翌朝の一間

 翌朝。

 目が覚めて時計を確認すると時刻は9時だった。カーテンの隙間から漏れる太陽の光が部屋をぼんやりと照らしている。隣にはかわいい寝顔がある。愛おしくなって頭を数回撫でて前髪を少しかき分けた。いつも前髪で隠れてしまっているが、おでこ出してもかわいいと思う。

 白いおでこにソフトに口づけると水野はゆっくり目を開けた。



「おはよ」


「おはようございます……ふふ、幸せです」



 普通におでこにキスしてしまったが、起きてたのだろうか……水野はなんともかわいらしい少女のような笑顔になった。

 同性と初めて付き合ってみて分かったことだが、女性は「かわいい」。これに尽きる。これまで何とも思ってこなかった仕草やちょっと拗ねたような顔などが今になってグサグサと刺さって来るようになった。

 


「……眠れた?」


「はい、こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりです……」


「そっか、良かった。あぁぁー」



 喉の渇きに誘発される。

 身体を起こすとズッシリとした、だるさを感じた。私もよく眠れたけれど、通常業務に加えてあの運動量は……久しぶりだったこともあってなかなか疲れは引いてくれないようだ。あくびをしながらキッチンに向かい、浄水を計量カップに入れてそれを喉に流し込んだ。計量カップ一杯の水を胃に入れ、ぷはぁっと息を吐き出す。爽快。命の水に感謝。



「水飲む? お味噌汁もあるけど」



 振り返って尋ねる。

 本当はコーヒーでも入れてあげたいところだけど私はコーヒーが好きじゃないので家には粉末を置いていない。諦めていただきたい。



「お水を口移しでください」


「……口移しじゃ喉を満たす量の水を送れないよ」


「私ははるちゃんで満たされたいので」


「本当にもう……」



 年下に甘えられるのも嫌いじゃないな、と思う。こういうおねだりは少し照れ臭いけど。

 口に少量水を含んで水野の元まで行って口付けた。首に手を回されて受け入れ態勢がばっちり整ったので、こぼれないように舌で道を作ってゆっくり相手の相手の口に流すと、小さな喘ぎ声が水野から漏れた。

 水を渡し終わったので口をゆっくり離した。いかにも誘ってるような艶のある表情をした水野に見つめられて変な気分になる。昨夜もこんな表情をしていたのだろうか……。加えて水野は今下着姿だ。肋骨のラインと薄く腹筋の中央に入っている縦線の美しさがすごい。こうして見ると本当に綺麗。朝からいやらしすぎるというか色気がすごいというか……。なんなんだろう、女性の身体にこんなドキドキすることなんてなかったのに。



「下着じゃ寒いでしょ、何か着たら」


「会社用の服しかないです。何か貸してくれませんか。簡単なもので良いので」



 昨日は会社帰りにそのままうちに来た。どうせ泊まりになるというのは暗黙の了解だったけれど、水野はあえて着替えを持って来なかったんじゃないだろうか……。



「んーじゃあ高校の時のジャージでも着る? 私のだから大きいかもだけど」


「はい……! 着たいです」


「はいよ」



 クローゼットからジャージを取り出した。

 物持ち良いもので今でも度々着用している。胸元に「京本」と入っているし、出歩くのは無理だが、部屋着としては実に優秀である。



「ありがとうございます、うふふ」



 水野は受け取ると早速、袖を通した。

 身長差があるのでやはり少し大きいようにも見える。袖元とか特に。袖部分が手の甲を覆ってしまっている。……こうやって見ると本当に高校生まんまだ。全然老いてない。家に高校生を入れてしまっているような変な気分になる。

 そして、ぶかぶかってかわいい。私のジャージを着て照れたように笑っている水野がかわいく見えて仕方ない。



「かわいーなもー」


「ぁ……ん……」



 ぎゅっと抱きしめると水野は少し驚いたような声を出した。



「もうずっとこれ着てて良いよ」



 だってかわいいんだもん。

 ぬいぐるみというかマスコットというか……なんかそういう感覚だ。



「次ははるちゃんが着た後のジャージを貸してください」



 抱きしめていた手を解いて水野の顔を見た。きっと冗談で言ってるんじゃないと思う。



「えーいやぁ、それはさすがに……」


「はるちゃんの匂い、好きなんです」



 水野は私の首元に顔を埋めて来た。

 結局昨日はシャワーを浴びる暇を与えてくれなかった。きっと今の私はめちゃめちゃ汗臭いと思うからやめて欲しいが離れてくれる気配はない。



「私も飛鳥の匂い好きだけどね」


「今度私が着た後の服を着ますか? 下着でも良いですよ」


「えぇ……。あー」



 さすがに下着はなんか恥ずかしいな……。



「嫌ですか?」


「……そちらの件ですが一度持ち帰り検討させていただきます」



 断れる空気感と断れない空気感というものがあるが、今のはなかなか断れる空気感ではなかった。水野が望むなら……要検討事項である。



「私の眼鏡どこかに置いてませんか」



 水野は私から離れてきょろきょろし始めた。

 部屋を見渡すとベッドの横のミニテーブルに眼鏡が置いてあるのが見えた。



「テーブルの上にあるよ」


「取ってくれますか。見えなくて……」


「……嫌だ」


「……どうしてそんないじわるを言うんですか」


「取りにくい場所に置いた自分が悪いんだろ。そんなんじゃいつまで経っても1人で狩りに行けないよ」



 今のは断れる空気感だったから断った。ベッドに仰向けに倒れた。

 もちろんこれは水野をからかってやろうと思った矢先のことだ。いわゆる、好きな人ほどいじめたくなってしまうやつ、である。



「はるちゃんのことなら狩れそうですが」



 水野は上に覆いかぶさってきた。



「う、うわっ……ちょっ!」


「……」



 押さえつけられて両手の自由を奪われる。

 睫毛の長い人形さんは私にそのままキスを落とした。



「あの……昨日も思ったけど力強くないですか」



 抵抗しようにも腕は全く動かない。

 こんな華奢な身体のどこからこんな力が出て来るのか理解ができない。



「言いませんでしたっけ。それなりに鍛えてるので」


「どっからそんな力出てくるんだよ! 離せ怪力ゴリラ」



 脚で抵抗しながらも腕に力を入れるが、やはり微動だにしない。



「ひどいですね。ゴリラだなんて人生で一度も言われたことないのに」


「ゴリラは言いすぎたかもしれないごめん」


「いじわるなライオンさん。昨日の続き、しますか?」



 首元をちろっと舐められ、ぞくぞくとした感覚が全身を駆け巡る。



「やめっ……て! 今着替えたばっかじゃんか」


「そんなの関係ありません」


「私の顔を見て。この真摯に訴えかけている顔を見て!」


「ごめんなさいね、あいにく目が見えないので」


「分かった、じゃあ眼鏡取るから!」


「……したくないんですか?」



 押さえつけられている手が緩む。水野は見るからに切なそうな表情をしていた。こういう顔されると本当……。あざとさからなのか本心からなのか分からない。



「気持ちは山々だけどもう身体ヘトヘトだから。腰死んでるから勘弁して……」



 昨日、水野のテクニックによって私は何度も何度も天に召された。その反動もあって身体の元気はない。昨日のことを繰り返されたらもう本当に天に召されてしまうんじゃないかと思う。それに今明るいし……。

 くっついてイチャイチャするくらいがちょうど良い。



「現役の時は長距離得意でしたよね? どうしてそんなに疲れているんですか?」



 現役ってバスケ部のことか。確かにあの時は長距離が得意だった。短距離と違ってやればやるだけ記録が伸びる種目だったから。持久力では唯一水野に肩を並べられていたと思う。努力型の私には長距離は相性が良かった。

 でも……



「今は現役じゃないから!」


「こんなもの持ってるくらいだから体力はある方かと思ってたんですが……」



 水野は部屋の一角に立ちすくんでいるサンドバックを見て言った。



「繁忙期の長時間労働に耐えるくらいの体力ならあるよ。でも昨日はそっちが一方的に体力減らしてきたんだろうが! くそう、次こそは……!」



 ところどころで良さそうにはしてくれていたが、こっちに全く主導権がないまま、頭が真っ白になって気が付いたら果てていた。結果的には一方的な試合だったと思う。

 経験豊富なんだというのは試合を通じて痛感した。やはり知識や技量が根本から違う。



「昨日ではるちゃんの良いところは把握したつもりです。もっと私に溺れてくれるように今度は――」


「ねぇ……。飛鳥って女性経験……あるの?」



 ……本当はあまりこの質問はしたくなかった。あるって言われたらショックを受けそうだから。でも気持ちが先走ってしまった。

 ない、と信じたいが水野は慣れすぎている。そういう同性の相手がいたことは十分に考えられる。

 パートナーのことは知っておきたいと思う。ここでどんな答えが来ようとしっかり受け止めて――



「ないです」


「……じゃあなんであんなに慣れてるの?」


「想像の中でなら何度もしてますからね、はるちゃんと」


「イメトレでそこまでできるもんなの……」


「イメージトレーニングによるパフォーマンスの向上は数々の論文でも報告されているんですよ。ふふ、昨日のはるちゃん想像してたよりずっとかわいかったです……」



 水野は小刻みに何度かキスをしてきたので受け止めた。

 軽いキスなのにこのフィット感。



「ねぇ、横内とキスした……?」


「してません」


「……じゃあなんでそんなにキス上手いの。これもイメトレなの?」


「はるちゃんが上手なんですよ」



 相性の問題もあるだろうが、水野の技量も絶対ある。

 「私をもっと求めてくれるように」と言われたが、本当にそうなってしまいそうで怖い。でもそれは私以外も同じで……。

 水野と一回床を経験した人は絶対病みつきになって、2度目を望む。絶対そうだ。横内だって水野のことをめちゃめちゃ褒めてた……。今だって水野に言い寄る男子はきっと絶えない。

 そして、そこにセックス依存症の彼女ときた。



「……浮気するなよ。頼むから」


「しません」


「本当……? ねぇ、私と付き合ってから本当に誰ともしてない?」


「妬いてくれるんですか……嬉しいです」


「あんたモテるから、心配にもなるよ」



 こういうの、付き合ってもいつも浮気を疑われたりするのは私の方だったけれど……。思ったより自分は水野に惚れてるんだなと思う。



「盗聴器を私の部屋に置いてみますか? 家用と外出用で2つ。そうすれば私が1日何をしてるのか、分かりますよね。……はるちゃんには全部知って欲しいです。横内さんとの会話の録音だけじゃなくて私の私生活も録音して欲しいです」



 水野は口角を上げた。逆光になっているので目に光はなかった。



「さすがにそこまでは。飛鳥にもプライベートがあると思うし」


「恋人には全部知って欲しいし、知りたいと思います。本当は5分おきにでも近況を知らせて欲しいくらいです……。でもはるちゃんはそんなの嫌でしょうから、我慢してるだけです。職場での連絡ならレスポンス早いのにどうしてプライベートでは遅いんだろう、だなんて思ってませんから。たとえメッセージの返事がすぐに来なくても、別に良いですから、我慢しますから」



 水野は私からずらかり、下を向いて体育座りした。



「いっぱい我慢させてること、あるのかな」



 身体を起こしてさらさらの髪に手を通す。



「私の我慢してること……叶えてくれますか?」


「ぎゅーだ」



 体育座りごと力いっぱい水野のことを抱きしめた。



「ぁ……はる……ちゃん?」


「少しは気持ち伝わった? ……私、不安にさせないように頑張るから。お互い歩み寄って行こうよ。なるべく返事早く返すようにする……けど漫画とか読んでたりすると途中で止められないからそこは許して」


「……ん」



 水野はちょっと要求が過激なところはある、と思う。でもそれは全て不安からやってきているものなんだ。自信がないから。

 私はそれを少しでも沈めてあげられるようにしないといけないな、と思う。恋人として。



「さてと、はいこれ眼鏡。私シャワー浴びてくるよ」


「ありがとうございます。……冷蔵庫開けて良いですか」


「え、良いよ。朝から飲むの?」



 朝から飲むなんて意外だな。

 休日だから別に飲んでも全然良いと思うけど。



「シャワーあがりにと美味しいものを作ってあげようと思ったんですが……これじゃ無理ですね。そんなだから体力なくなるんですよ」



 冷蔵庫の前に立つ水野は溜息を漏らした。

 冷蔵庫は酒を冷やすためのもの、という私の認知が覆された。



「あーっうるちゃい……!」


「これからは私の手料理たくさん食べさせてあげますから。ひと段落したら食材を一緒に買いに行きませんか?」


「そうだね……お願いします……。そのジャージ着て行くの?」


「……それでも良いですよ、はるちゃんが望むなら」


「いや、それは一緒にいる私が恥ずかしいから。無難な服で良ければ貸すよ」


「ふふ、ありがとうございます」



 平和な休日の始まりだ。

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