効かない薬


 あれから何週間かが経過した。



 追い込まれながらも業務はテキパキこなしているつもりだった。しかし分単位での完全なタスク管理により、私は心身ともに疲弊していた。毎日朝起きた時、身体が重い。その重りは日々膨らんでいき、起き上がれないほどの重さとなり身体にのしかかる。起きなきゃ、と心では思うのに身体が思ったように動かない。化粧や身なりを整えることにモチベーションが湧かない。鏡に映る血色の悪い病人のような顔と向かい合いながら歯を磨く日々。

 業務の終わりに達成感なんてものは微塵も感じることはなく、明日も今日と同様の日々が続くんだということに絶望し、心が黒く染まる。置いてけぼりの心をあざ笑うかのように時計の針は進む。1秒、1分、1時間……。そしてまた明日を迎えるのだ。



 どうしてここまで頑張っているのだろう。

 時間に追われながらここまでしがみつく意味ってあるのかな。



 そう思う頻度がここ最近増えた。

 嫌なら辞めてしまえば良いじゃないか。汚染された沼でもがく金魚のように惨めったらしくいる必要なんてない。私を私たらしめる同僚の声が届かない遠い場所に行ってしまえば良いのに。

 どこからともなく訴えかけてくるソレに「うるさい」と一喝する。

 どうして頑張って来たか? そんなこと分かりきっている。今更こんな愚問が自分から沸き上がってくることに呆れる。私が今高い位置にいられるのは積み上げてきたものがあるからだ。そしてこれからもそれを積み上げて行かなければいけないというのに……。私の意思に反し、抗ってくるソレを無理やり押し殺す。



「大丈夫ですか」



 ある日、新庄さんは私にそう言った。



「何がですか?」


「顔色が悪そうに見えます」


「そうですか? いつも通りですよ」


「そうですか、失礼しました」



 新庄さんは咳払いをして自席へと戻って言った。



 貴様のせいでこうなっているんだが?

 貴様がいなくなってくれれば解決するんだが?



 殺意でしかない。内面の叫びが外に漏れないように蓋をしているつもりだったが、ついには新庄さんに声をかけられるくらいになってしまった。水野を始め、周りの人たちも何だか私を気遣うような視線を向け始めてきている。イライラする。いつも通りで良いのに。なんで皆こんな圧迫した状況で平気な顔をして業務をしているのか。頼むから哀れみの目は向けないでくれ。お前らが心配するその素振りが私を余計苦しめていることを悟って欲しい。

 イライラは無気力という形に形状変化し、最近はサンドバッグを殴る気力も無くなってきた。



 今すぐ楽になれる方法は知っている。全て放棄して高台からジャンプして落下すれば良いだけの話。――逃げるという選択肢。

 でもその選択をしたら、今まで頑張ってきたことが無駄になってしまう。キャリアを諦めたら私には何も残らない。それこそ生きている意味がなくなってしまう。

 うまくいかない日は多々あったが私は全て自力で乗り越えて来た。こんなことでへこたれている私ではない。もっとやれる。絶対に……。

 成功体験にしがみついて自分を奮い立たせ、今日もデスクに腰掛ける。この執務室に入れるのは選ばれた人のみ。そしてこのデスクは私にのみ使用を許されている。DAPの社員として選ばれた人材が勝ち得た特権……。ここを舞台にして頑張ると決めた私だからこそ、ここまで来られたんじゃないか。



 どうにかして心の負荷を少しでも減らそうと日々自分なりに試行錯誤していたが、解決するより前に身体に影響が出始めてしまった。最初にそれが起こったのは昼食を終えてから少ししてからのことだった。

 キーボードをタイピングしていると、急にキリキリと胃が痛みだしたのだ。奥歯を噛みながらその痛みに耐えていたが、痛みはどんどんと強くなっていき、ついには平常を保つことが難しくなりトイレに駆け込んだ。個室に入りうずくまりながら、はぁはぁと呼吸と荒い呼吸を繰り返す。痛みが少し治まった頃に、ビルの下の階にある薬局で胃薬を購入してそれを飲み、業務に戻った。



 それからというもの、ものを口にした後にこのような症状に襲われることが多くなった。耐えきれないほどの胃痛に、人目を憚りながら胃薬を流し込む日々。物凄い勢いで胃薬は減っていった。そうしているうちに身体に薬の免疫ができ始めたのか、ついに市販の胃薬では効かなくなってしまった。

 あの痛みに耐えながら仕事をするのは、みぞおちを殴られながら仕事をするのと同じレベルだ。席を外して休憩することもできるが、タスクがどんどん後ろ倒しされるだけで胃の痛みを更に強いものにさせるだろう。

 私は痛みを恐れて空腹時でも食べ物を口にしなくなった。身体がやせ細るのはもちろんのこと、脳に栄養が行き渡らないままの業務なのでパフォーマンスが落ちる。



「大丈夫ですか」



 日に日に私を心配する声が増えていく。

 それが私のイライラを膨張させ、ストレスは全て胃に注がれる。ついにはものを口にせずとも胃が痛みだした。顕著に表れるのは朝。起きて支度をしようとすると胃の痛みで身体が動かなくなってしまう。

 このままではまずい。もっと効く薬を貰わなくては……。



 私は体調不良を理由に休暇を取って病院に行った。

 医者には胃腸が弱っているから油ものは控えるようにと、少し身体が疲れているのかもしれないのでまとまった休みを取った方が良いと言われた。自分の身体の状況を考えると、パフォーマンスの悪いまま働き続けるよりは、休んで薬を飲みつつ完全に回復するのを待った方が良いと私も思った。

 有給休暇なら丸1か月くらいは休めるくらい余っている。私がいないことで迷惑をかけてしまうのを申し訳なく思いつつも、数日間の休みを取り、週明けには復活するプランを組んだ。新庄さんは体調回復優先で、とそれを快く承諾してくれた。



 休暇取得の1日目の朝。

 朝、起きた時に感じる胃の痛みがなかった。理由は単純だ。会社に行かなくても良いから。結局は気の持ちようなのだ。いつもなら働いている時間が無に消える平日の空気。オフィスの空気よりは幾分か呼吸がしやすかったが、考えてしまうのは仕事のことばかり。解放されたい。そんな思いは眠気を誘い、瞼を重くする。



 休暇取得の2日目。

 今日もずっと寝ていた。人間、寝ようと思えばいくらでも寝れるんじゃないかと思えてしまう。胃の痛みには全く悩まされていない。寝るだけの時間に全く生産性はないが、とても貴重な時間。このままずっと仕事のない日々が続けば良いのに、なんて考えてしまう。でもそれは叶わぬ話。私はこれからも一人で戦っていくんだ、一人で……。真っ暗な部屋。寂しさがこみ上げる。

 ベッドからむくっと起き上がって部屋の電気をつけた。小型の置き時計の針は21時を指していた。



 携帯には1件の通知。ソールドフォースの人事、松原さんからだ。



『その後いかがでしょうか。ご検討いただけているようであれば幸いです』



 新庄さんがマネージャーになって間もない頃、業務後に私は松原さんに会った。引き抜きの話であろうとは思っていたが、やはりその通りだった。松原さんは選考の合否に直接関われるわけではないが、採用の決定権を委ねられているそれなりの立場にいる人のようで、選考を受けるのであればかなり融通を利かせてくれるそうだ。オファー内容としては年収は100万近く上がる。名の知れた会社で今以上の待遇で働くことができる。魅力的なオファーだった。転職する気なんてなかったが、この条件にはさすがの私も揺らぎそうになった。検討します、と返事をしてその場を終えて今に至る。

 現状ではソールドフォースの選考を受けるつもりはない。理由は2つある。1つ目、この状況で私が転職をしたら「逃げ」になってしまうから。全て自分で乗り越えて来た私が、上司と合わないからと会社に背を向けて自分の歴史に汚点を作りたくない。所詮この程度だったと皆に失望されたくないのだ。

 そしてもう1つ……これが私の中で多くを占めている。水野と離れてしまうからというものだ。



 私が会社を辞めたら水野との接点はなくなってしまう。お互い友達以上の気持ちは持っているように思うが、プライベートで連絡を取り合う仲にはなれていない。会社をやめても尚、今のような関係を続けられるかなんて分からない。

 朝出社して、おはようございますと言う。そんな当たり前の日常が私にとっては幸せだった。何気ない業務連絡も癒しだった。あいつがいるからここまで頑張れたんだ。でも最近は、そんな水野にも自分の余裕のなさからそっけなくしてしまっていた。反省。

 また、前みたいに笑い合いながら働ける日々に戻りたいな……。遠い思い出のように霞む風景。心がぎゅっと苦しくなった。



 冷蔵庫からビールを出してグビっと飲む。医者には酒はやめろと言われたがそんなこと知るか。会社さえなければ私の胃が喚くことはないんだ。苦しい、悲しい、寂しい。酔えばきっと少しは楽になれる、そう思って味も感じないまま飲み込んだ。



 その時、インターホンが鳴った。



 誰だ、こんな時間に。

 何か頼んだ覚えもないし、きっと業者か何かだ。何にせよ、こんな時間に尋ねてくる奴はろくな奴じゃない。話すことなんてない、無視しよう。ゴクっと喉の音を部屋に響かせて残りのビールを流し込む。

 再度インターホンが鳴った。



 誰だよ帰れよ。舌打ちしながらモニターを確認すると、なんと水野が映っていた。思わず息を飲む。



「はい……」



 おずおずと応答する。

 なんで家まで……。



『体調、大丈夫ですか』



 ビジネスカジュアルな服装に身を包んだ水野。会社終わりに心配して来てくれたようだ。



「うん……わざわざ来たの?」



 嬉しさより驚きの方が勝っているためか、早口気味になった。



『時間も時間ですし眠っていたらとも思ったんですが、居ても立っても居られなくなってしまって。迷惑だったらごめんなさい』


「迷惑じゃないけど……」



 正直、だいぶ嬉しい。こんな私を心配してくれたことが……。

 こうして心配をかけてしまったのは申し訳ないが。



『熱、あるんですか?』


「熱はない」


『スポーツドリンクや熱冷ましシートなど買ってきたんですが……』


「……まじか」



 色々買ってきてくれたようだ。優しい……。



『ドアノブに袋、かけておくんで良かったら受け取ってください。レトルトのお粥とか簡単に食べられるものも入っているので』



 袋をひょいと持ち上げた後、ガサガサとドアノブにそれを引っ掛ける様子の水野がモニターに映される。

 こいつ、そのまま帰ろうとしてるのか。



「ちょっと待って」


『え』



 きょとんとした顔の水野。

 身体が自然に動く。玄関の方まで歩き、ドアを勢いよく開けた。



「あっ」



 いきなり私が出てきて驚いたのか、水野は小さく声をあげた。



「ありがとう。それと……迷惑かけてごめん!」



 直接言葉を交わさないまま帰られるのは嫌だった。

 こうして対面で会えたことでなんだか心がじんわりと温かくなる。



「……はるちゃん」



 水野の両手が缶ビールを持った私の手にそっと触れた。



「あ、うわっ……えっと……」



 体調不良で休んだはずの同僚を心配して尋ねたら、缶ビールを持って出てきたこの状況……。しくった。さすがに言い訳できない。



「少しお話しませんか」



 水野の表情は柔らかかった。



「お話……?」


「会社では話せないような話です」



 水野は人差し指を縦にして自分の唇にすっと当てた。

 前々から心配されていたんだ。私の今の状況を察した上でのことかもしれない。会社の人には私の心の内を晒していなかったが水野にだったら……。なんとも言えない期待感が渦巻いていく。



「……中、入る?」


「そうですね」



 私は水野を家の中に入れた。

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