朗読

 駒米の駅に降りついた私は水野にとりあえず電話をかけることにした。電話なんて業務上、毎日のようにしてきていることではあるが、状況が状況だ。今までにない緊張感に包まれている。震える指先で発信ボタンに触れた。

 2コール後に水野が電話に出た。



「もしもし、今大丈夫?」



 相手が応答する前に、テンパった私は切り出した。



『はい……どうしました?』



 私からいきなり電話がかかってきたことが意外だったのか、驚きながらもこちらのの様子を伺っているような声のトーンだ。



「話したいことがある、できれば直接。今駒米の駅にいるんだけど、今どこにいる? 家行って良い?」



 私もどこか上擦った声が出る。なんだこのチャラ男みたいな軽いノリは……。我ながら様子がおかしい。

 携帯を握りしめる手は冷えているのに大量の汗が出ている。滑り落ちてしまわないようにぎゅっと握りしめた。



『これから出かけるのでそれは……。なんなら今家を出たところです』



 まぁそんな都合よく家にいないよな。

 いくら思い立ったからとはいえ、約束もなしに家にあげてもらおうなんて浅はかな考えだった。



「えっと、駅に向かってる……?」


『はい』


「分かった、じゃあ駅で待ってる。少し話す時間取れる?」


『大丈夫ですが……どうしたんですか? 急用ですか?』


「私にとっては急用、かな……」



 また後で、と言って電話を切った。

 街の街灯が点灯し始めた。人影はまばらだが、駅に設置されているコンビニの自動ドアの稼働率は高い。こんなところで……。

 駅ではなく、できればちゃんとしたところで告白したいところだったが、水野にも用事があるだろうしそれは仕方がない。野外だろうとなんだろうとちゃんと伝えるべきことは伝えようと思う。

 だが緊張がすごい。携帯をポケットにしまって洋服に手汗を吸わせた。電車に乗っている間に何度もシミュレーションを行った。うまくいかないパターンも何通りも出て来た。でも覚悟を決めた以上は「後戻り」という選択肢はない。だからこそ緊張の波が脳味噌をも硬くし、より私の思考力を鈍らせてしまう。どうしよう、どう切り出そう……。



 間もなくして、質素だがどこか上品さを残したワンピースを着ている水野の姿が見えた。



「よっ……」



 顔は水野の方に向けたが目を合わせられず、ぶっきらぼうに声をかけた。手汗がすごいことになっている。思春期まっさかりの男子中学生かよ……。



「はるちゃん」


「用事あるのに急にごめん。どこ行くの?」


「……」



 返事は返ってこなかった。眼球を動かして水野の顔を視界に捉えた。水野は目を伏せて沈黙していた。どこか後ろめたさの残る表情。

 脱毛サロンに通っていた頃、偶然知り合いに会ってどこに行くか聞かれたことがある。聞いてくんなよ、と思いながらあの時はウィンドショッピングだと嘘をついた。このように行き先を聞かれて返答に困るような不都合なこともあるだろう。

 しかしこの水野の表情は見覚えがあった。アイツの話をする時、水野はこの顔をしたからだ。



「もしかして横内さんのとこ?」


「っ……」



 水野は表情を変えずに、肩にかけたバッグをぎゅっと握りしめた。

 ……やっぱりそうなんだ。怒りとショックで心臓が震えた。

 前に立つ華奢でかわいらしい女子が、おっさんに汚されようとしている。それも私のせいで。冗談じゃない。絶対行かせてたまるか。

 


「行くな」



 水野の手首を掴んだ。



「何でですか。……離してください」



 やんわりと手を振りほどかれそうになるが、握る拳に力を込めた。



「横内さんと会うのはやめて今日はうちに泊まれ……」


「泊まる……? 何を訳の分からないことを言っているんですか」



 酔いがそうさせているのか、行って欲しくなさすぎてとんでもない発言をしてしまったかもしれない。でも気持ち的には嘘ではない。



 いずれにしろ、私の思いはこれに尽きる――。



「横内さんに会って欲しくないんだって!」


「……言ったじゃないですか、これは私が好きでしていることなんです。構わないでくれませんか」



 そうやって私を心配させまいと言ってるのはもう分かってんだよ。

 本当にそうは思っていないくせに。私は本音で向き合おうとしてるのに、取り繕うとするなよ!



「飛鳥!」



 歯痒さに大き目な声が出てしまった。通行人の何人かはこちらに視線を向けた。



「っ……! な……に」



 驚いたのか、水野は抵抗しようと力の入っていた手をだらんと垂らした。強張った表情で自分の身を守るかのように反対の手でバッグを抱えこんでいる。



「こんなこと本当にしたいと思ってる?」



 さっきとは打って変わって弱々しい声が出た。

 私は怒っている。確かに怒っている。でも咎めて追い詰め、相手を怖がらせたいわけじゃない。ただ、本音で話して欲しい。それだけなんだ。お願いだからちゃんと話して欲しい。



「なんなん……ですか、急に」


「正直に回答するまで絶対手、離さないから」



 本当に好きな人の元に行く人はあんな表情しない。

 私のために、と思っていたとしても精神的な苦痛は絶対受けている。だから、私が止める。



「伝えたいことってそれですか? 自分のせいだと思ってそんなことを言っているんでしょうが、私は大丈夫ですから。心配しないで良いです」


「正直に話してよ……」



 意地でも話さないつもりだろうか。

 そうなると、私はただただ弱々しく懇願することしかできない。



「はるちゃん、気にしないでください。もう手を離して」


「嫌だ」



 物理的に抵抗する気はないようで、手は垂れ下がっているが更に強い力で手首を掴んだ。

 水野の細い手首。折れてしまうんじゃないかと思う。でも行って欲しくない。



「なんで……なんでですか」



 この問いへの回答はすなわち――。

 心臓の鼓動が加速する。生唾を飲み込んで、水野の目を見た。



「あんたのことが好きだよ……。だから止めてる」



 身体ごと心臓の鼓動に合わせて振動しているんではないかと思うくらいに感じられる。まるで大学受験の合格発表の時のような――今まで生きて来た中で最高潮に唸っている。



「す、き……?」



 水野は言葉をまるで理解していないかのように首を傾げた。



「え、うん。……な、何回も言わせないでよ」


「それってどういう好き……ですか」



 この状況でそれ聞く……?

 天然を装っているのか本当に分からないのか、あるいは私に再度告白させようと目論んでいるのか……。



「恋愛的にって意味。分かんないの?」


「……そんな嘘はつかなくて良いです」



 水野は冷たいトーンで言った。まるで私の告白を真に受けていないといった感じだ。

 こっちが本気で告白してるのに嘘だと処理されてしまっては困る。かなり困る。



「嘘じゃないって!」 


「責任感が強いことは知っていましたが、まさかここまでとは思いませんでした」



 嘘じゃないって言ってるのに、まるで信じてもらえていない。

 じゃあどうすれば良いんだよ。



「飛鳥……ああぁっ」


「……はるちゃん?」


「……私の手、震えてるの分かるでしょ? 嘘ついてるように見える……?」



 水野の手首は私の手汗でびしょびしょだ。そして未だに私の手の震えは収まっていない。いくら私が人前で取り繕う演技が上手くても、生理現象まではなかなか操ることはできないことは水野も分かっているだろう。水野相手にこんな状態になってしまっているのを晒すのはとても恥ずかしい。でもそれ以上に伝わって欲しいから。



 水野は自分の手首の方に視線を向けた。手首に意識が集中し、ようやく私の本当の気持ちに触れたのだろうか。水野は口が半開きになって瞬きを何度も繰り返している。



「…………? ぇ?」



 水野の視線は手首と私の目を何度も往復している。明らかに戸惑っている様子だ。



「本気だから」



 ゆっくり、心を込めて言葉にする。頼む……伝わってくれ。



「なんで……え……」


「なんでって……。散々私のことかき回したくせに……」



 私をこんな風にしたの、あんたじゃん。

 今更何も分かってないみたいな顔して動揺してんなよ。



「ごめんなさい」


「……」



 私を取り囲む環境にモザイクがかかる。音も消え、無になる。

 謝罪の言葉……。振られたのか、私。手首を掴む手から力が抜けていく。



「……だめ、ですよ」



 水野は下を向いて小さな声で言った。



「だめ……?」


「私は……はるちゃんの…………恋人にはなれません、から……。ただ、そばにいられれば私はそれで……」



 今にも泣きそうな振り絞ったような声だった。ごめんなさいと言われた時は焦ったが、こう言われることは想定していた。

 終わりがあるから始まりがある。恋人になるということは別れるという可能性を持たせること。失うのが怖いから言ってるんだ。そこを補ってあげればまだ私にもチャンスはある。



「私のこと、もう好きじゃない?」


「好きじゃ……ないです」



 水野の片目から涙が溢れ、スッと頬をつたって流れた。

 嘘つきはどっちだよ……。



「じゃあどうして泣いてるの?」


「嫌なんです……。私のことはすぐに捨てたくなるはずです。そんなことになるくらいならこのままの方が良いです」



 不安なんだよね。分かってる。

 あの時は言えなかった。でも……今なら言える。だから言う。



「バカ。そんなことない。私はあんたを捨てたり、見放したりしない。これは自分だけの話じゃないんだから抱え込むな。不安なことがあれば話してよ、受け止めるから、突き放したりしないから。それで一緒に話し合ってどうすれば良いのかを考えていけば良い。だからバカみたいな未来を見てんじゃねーよ!」


「そんなの分からないじゃないですか。100%そうだと言い切れますか……? 今、そう思ったとしても心情や状況は常に変化し続けます。絶対なんてあり得ない」



 反対側の頬にも涙の線が刻まれた。水野の両目は赤く充血していた。



「あんたは絶対って確信が持てないと挑戦しないの?」


「っ……」


「この先のことなんてどうなるか分からない、それは確かにそうだよ。私は神様でもなんでもないし未来が分かるわけでもない。でも分からないからこそ、人生って楽しいんじゃないの? ……私が仕事を楽しめてるのは、いつも業務で「やってみれば良い」って言って私の背中を押してくれる水野さんがいるからだよ」



 水野は顔を伏せたままだ。前髪が垂れ下がり表情が分からない。

 この告白も失敗するかもしれない。だからこそ私もなかなか踏み込む決心がつかなかった。だから水野の気持ちはわかる。



「私も、ずっと怖かった。あんたの思い描いてる恐怖とは少し違うけど。……好きかもって思い始めた頃から気持ちを押し殺してた。でももう決めた。向き合うって。自分の気持ちに正直になろうって思った」


「はる……ちゃん……」


「だから……次は飛鳥の番だよ……」



 固まったままの水野。

 1秒、1秒と時は過ぎていく。



「ごめん、一方的な言い方で。いきなりのことだし困惑するよね」



 横内さんの元に行ってほしくないし、水野のことを好きだという思いは本当。でも気持ちを一方的に押し付けて強要するのは違う。私が決断するのにここまで時間がかかったんだ。今ここで判断を仰ぐのは横暴だったかもしれない。



「ゎたし……」



 小さな声が発せられた。



「ん……?」


「私、すごくわがままになっちゃうと思います。はるちゃんが他の人と話してたら今まで以上に嫉妬します。面倒な奴になっちゃいます。きっとたくさん困らせてしまうかもしれません。それでも……良いんですか」



 水野はこちらを見て言った。

 ……安堵の溜息が漏れる。



「そんなこと言ったら……私も嫉妬しちゃうし。てかしてるし」



 水野は独占欲は強い方だと思う。でもかわいくて頭も良くてモテるからこの先苦労するのはむしろ私の方なんじゃないかと思う。現時点でもこんなに嫉妬しているんだから。



「好きじゃないと言ったのは嘘です。はるちゃん。好き……好きです、好きなんです」



 「好き」という言葉を聞くだけで、じわじわとした温かさが全身に流れていく。

 もうこの好き、を受けいれて良いんだ。そして私も――。



「私も好きだよ」



 好きだって言って良いんだ。



 掴んでいた手をそのまま下に流れるようにスライドさせる。

 細めの指に自分の手を絡めて優しく握りこんだ。



「帰ろっか」



 まだ心臓はうるさい。



 まるで夢でも見ているような感覚だ。でも確かに、街灯の光によって私たち2人の影は生み出されている。ぎゅっと私と水野をつなぐ影の中央に力を込めると応えるように握り返された。

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