甘い罠

 オフィスの1階には高級スーパーと、ムーンバックスという名前のカフェがある。出社時、ビルに入るとふんわりと高貴なコーヒーの香りに出迎えられるのはこのカフェがあるからだ。時間がある時はここでホットコーヒーを買って執務室に持っていくこともしばしば。そして、夜にはお酒の提供も行なっており、仕事帰りに立ち寄る人も少なくない。そんなことで、仕事の終わった私はフラペチーノたるものを2人掛けのテーブルの上に置いて水野を待っている。



 横内さんと水野を2人きりにさせたくないのだが、業務上彼らはこの時間に1on1をすることになってしまっている。水野が何かされたらぶち殺すために今こうして戦に出かけた彼女の帰りを待ち構えているといったところだ。

 フラペチーノの上に乗っているホイップクリームを一口すくって口に運ぶ。なめらかなクリームが瞬時に溶けて口全体に広がり、後から甘みが追いかけてくる。疲れ切った脳に染み渡る感動的な甘さに「うまい」と素で声が出た。こういった部類のものははあまりチョイスしないが、コンビニで買ったスイーツをこっそり家で食べるくらいには実は私は甘いものが好きだったりする。



 こんなところでスイーツを1人で貪っているのを知り合いに見られてないかと、若干人目が気になりながらもフラペチーノを堪能していると、ほどなくして手にアイスティーを持った水野が現れた。



「お待たせしました」


「お、お疲れ。どうだった?」


「特に業務以外の話は出ませんでしたね」



 鞄を下して水野は向かいに腰掛けた。



「え……まじ?」



 横内さんのことだから、しつこく水野に言い寄ってくるのではないかと思っていたがそうでもなかったようで、なんだか拍子抜けだ。



「はい。今日は連絡も一切来てないですし、妙ですね」


「横内さんも察したっていうか……諦めたのかな」


「どうでしょう。そうであったら嬉しいことですが」



 水野はふっと息を吐いて、ストローに口をつけてアイスティーを飲んだ。



「寺内さんが昨日の1on1で横内さんに新庄さんの件を相談したと思うんだけど、それが何か関係あったりするのかな……考えすぎか」



 あの日から目は合わせてくれなくなったが寺内さんは翌日には復活し、昨日、横内さんと1on1をしていた。

 会話の中身を聞いていないのでどこまで話しあったのかは知らないが、相談が実行されていれば今後横内さんは新庄さんに何かしらアクションを起こすんじゃないかと思う。

 それがもしかしたら水野を巻き込む何かに繋がっていて……。嵐の前の静けさ、とはこういうことではないかと色々考えてしまうが、そんなことはない、か。横内さんに対する不信感から、何でも疑ってしまうのは仕方のないことかもしれないが、我ながら少し考えすぎな気がする。



「どうでしょうね。私としては新庄さんが中途チームに戻されないことを祈るばかりです」


「そうだね……。でも新庄さんも横内さんの気分だけで動かされて気の毒だわ。転職したばっかりなのに。かわいそう」



 新庄さんは上司の私利私欲のために利用された。本人は何も悪いことはしていないのに、と言ったら嘘になるかもしれないが根は別に悪い人ではない。カタカナの多い話し方とマネジメントの仕方をなんとかしてもらえば良い話で……。

 本当の悪人は、横内さんみたいな人のことを言うんだろう。



「ひどい目に遭わされた相手なのによくそんなこと思えますね」


「……新庄さんも悪意があってやってるわけじゃないっていうのは分かってるから」


「……」



 水野は無言になった。

 え……私何か変なこと言っただろうか。確かに水野は体を張って頑張ってくれたわけだけど……新庄さんの肩は持たない方が良かった……? でも別にこれくらいなら大丈夫……だよな。

 若干の不安を補うようにストローの先についたスプーンで中のジャキジャキとしたフローズンの部分をすくって口に入れる。



「とりあえず……1on1で飛鳥がセクハラ、パワハラされなくて良かった。それだけが心配だったから」



 取り繕うようにして会話を繋げた。



「はるちゃん、今日家に行って良いですか」



 え?

 守備範囲外からの突然のジャブにぽかんと口が開いてしまった。



「え、今日……?」


「はい」



 これって……もしかして誘われている……?

 この前も水野はしたそうにしていたけれど、付き合ったばかりだからということで流していた。しかし、こうも早く仕掛けてきてしまうのか。

 焦る。水野のことは好きだ。そういうことをしたくない、とは決して思ってはいない。でも今回の相手は同性。年上である私はリードする立場として予習が必要だし、心の準備も……必要だ。今……ではないのだ。潮はまだ満ちていない。



「部屋あんま片付いてないから……」



 私の部屋にはモノがそもそもあまりないので、散らかりようがない。ジャージがベッドに無造作に放りつけられているくらいで、依然としてガランとした部屋になっている。

 もっとマシな嘘をつけなかったかと言った後で後悔。甘いものを摂取したはずなのにうまく脳が回転しないのは、わりと私が動揺しているからだろう。



「では私の家に来ますか」



 負けじとジャブに次いでクロスを放つ水野。



「いや、一緒にいたいのは分かるけど明日も仕事あるじゃん……?」


「……」



 水野はストローでアイスティーをかき混ぜながら首を少し傾げて口をつんと尖らせた。かわいい仕草だが無言の圧力がすごい。



「あの……」


「……」


「水野さん……?」


「はるちゃん、お酒飲んでないんですか?」


「え、うん。……なんで?」


「私、強いお酒が飲みたいんですが付き合ってくれませんか。今から買ってくるので」



 水野は財布を片手に席を立ちあがった。



「待って。じゃあまず手元のアイスティー飲んでからにしなよ。強いお酒って何頼むつもりなの? 私あんま会社では醜態晒したくないから飲んでも1杯とかにするよ?」



 いきなり家に行きたいと仕掛けてくるし、急にお酒飲みたいとか言い出してこいつは何考えてるんだ。



「告白してくれた時は何をどれくらい飲んだんですか」


「なんでそんなこと聞くんだよ!」


「あの時のはるちゃん……すごくかっこよかったです。お酒飲んだらもう少し積極的になってくれるのかなと思いました」


「はぁ……? ちょっと一旦座ろう?」



 真摯に目で訴えると、水野は徐に椅子に腰かけた。



「一緒の時間を作りたくないわけじゃないから。だからこうして今会ってるし、週末も食事する約束したじゃんか」


「……私は今日もはるちゃんの写真を見ながら1人で、して……はるちゃんとする想像をしながら1人寂しく寝るんですね」



 こいつは何を……みるみる自分の顔が赤くなっていくのが分かった。



「お、おい、ばか! ここオフィスだぞ。誰かに聞かれてたらどうすんだよ!?」



 自分が水野の想像の中で「役割」を果たしている。こんなことを平然と普通に言えてしまうのはさすがとしか言いようがない。なんだかむず痒い気持ちだ。もちろん相手が水野であれば不快だなんてことは決してないが……。

 さすがにこの場所はまずい。幸いカフェの中には見慣れた顔がいないのが救いだ。



「誰かに聞かれたら大変、リスクですね。憧れのオフィスラブができてるんじゃないでしょうか」



 この女……恥ずかしい部分だけ切り取りやがって……。人を挑発するスキルは健全だ。



「おい、雑草女。口を慎みなさい」


「いつまで待てば良いかご教示ください。そうしたら黙ります」


「はぁ……?」


「……はるちゃんがそういうのを大事にしたいというのは理解はしてます。ちゃんと段階を踏んで美しい物語にしたいんですよね」


「ちょっと、なんなの……」


「良いですよ、尊重します。でも……私はいつまで待てば良いのでしょうか。先が見えない中で焦らされ続けるのは不安でしかないです。このままずっと触れてくれないのかと思ってしまいます。……私に触れるのは嫌ですか」



 水野は悲しそうに目を伏せてしまった。

 あぁ、そういうんじゃない。私は水野を不安にはさせたいわけではないのに……。自分のことを好きではないんじゃないかと思ってこのような表情をさせているならちゃんと訂正しなければならない。



「いや、そういう訳じゃないから。触れたいって気持ちはめっちゃあるから!」


「じゃあいつにするか教えてください」



 水野はにやっと笑った。

 ……こいつ、この流れにもっていくのも計算のうちだったのか……?

 っていうかこんな詰め方ある? 今まで色んな人と仕事をしてきたが、こんな強引はやり方で詰めてくる人はいなかったぞ……。



「こんな風に詰められるの初めてなんですけど」


「はるちゃんの初めてをいただけて嬉しいです。それで、いつにしましょうか」



 一歩も引きさがる気配はない。

 リング上、相手の猛攻に引き下がっていたが、私が向き合わなければ攻められ続けてしまう……。覚悟を決めるしかないだろう。



 いつにするか……。難しい質問だ。早すぎても私の心の準備が間に合わないし、遅すぎても水野を不安にさせてしまうだけだ。とすると……。



「えー……2週間後、とか?」


「今日からちょうど2週間後で良いでしょうか」


「あ、いや。金曜日とか……で……」

 

「分かりました。再来週の金曜日の定時後の予定は入らないようブロックしておかないとですね。カレンダーにもしっかり書いておきます」



 水野は携帯を操作して何やら入力している。



「あの……なんて書いたの」


「え? はるちゃんとセ――」


「待って! それ会社用のカレンダーに書いたの!?」



 会社用のカレンダーにそんなこと書かれたら死ぬ……!



「書いた方が良かったですか?」


「それはやめてください!」



 書いたのはプライベート用の方だったようで良かった。

 さすがに会社用のだったらやばすぎる。……本当に何をしでかすか分からないところが怖い。



「分かりました、やめます」



 水野は携帯を鞄にしまった。

 念ため水野の会社用のカレンダーを確認したが、金曜日は定時後のところに「ブロック」と書かれているだけだった。

 ほっと胸をなでおろして残りのフラペチーノをストローですくった。

 予定が決まって嬉しいからか水野は先ほどより柔らかい表情になっているように見える。



「……あのさ、私と付き合ってから誰ともしてないの?」



 あそこまでセックスに強い執着があるんだ。本人も依存を自認していた。私とできないから、と他の人とそういう関係をもし持っていたならばショックだ。していないと信じているが……。



「してません」



 水野は即答した。



「そっか……」



 これは……信じて、良いよね。



「ベッドに入った時、すごくはるちゃんの声が聞きたくなります。でも、抱きしめてくれた感覚を思い出すとよく眠れる気がするんです」



 やれやれといった笑みを浮かべてアイスティーをストローでかき混ぜている。

 誘惑を絶ち、ちゃんと一途に想ってくれている。

 急に愛おしさが込み上げた。



「……」



 水野のコップを持つ手に自分の手を重ねた。



「見られても良いんですか」


「あぁっ……ごめん、つい……」



 手を離そうとすると、水野のもう一方の手によって挟まれてしまった。



「良いですよ、触れてくれるのは嬉しいです。私もここに座った時からずっとはるちゃんにキスしたいって思って見てましたから」



 妖美な視線。



「……」



 あまりにも甘いボディブローに息が詰まる。

 人がどんな言葉でドキドキするか、とかきっと分かってるんだろうなと思う。悔しいけど、今の私は完敗だ。



「あ、ここに座った時からというのは訂正します。正しくは、いつも、です」



 水野はニコっと笑って私の手を解放した。



「……私も、したいよ」


「今ここでというのが嫌なら、これで我慢してあげます」


「あ」



 フラペチーノのスプーンが奪われて、水野の口に入っていった。



「甘い、ですね」


「甘すぎるよ……」



 この策士に耐性を付ける方法を教えて欲しい。

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