打倒

はじまり

 私は1人、浴室の中にいた。



 結局勢いのまま水野の手を引き、我が家まで来てしまったが……。

 家の中に入ってから、水野はずっと黙りっぱなしで、部屋の隅でちょこんと体育座りをして何か考え事をしているようだった。無言の空気感に耐えることができず、シャワーを浴びてくると一言言い放ち1Rの部屋を後にして今に至る。



 レバーをひねる。シャワー口から出てくる水が温まったのを確認して肩のあたりに当てた。少し肌寒くなってきたこの季節、温度が心地良い。肩をつたって下に流れるお湯によって全身が温められていく。代謝が上がったのか酒の酔いが少しずつ醒めてきた。そして、同時に靄のかかっていた「現実」が姿を現し始める。



 レバーをひねってお湯を止めた。



 私はとんでもないことをしてしまったかもしれない。



 どうすんの、これ。



 え。



 どうすんの、これ!!!



 水野、今日泊まるんだよな……?

 いや、勢いで泊まれと言ってしまったのは私なのだけれど。そして、家に入った瞬間そそくさとシャワーを浴びるこの行為は「休憩」のソレだ。

 待って……。これ髪の毛、洗うべき……? いや、でももしこのまま髪の毛を洗わずに浴室から出たら、それこそやる気満々だと思われてしまう。私はそんな……つもりじゃなかった。そんなつもりで浴室に入ったわけじゃなかった。

 そもそも泊まるのであれば髪の毛は別に洗っても良いじゃないか、テンパりすぎだ。何考えているんだ私。



 再びレバーをひねってシャワーを頭から浴びた。ぐぼぼぼぼ、と獣のようなうめき声が小さく漏れる。

 好きだと伝えた。相手も好きだと言ってきた。つまりこれは付き合ったんだよな……? 付き合った初日にお泊まり……。これはつまりそういうことになるのか?

 私は年上なんだ。そういうのは私がリードするべきだと思う。でもちょっとこれはどうなんだ。初日から手を出すのはどうなんだ。付き合いたてのカップルの男側の心境を察する。私だったら付き合って即そういうことをするのはあまり好まない。っていうか私の心の準備がまだできていない。同性同士は初めてだしそもそもやり方に詳しくない……。

 これから起こるやもしれないことを想像しては温まっているはずの身体がガタガタと震え出す。



 とりあえず自然に……自然に振る舞おう……。

 ただ普通に日常生活を送る。その中に水野がいるだけ……そう思おう。



 いつもより念入りに身体を洗い、1Rの部屋に戻ると水野は相変わらず部屋の隅で体育座りをキープしていた。



「シャワーしたかったから使って良いよ」


「家を出る前に浴びたので、大丈夫です」



 事前に浴びてきたのか……。横内さんとそういうことする気満々だったってことかよ。なんか面白くない。



「そっか……」



 髪の毛をバスタオルで拭きながらベッドに腰掛けた。



「……」



 水野は一瞬ちらっとこちらを見たが目線を逸らして自分の足元を見つめている。広い部屋に、端で縮こまる華奢な身体。救急車のサイレンの音が沈黙の間を繋いでいる。



「あの……さ。そんなとこに座ってないで、もっとこっち来たら」


「隣に行っても良いですか」


「えぇ、あぁ、うん……」



 ベッドシーツを凝視した。隣……ベッドに水野が来る……。生唾を飲み込む。こっち来たら、と言ったのは紛れもない私だが、場所が……ここか。

 心の中で慌てふためいていると、僅かにマットレスが沈んだ。そして私の心臓は特大に跳ね上がった。



「……」


「……」



 水野は沈黙している。

 どうしよう。何か振れる話があるかひたすらに考えるが、心臓の高鳴りが脳の思考を阻害しているせいで、何もできない。



「はるちゃん」


「何?」


「……本当に好きなんでしょうか。私のこと」



 小さな声。不安の入り混じった声。

 顔を横にひねり、憂いを帯びた横顔を見る。水野のまつ毛は小刻みに揺れていた。



「……好きだよ」


「無理してないですか」


「してない」


「……」



 水野もこちらを向き、目が合った。ひたすら見つめられている。



「な、なに……」



 無言の視線に耐えきれずカチコチの小さな声で尋ねる。



「私にこうされても嫌だと思わない?」



 水野はこちらの両脚を挟むようにして私の膝の上に乗ってきた。対面。そして首に両手を回されて抱きしめられ一気に密着状態になった。

 私はその場で硬直した。



「あの……水野さん……?」


「嫌ならそう言ってください」



 耳元、水野の声が近い。

 いきなり距離詰めすぎなのでは……?

 嫌では決してない。でもこれはちょっと心臓に悪い。



「嫌だとは思いませんけれども……」



 動揺を隠すために、平常を装うがかえってそれが不自然な敬語になって口から出てきてしまう。

 対して水野は……抱きしめられていて表情は見えないが不安気な顔をしているんだと思う。

 安心させようと、水野の背中を軽くぽんぽんと叩いた。



「前、泣かせてしまったので……。こうして私に触れられるのは嫌かと」


「いや、あの時はあの時で事情が違ったというか……」



 気持ちが通じ合う前に行為が先走るのが嫌だっただけだ。でも今はもう違う。好きな人に触れられて嫌なはずがないじゃないか。



「このまま押し倒しても良いですか」



 ……は?

 まずい。ここで押し倒されてしまったら多分そういう流れになる……というのは何となく分かる。心の準備が……。



「いや……ちょっと待って。一旦落ち着こう?」


「誘っているのにはぐらかすのは、私に魅力がないからでしょうか」



 抱きしめられていた手が緩み、両頬を優しくホールドされる。上から私の顔を覗き込んでくる水野の目は潤んでいて儚気に光っていた。

 やはり水野はその気だったんだ……。



「いや、なんか……、初日なのに、じゃん……。魅力がないとかそんなんじゃないよ。本気だからこそ、そういうのは大事にしないといけないのかなって思って……。泊まれって言ったのは私なんだけど……なんか……うん……色々話せればなって思っただけというか……」


「焦らすんですね」


「焦らしてるつもりじゃ……」


「じゃあキスしてくれますか」



 水野の親指が下唇をなぞった。

 キスくらいなら……。これが初めてなわけではないし……。



「……う、うん」



 とは言ったものの、完全に乗っかられている状態なので私からキスすることはできず、水野が顔を近づけてくるのを目を閉じて待つことしかできない。



「……かわいい」



 そう言われて目を開けると、水野は恍惚とした表情で私を見ていた。



「ちょっと……。するんじゃないの?」


「焦らし返しです」


「なんなの?」



 クソ。さっきから完全にこっちが受け身になってる。主導権は握らせないぞ。

 水野の首に手を回して引き寄せて唇を重ねた。



 不意打ちに僅かに漏れた声と鼻息が妙にいやらしさを増している。最初は驚いていたものの私の唇に順応したのか、口元に滑らかな感覚が広がり始めた頃、理性が崩壊しかけたので唇を離した。



「もっと……ください」


「んっ」



 少し息を荒くした水野に挟まれる。

 呼吸をすることを忘れていた私は息苦しさを覚え、唇を離して息を整えた。

 そんな私を水野はうっとりとした顔で見ている。



「はる……ちゃん……本当にかわいいです」



 間もなく唇を塞がれた。

 また水野のペースに戻されつつある。年下相手に余裕がないと思われたくない。鼻呼吸を繰り返しながらキスに応じていると隙間から舌が入ってきた。

 上顎の部分をなぞられる。



「んんっ……ぁ」



 くすぐられるような未知の感覚に声が漏れた。

 待って。こんなところ舐められたことないんですけど!



「……お酒の味がしますね。飲んだんですか」



 1cmの距離で尋ねられた。

 口内に残る成分が水野の身体に取り込まれたと思うと恥ずかしいやら、胸が熱くなるような変な感覚になる。



「うん……さっきバーに行ってて……」


「酔いが醒めたら今日のことを後悔しませんか」



 確認祭り。



「後悔しないよ。酔ってなくても好きだったし」



 本当、心配性というかなんというか……。



「でも酔いが醒めて今日のことを思い出したら好きじゃなくなるかもしれませ――んっ!」



 水野の頭に手を添えて力を加える。

 やってきた唇を自分ので受け止める。5秒静止して離した。



「……好きだって言ってるじゃんか。次確認してきたらもっとするからな」


「もっとしてください……」


「えぇ、と……」



 して、と言われて改めてとなるとしどろもどろになってしまう。



「もっと……」



 するかどうかの狭間で意思が右往左往していると、甘えるような声のトーンで囁かれた。もう理性がどうにかなってしまいそうになる。



「キス魔め」



 もう本能のまま求めさせてもらう。

 ソフトなものに始まり、柔らかさの残るキスのまま、舌を伸ばす。口内で何度も粘膜の握手を繰り広げて求め合ううちに、お互いの呼吸が乱れてきた。しかし唇は離れない。



「んっ……はるちゃん、はるちゃん。好き……」



 口と口の隙間から喘ぎ声のように発せられる色っぽい声に興奮度が高まり、どうしようもなく愛おしくなる。

 ちょっと、この子やばい……。エロい。

 そう思っているのも束の間、水野の手が下腹部に伸びてきた。



「ちょっと、手、どこ触ってっ……!」



 悪さをする手をガッチリと掴んで静止させる。



「……」



 どうしてですか、と聞きた気に無言で見つめられた。



「これ以上はヤバいから……」


「これって夢じゃないかと思うんです。もし夢なら覚める前にすることはしておきたいなって。だから――」


『ブーブーブー……』



 その時、部屋の隅に置かれている水野のバッグからバイブ音が鳴り始めた。



「もっとはるちゃんに触りたい」



 水野はバイブ音を無視して私の首元に触れた。



「ねぇ、電話出なくて良いの……?」


「はぁ……」



 水野はため息を一つ漏らして私からずらかると、鞄の方に歩いて行った。

 神妙な面持ちでスマホの画面を見ている。電話には出ないようだ。しばらくして、バイブは鳴り止んだ。



「もしかして、横内さん?」


「はい。急用ができたと今回は断ったのですが、納得してくれていないようでして」


「……」



 あの野郎……、ぶっ殺してやる。

 今すぐにでも水野の携帯を取り上げて横内に電話して怒鳴りつけてやりたい気分だ。



「はるちゃん、横内さんは私利私欲のために会社での立場を利用するような人です。断り続けることで良からぬことになる可能性があります。もしかしたらまたはるちゃんが新庄さんと働くことになるかもしれない。そうなってしまっては困りますよね。だからその時は私はまた横内さんと――」


「絶対だめ」



 また横内さんと関係を持つなんて絶対に許さん。

 クソな横内さんに比べると新庄さんなんて屁でもないレベルだ。



「……」



 水野は目を伏せた。



「横内さんは私がなんとかする。飛鳥を守る」



 この状況で、直接的被害を受ける可能性が高いのは水野の方だろう。そうなったら私がなんとかする。

 こいつが私のために動いてくれてように、次は私が動く。



「私のことは良いです。はるちゃんが心配なんです」


「まず自分の心配をしろ。横内さんが何か言ってきたらすぐ教えて。内容に関わらず」


「……分かりました」



 水野はこくっと頷いた。

 横内さんが何もしてこなければ良いのだが……。



「はるちゃん」


「ん?」


「髪の毛乾かしてあげます」


「え、いいって、自分でやるから」


「やらせてください」


「んー」



 されるがまま、ドライヤーの温風を受ける。美容院以外で人から髪の毛を乾かされたこと、あったっけ……。

 特別な関係を改めて実感させられる。



「晩御飯食べた?」


「まだです」


「出前でも取ろっか」


「良いですね」



 一緒に暮らしたらこんな会話も普通にできるようになるのかな。



 きっとこの先、苦難もあるだろうと思う。

 でも私たちならきっと大丈夫な気がする。根拠はないけれど。

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