打倒

 小ぶりの会議室の中。トクントクンと脈打つ心臓を鎮めるように、深いため息をついてテーブルの一点を見つめる。無音。でも確実に時は動いている。時計に目をやる。もう約束の時間は少し過ぎている。もうじきだろうか。この先待ち受けているであろう光景を連想しては、時計の針と共に不安が露骨に姿を現しはじめる。

 その時、ぼかしのかかったガラスに男の影が映りこんだ。来たか……。私はテーブルの下の拳を握りこんだ。



「わざわざ会議室を取らなくても、YESって一言言ってくれればそれで良かったんだけどねぇ。この後も色々入ってるから手短に頼むよぉ、京本さん」



 ムーンバックスで買ったのだろうか、コーヒーの入った紙カップを手にした横内は入るなりそれをテーブルの上に置き、脇に挟んでいたノートパソコンをテーブルの上で開いた。

 向かいに腰かけた横内に対して口を開く。



「お忙しい中、お時間いただきありがとうございます」


「……まずは結論から聞こうか」



 かったるい形だけのやり取りなんて必要ないと言いたげな横内はこちらをギロっと睨みつけた。

 断ってくれるなよ、という意思をビンビンに感じる。男性にこのような視線をあまり向けられたことがない私は、自分の中で緊張感がぐんとのし上がるのを感じた。



「今回の件はお断りします」



 相手の圧に屈してはいけない。あまり視界にはいれたくないが、しっかりと目の焦点を横内に合わせて言った。



「へぇ、関西に行くんだ?」



 挑発した口調で横内はそう言うと、ノートパソコンにカタカタをと何かを打ち込んでいる。手続きをする準備でもしているんだろうか、またはその素振りか……。

 見ていて愉快なものではない。



「……関西に行くつもりはありません」


「会社やめんの?」


「やめません」



 私はここに残る。そして水野と一緒に仕事をする。会社を去るのはお前だ。

 横内はノートパソコンを乱暴に閉じて、大げさにためいきをついた。腕を組み、首をかしげて不服そうな表情で私を見ている。



「面白いこと言うねぇ。そんなこと言ったらもう俺とヤるしかないじゃん。飛鳥ちゃんにはこのこと言ったんだよね? 何て言ってた?」



 キモいから、ちゃん呼びするんじゃねぇよ。

 水野と一緒にいる時はそう呼んでいたりしたんだろうか。なんて思うと血管の1、2本は容易に切れてしまうような気がする。

 水野が提案を受け入れるだろうと思っているからこんなことが言えるんだろうが、冗談じゃない。自惚れも大概にしろ。



「……私たちの答えはNOです。関係を持つつもりはありません」


「かわいくないねぇ、本当」



 横内は顔をしかめた。

 あなたの前でかわいくある必要なんて微塵もない。



「……」


「ちっ……あっそ。もういいよ、じゃあ。関西行きの手続きしとくから。離れ離れになるけどせいぜい頑張れー。関西で良い女の子でも見つけられると良いね、レズさん」



 少しの沈黙の後、投げやりな口調で横内は言うと、ノートパソコンを折りたたみ席を立った。



「どこに行くんですか」


「もう話は終わったんだから戻る。忙しい中、わざわざ時間作ってこれかよ。ちっ……」


「……」



 席に座って沈黙を貫いていると、横内は気持ちの悪い笑顔を向けてきた。



「なに、今なら訂正しても良いけど」


「……訂正はしません」


「へぇ。んじゃ、ばいばーい」



 遠ざかる影。

 クソ。ここで去られたら困る。

 横内が会議室の扉に手をかけたところで、私は内ポケットに入っていたペンを取り出した。



『ふはっ。女同士も良いかもしれないけどさぁ……京本さんは指で満足しちゃうの? 男が欲しくならない?』


「……!?」



 突然再生された音声に驚いたのか、横内は振り返ってこちらを凝視した。



「この間の1on1、録音させていただきました」


「え……」



 ペンの頭に取り付けられているスイッチを押して、流れ続けている音声を一時停止する。



 ――新卒時代、記念すべき初任給。何か特別な物を買いたいと思いつつも、特に欲しいものなんてなかった。

 一緒に研修を受けた同僚たちは皆、親へのプレゼントだとか、家族を食事に連れていくと言っていた。本当、良い奴らだなと思った。……対して私は家族が嫌いだったし、ほぼ縁切り状態。日頃の恩返しをしてあげたいと思える家族のいる同僚たちが正直意味羨ましかった。

 結局私が買ったものはペン型のボイスレコーダー。別に欲しかった訳ではない。朝、ニュース番組を入れた際に女性議員のパワハラが録音された音声が報道されていたのを観て、「私も証拠を押さえてパワハラ上司がいたらやっつけてやる」というただの思い付き。何となく、その場の勢いで購入しただけだ。

 しかし、幸いにも今まで上司には恵まれていたので使う出番は出てこなかった。初任給の思い出の品として、家の文房具入れにずっと入れっぱなしの状態だった。



 横内さんとの1on1の日、何の偶然か、たまたまこのボイスレコーダーが目に入った。手に取って見るがあいにく充電が切れていた。とりあえず入れておくか、と出発するまでの数十分充電し、内ポケットに入れたが、後にこの行動が吉を呼ぶことになる。何かに導かれるようにペンを取ったあの光景を思い出すと、神様は本当にいるのか、なんて思ってしまう。

 あの日、1on1で横内からセクハラ発言を受けて、これは録音しなければならないと咄嗟に思った。しかし、録っているということは相手にバレてはいけない。悟られぬよう、私は服の襟元を握ったように見せかけて内ポケットにあるペンの録音ボタンを押下したのだった。



 内ポケットに入ったままの録音だったので音質が綺麗に録れた訳ではないが、発言内容はしっかり聞き取れるし、発言者が横内だと証明するには十分なものだ。



「横内さんからハラスメントを受けたとし、人事部VP始めとしてコンプライアンス課にこれを証拠として提出します」



 本人は揉み消す的なことを言っていたが、いくら地位が高いとはいえここまで証拠が揃えば逃げる余地はない。社内中にこれがばら撒かれてしまったら会社を去らざるを得ないだろう。

 まずは横内をDAPから追い出す。もうこんな最低上司と仕事をするなんてごめんだ。



「は!?」



 横内は目を大きく見開いた。信じられないといった表情で口元がガタガタと動いている。



「そして……同時に刑事告訴します」



 冷静に、淡々と告げる。

 思うに横内が会社から消えるだけでは制裁としては足りない。卑劣極まりない手を使ったんだ。

 社会的にも罰を受けるべきだろう。



「……ちょっと待て。こんなの勝手に録って良いと思ってんのか? それこそ犯罪だろ!」



 声を荒げた横内はこちらにずんずんと歩み寄って来た。うわっ……。

 思わず相手の感情に思わず乗っかってしまいそうになってしまうが、あくまで自制するよう心に呼びかける。こういうのは大抵、落ち着いている人が勝つ。感情を荒げて自分の粗を出してしまってはダメだ。



「いいえ。これは裁判をする上での証拠になりえるもの。違法として証拠能力が否定された事例は過去にはありません」



 著しく反社会的な手段を用いて人の精神的肉体的自由を拘束するなどの人格権侵害を伴う方法によって録音した場合には違法となるが、今回は違う。

 盗聴と言えば聞こえは悪いが、証拠を捉えるために正当に行ったものに他ならない。



「……」



 横内さんは大きく肩を上下させている。明らかに動揺しているのが見て取れる。



「この録音を聴く限り、あなたは名誉毀損罪、脅迫罪、恐喝罪、リベンジポルノ防止法違反に値します。立派な犯罪です」


「つらつらつらつらと……弁護士か何かですか!?」


「あいにく弁護士ではありませんが……大学では4年間法律を学んでいましたので。私の書類をご覧になられたのならもうご存じだと思いますが」


「っ……」



 ぶっちゃけ法学部だからといって、もう大学で学んだことはだいぶ忘れている。

 録音を聞きながらどの刑法に該当するかを、水野と一緒に調べた。頼もしいことに、水野も大学は法学部出だったのだ。

 法律に特別今は詳しいわけではないが、あえて自分が法律を4年間学んでいたと言ったのは、ただ横内を脅すためだ。「法律に長けている私」が、具体的な罪名を明確にすることで、裁判でどれくらい痛い目を見るかを誇張して横内に知らしめることができる。

 固まっている横内の反応を見ると、この作戦はうまくいっていると思う。



「もう告訴の準備はできています。弁護士の当てもあります。もし前科がついたら……あなたは会社での立場を失うだけでなく、社会的な立場も失うことになりますね」



 刑事告訴の流れも水野と一緒に確認した。水野の件も正直訴えてやりたかったが、横内は脅迫しているわけではないし、双方に同意があったのでそれは厳しかった。

 私の場合は実際に手を出されている訳ではないので、横内にはそこまで重い罪がのしかかる訳ではないと思う。告訴状が受理されるかも分からない。弁護士には何十万も支払わなければならないし、裁判所まで何度も通わねばならないので手間ではある。でも横内をぶちのめしたいという思いの方が強いのでこれで良い。



「分かった。じゃあ関西転勤の話は流す。それで良いだろ?」



 人から「訴える」と言われるような経験はそうないものだ。

 動揺し、怖気ずいたのか急に態度を変えてきた。



「……それだけで済むとお思いですか?」



 あれだけ言われといて、転勤の話を無しにするだけなんて冗談じゃない。



「金を渡す! これでどうだ!」


「参考までに聞いておきますが……おいくらを想定してますか」


「……30万」


「……呆れて声も出ません」



 大きくため息をつく。

 心底失望。こいつは自分のしたことがどれくらい愚かなことなのか、自覚していないんだ。



「おっと。手がすべってしまった」



 横内はテーブルに置いてあるペンを取り上げて、そのままコーヒーの入っている深底の紙カップに入れた。



「……!」



 わざとらしく紙カップを揺らした横内は、コーヒーの茶色の液体を滴らせたペンをおもむろに取り出して、私の目の前でカチカチとボタンを何度か押した。



「あはは! ごめんごめん、もうボタン押しても動かなくなっちゃった。今度弁償するよ」



 横内は勝ち誇ったように笑った。

 


「なんてことを……」



 本当にこいつ、どこまでも腐ってやがる……。



「あんま調子乗ると良くないよ? 女の子は男には力じゃ勝てないんだからさぁ! 部下のくせに挑発しやがって。なめんなよ。こんな密室に2人きり、俺に何されても良いってことだよなぁ? あぁ!?」



 横内はジャケットを脱いで怒鳴った。思わず身構える。大丈夫だ、落ち着け……。

 私は携帯を手に取り、ディスプレイを横内に見せた。画面には「通話中」の文字が表示されている。



「……この会話も今、水野さんに録音してもらっています。私に手を出しても構いませんが、あなたに罪が上乗せされるだけですよ」



 当初の計画にこの会話を録音する、というものは含まれていなかったが、水野の提案によって遂行が決定した。ナイスだ。



「てめぇ……でも盗聴器は壊した。お前は大事な証拠を1つ失ったわけだ!」


「盗聴器を壊したくらいで何ですか。甘く見られてもらっては困りますね」


「なんだと……?」



 ひしひしと笑いがこみ上げる。



「バックアップ」


「……!」



 横内は凍り付いたような顔になった。



「取っていないとでもお思いですか?」


「……」


「大事っておっしゃってましたもんね、バックアップ」



 初回の1on1、相手の提案を断った上ですぐに訴えると畳みかけなかったのには2つの理由がある。

 1つは、告訴をする上での情報収集をすること。そしてもう1つはバックアップを取るためだ。

 横内さんはバックアップを取るようにメンバーに呼びかけていた。私はそれに忠実に従ったまでだ。



「頼む……いくら払えば良い? 何でもする。頼む!!」



 横内は私の前に跪いた。



「お金なんていりません。私はあなたが正しく社会的に罰を受けることを望みます」



 私はお金が欲しいわけじゃない。

 横内さんは自分の持っている権力を良いことに、調子に乗っていた。別に調子に乗るのは良い。でも、越えてはいけない領域というのは存在していて、今回はそれを越えてしまった。

 法律というものは秩序を守るため、そして同時に弱者を守るために存在しているものだ。悪いことをした者はそれなりの報いを受けなければならない。自分の罪がどれくらいなものなのか知らしめなければならない。これ以上、同じような被害を増やさないためにも。



「……」



 横内の瞳は曇っていた。

 跪き、呆然とただ地面の一点を見つめている。



「どうぞ、私の関西行きの手続きをお済ませください。私はまずコンプライアンス課にを済ませますので」




 会議室の入り口の扉に手をかけ振り返る。

 横内は依然と地面の一点を見つめていた。



「……」



 終わった。

 さようなら、横内さん。

 


 扉を開けてエレベーターを目指して歩くと、水野と鉢合わせた。



「はるちゃん……」



 水野は少し息を荒げている。音声を聞いてここまでやって来てくれたんだろう。



「チェックメイト」



 ピースを作って歯を見せて無邪気に笑った。



「本当にかっこ良かった……。大好きです」


「飛鳥のおかげだよ、色々ありがとね」



 私たちの連携プレーは業務外でも健在だ。

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