゃ距離縮まった感! クラスの男子に自慢しちゃおーっと。ふふ、名前で呼び合う仲になれたね」
「うん」
私はあなたの名前、知らないけどね。
――――――――――――――
放課後。
体育館は校舎から少し離れた場所にある。クラスメイトに手を引かれて中庭の階段を降る。バスケットボールが床に打ち付けられる音や、キュッと擦れるバッシュの音が体育館から漏れている。
階段を降り切り、体育館の中を覗くと、練習に打ち込んでいる部員が数人程度いた。気がついた先輩に「あ! 見学の子?」とハイテンションな様子で迎え入れられた。
「えーかわいい! 名前なんていうの?」
「バスケやってた?」
「今気になってる部活ある?」
客人である私たちはあっという間に先輩たちに取り囲まれて、質問攻めを受け、不自然なまでに持ち上げられた。一緒にいたクラスメイトは中学でもバスケ部だったらしく、試し打ちのフリースローが1本決まっただけで大盛り上がり。先輩のおもてなしに満更でもなさそうだった。
私は最初から入る気はさらさらないので、やりづらさを感じる中で心を無にして相槌を打つのに徹した。
「バスケ部はまじ皆良い人だし先輩超優しいから入った方が良いよ! 合宿とかもめっちゃ楽しいからおすすめ」
「ねぇ、今年1年生入ってくれないと試合出られないかもなの! 入部して!」
「まじでお願い!! 信じてるからね? お願いね?」
特に勧誘熱心なのは3年生の2人。
怪我をしていて休部中の部員も多いらしく、試合を優位に進めるため新たな部員を確保するのに必死。3年生という学年カーストの最上位にいるのを良いことに、その特権をフル活用した脅しにも似た圧をかけられた。
帰りたくて仕方なかった。
「ねぇ、先輩たち超良い人じゃない?」
部活見学がようやく終わり、校門に向かって歩いていると、クラスメイトは顔を綻ばせながら言った。
ちやほやされてご満悦な様子。
「そうだね」
部員数を稼ぐために新入生に良い顔をするのは当たり前でしょ。最初は優しくても化けの皮が剥がれるのなんて時間の問題だと思うけど。
「ちょっと待って!」
「?」
後ろから声がして振り返ると、先ほどのバスケ部の2年生の先輩が駆け足でやって来た。先輩たちの猛勧誘の中、比較的輪の外にいた人だがオーラがあったので印象に残っている。
私たちは足を止めて先輩が来るのを待った。
「今日はありがとうね」
「いえ、こちらこそ……! 先輩たちめっちゃ優しそうだし入りたいです。今週中には入部届出しますから!」
「あはは、そっか。みんな喜ぶと思う。一緒に頑張ろうね!」
少し背の高めのその先輩はポニーテールをふわっとさせながら笑った。目尻が下がり、半円の口元に伸びた鼻筋。作り込まれたような綺麗な笑顔に視線を外せなくなる。
「お! なに、そっちも終わりー?」
その時、一緒にいたクラスメイトは、通りかかった友達を見つけて大きな声を出した。
「え、ナイスタイミングじゃん! 一緒に帰ろう!」
「うん! 飛鳥、今日はありがとう! 先輩も今日はありがとうございました!」
クラスメイトは一礼して友達のところに走って行ってしまった。去るときは本当にアッサリ。所詮私はあの人にとっては自分がひとりぼっちに見られないようにするための飾りでしかなかった。上辺だけの友達関係なんてそんなもんだし別にこっちも期待してないから良いんだけど。
「わざわざどうして追いかけて来たんですか。見学のお礼を言いに来ただけですか」
置き去りにされたところで、ポニーテールの先輩に問うた。
お礼なら体育館を出る時に言われた。考えられるなら入部の念押しだろう。今は相手は1人だし、ここで曖昧な返答をして変に期待させるよりは入るつもりがないことをしっかり伝えなきゃ。
「あ……。先輩、あんなこと言ってるけど気にしなくて良いからってことを……。あの子、光ちゃんは入るみたいだけど、飛鳥ちゃんにとってプレッシャーになってたら申し訳ないなって思って」
先輩から出た言葉は予想外だった。
「ふふ、優しいですね。わざわざそれを言いに来たんですか」
「うん。こういうのって無理やりやってても楽しくないし……ね」
この時、一瞬先輩の表情が曇った気がした。
再び目が合うと先輩はとびきりの笑顔で笑った。やはりそう、笑顔が綺麗すぎる。私はどこか違和感を覚えた。
「まるで自分は無理やりやってる、みたいな言い方をしますね」
「え、そんなことないって。私は楽しんでる、よ! うん」
少し早口で先輩は言うとまた笑顔を作った。
「そうですか」
この人には何かある。
直感でそう思った。まるで演じているかのような違和感。何かを隠しているのだろうか……何かは分からない。知りたい。自分の中にずっと眠っていた関心や好奇心といった感情がじわじわ目覚めていくのを感じた。
「あのさ、入るなって意味じゃないからね? 飛鳥ちゃんにとってバスケが楽しくて、それで私たちと一緒にやってくれるならすごい歓迎したいって思ってるし……」
私が無意識に先輩の目を凝視してしまっていたためか、先輩は今度は少し気まずそうに笑った。
「先輩。名前、何ていうんですか」
「え、私?」
「はい」
「……春輝だよ。京本春輝。みんなからは男っぽいってよく言われるんだけど一応女」
先輩は少し照れくさそうにしていた。
先ほどの綺麗すぎる笑顔とはまた違った自然な笑顔。かわいいと思った。
その日の夜、ベッドに入ってから1日を振り返る。
別れ際に聞くようなことだったんだろうか。人の名前になんて興味ないはずなのに……。1日のうちのほんの僅かな時間でしかなかったのに思い出すのは先輩のことばかり。あの笑顔、仕草……。何をするにも無関心でただ言われたことを無難にこなすだけの日々だった私にとってはこれは大きな変化だった。芽の出た小さな好奇心。心のどこかで喜んでいる自分がいた。
部活見学の日以来、私は春輝さんをどこか意識するようになった。今日は会えるだろうか。制服に手を通す度にそんなことを考える。学校に行きたくないという気持ちが薄れた。
廊下で春輝さんを見かけると満面の笑顔を向けて手を振ってくれた。今日も会えた。私を見てくれた。どこか心がむず痒いような、ほっと温まるような、そんな気分になる。季節の「春」に「輝」く、と書いて春輝。授業中、ノートの空きスペースに何度も彼女の名前を書いてみた。読んで字の読んで字の如く、この春に私を照らしてくれる光。その光が私の好奇心の芽を生やした。一緒にバスケ部を見学したクラスメイトの名前は光。彼女は私を照らしてはくれないけれど、春輝さんに会えると私の1日は明るくなる。次第に運頼みにするだけでは物足りなくなり、2年生の教室の前を意味もなく往復してみたりするようになった。
春輝さんにはいつも周りに人がいて、みんな彼女を取り囲んでいる。性格が良くて成績優秀で運動神経も良い。スラッとしたルックスに気さくな性格もあって後輩人気も高く、1年生の廊下を歩けば「春輝さん春輝さん」とどこからか聞こえてくる。
気が付けば彼女のクラスの時間割を完璧に覚えるまでになった。今この時間、この瞬間に何をしているのか想像するのが楽しい。日に日に侵食されていく脳内。どうしてここまで惹かれるのだろうか、自分でも言語化できない。けれど磁石のように、強烈に私を引き寄せる何かが確かにそこにはあった。こんな感情は初めてで、しかも相手は同性。戸惑いを覚えないわけではなかった。でも、春輝さんは非常に人気があったから、私もその波に乗っているだけ。思春期特有のその手の感情だろうと飲み込み片づけていた。
「ねぇ、飛鳥ちゃんもう入部決めた?」
「バスケ部入る? 1年もう3人は入部決めたって!」
部活見学後、他の先輩や光は会うたびに入部をそそのかして来た。
春輝さんは1回も催促をして来なかった。たった1度もだ。
――――「貴女」が。貴女が直接私を誘ってくれるなら、入るのに。
仮入部期間がもうすぐ終わる。
学校も一時に比べては生徒たちもだいぶ落ち着いてきた頃のこと。
6限は体育。当番だった私はグラウンドの横にある体育倉庫にコーンを運んだ後、鍵を閉めた。その時にダン、ダン、と聞き覚えのある音が耳に入った。もしかして……。引き寄せられるようにして音の場所に向かう。
古びた建物――第二体育館。以前は授業や部活ではここを使っていたらしいが新しく体育館を造設するにあたり今では使われなくなった場所。ゆっくりと中の様子を窺うと、息を切らした春輝さんが両膝に手を当てていた。私の心臓は高鳴った。
「お……やっほー! どうしたの?」
私の姿に気が付いた春輝さんは笑ってこちらまで駆け寄ってきた。
「自主練ですか」
「うん……」
「どうせなら新しいところでやれば良いのに、わざわざここまで来てるんですね」
「いやぁ、なんか見られるの恥ずかしいからさ」
春輝さんは壁際に腰かけてバッシュの紐を結んでいる。制服では隠れて見えなかったテーピングだらけの手足。こうして部活のない日も、他の生徒の目をはばかって練習。みんなから尊敬され、慕われる部長候補の笑顔の裏には、血のにじむような努力が隠れていることを悟った。
私は隣に腰かけた。
「よくここで練習してるんですか」
「うん。ここは人気少ないし集中できるから。……みんなには内緒だよ?」
内緒、という言葉に心ときめく。
春輝さんは自分の努力を人に隠している。でも私の前では隠さずにいてくれている。それだけでもすごく嬉しくて胸元のリボンをきゅっと握った。
「放課後はここに来れば春輝さんに会えますか」
「部活ない日はわりといると思うけど……。私に会いに来てどうするのさ。一緒にバスケする?」
「……春輝さんは勧誘してくれないんですか」
「ん……部活のこと?」
「はい」
そっと目を伏せた。
春輝さんは無理して入らなくても良いと言ってくれた通り、他の先輩と違って入部にプレッシャーをかけてくることはなかった。私はバスケは未経験だし身長も高くない。1年生はある程度の入部が決まっている状況の中で、私が入ったところでチームの戦力になれるわけでもない。それは分かっている。
でも、それでも。貴女からの言葉が欲しかった。これはわがままなことなのだろうか。
「春輝さんに言われたら入ろうと思ってました……」
「まじ……?」
「卑怯な言い方かもしれませんが……邪魔じゃなければ、私を少しでも必要としてくれるならこの場所のこと、秘密にします。だから……」
「飛鳥ちゃん」
「……」
両腕をガッと掴まれた。
正面にある春輝さんの2つの目。呼吸をするのを忘れた。
「私と一緒にバスケしよ!」
体温が急上昇した。あの瞬間、もうここで死んでも良いとさえ思った。
他の誰でもない春輝さんからの直接の勧誘。この日のことは一生の思い出になった。
「……はい。お願いします」
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