誓いの見舞い
「あーえっと……何か飲む?」
2人だけの空間に若干の緊張を身体にまといながら問いかけてはみたものの、来客なんて想定していなかったので出せるものなんてお酒くらいしかない……。
飲み終わったビールの缶を潰してゴミ箱に入れた。
「おもてなしをする元気はあるんですね」
ビジネスバッグを肩にかけたまま、水野は言った。
「あー。えっと……」
怒ってるのかな……。心が弱っているというのもあるが、相手の挙動一つ一つに敏感になってしまっている。
さっきのビールといい、ズル休みだって思われても仕方がない気がする。休んでいる間に私が入る予定だった面接や、先方との打ち合わせに水野が代わりに出てくれていることを知っているから、身の置き場のない思いに輪郭のはっきりしない声が出る。
「新庄さん、ですか」
「うー……ん?」
いきなり核心に触れられて、その場でボロボロと頬をかいた。
水野なりに当たりはつけているようだが、そうですとも正直に言いづらい空気だ。
「疲れちゃいました?」
慈悲の念のこもった優しいトーンに、強張っていた身体の緊張感が解けていく。
「いやーちょっと疲れたというか、ストレスで胃がやられちゃって……。新庄さんのせいじゃないよ、私が順応できてないだけで」
誰かのせいにするなんてかっこ悪いという価値観が自分の心の声よりも先に口から出て来る。
こんな時もかっこつけちゃってる。……でも私がもっと頑張れたら済む話だというのは本当のことだ。
「胃……お酒を飲んでて大丈夫ですか」
「医者には飲んじゃだめだって言われてるけど……飲まないと現実逃避できてないというか……。会社がない日は痛くならないんだね、胃」
「かわいそうに。辛かったですね」
皮肉交じりのものとは違った、水野の本気の心配の顔。
ズル休みして何やっているんだと咎められる雰囲気じゃないことに少し安堵を覚えた。水野に嫌われてしまったらもう私は……。
「……あんたは大丈夫なの、あんな管理体制でさ」
皆、平然と新庄さんについて行っていた。自分だけこんな状態になってしまって情けないと思う。
でも私と同じで水野も少しはストレスを溜めているんじゃないかという期待が膨らむ。
「私は適当にやってますから」
「適……当……?」
らしからぬ言葉だ。
適当にやっているようには微塵も感じられなかった。
「数字の報告に関してはザックリですね。予定立てもザックリです」
「ザックリ……」
水野の思うザックリが、どこまでの細かさを指すのかは分からないが、こちらから見ていてマメに時間管理、進捗報告をしている印象だった。
これで本当に適当にやっていたとすると、見せ方が相当うまいんだろうなと思う。たいした仕事をしていないくても、やっているように見せるスキルがある人は実力が伴っていなくても昇進していくという現実がある……。
「私たちは変則的な業務をしているので予定がずれるのは当たり前です。だからPDCAのP――プランはそれほど重要なものではないと思います。予定を立てることに時間を割いていては効率的とは言えません。最近読んだビジネス本にもそう書いてありました」
正論だ。私もそれは何度も思った。分単位で予定立てをするのには、それだけでも結構な時間がかかるというもの。
こんなこと無駄だと思っていながらも、それを強要されていることが大本のストレスの原因だと感じている。
「まぁ、そうだよね……。でもそれが新しいマネージャーのやり方なんだって思ってさ、納得いかないなりにも付いていこうとしてた。ばか真面目にやってたのって私くらいだったのかな」
水野は適当にやってる。他のメンバーも水野と同じ温度感で仕事をしていたのかもしれない。増田さんにいたっては自分のキャリアなんてどうでも良いと思っているから、そもそも真面目に取り組んでいないし。
頑張ってたのは私だけかもしれない……。アホらしくなってくる。
「真面目なのは悪いことではないです。それがはるちゃんの良さでもあると思います」
「でもそのせいで今こんなんになっちゃってる。我ながら情けないや。変わらなきゃね。周りの環境は簡単には変わってくれないし、私が変わるしかないって思う……」
私も皆みたいに適当にできていたら良いのに、とは思う。
でもそれができていないから、今こんなに苦しんでいるんだ。数字に縛られることに疲れて、少し不真面目になっても良いんじゃないかと自問自答したこともあったが、結果的に私は不真面目にはなれなかった。自分のプライドが、楽な方に行こうとする私自身の邪魔したのだ。
でもこのままでは、新庄さんとうまくやっていけるなんてあり得ないこと……。変わらなければいけないのは、私。
「周りの環境が簡単には変わらないように、自分を変えることも難しいことです。時間もかかります」
「うん……」
「大久保さんの言い残した言葉を覚えていますか」
最終出社日の大久保さんが私たちに言ったセリフが浮かぶ。
「えっと……個性を大事にってやつ?」
「そうです。真面目なのははるちゃんの長所なんです。でも新庄さんのやり方では、はるちゃんの個性を殺そうとしてしまっている……。そして体調に支障が出るまで追い込んでいる。マネージャーとしてあるべき姿ではないと思います」
「……」
初めて聞いた新庄さんに対する否定の言葉に、救われた気分になった。
業務において、的を得た発言に定評のある水野が口にする言葉だから尚更だ。
「評価に関わるので皆普通の顔をして業務をしていますが、きっと思っていることは同じなんじゃないでしょうか。何度かこの件で新庄さんに掛け合おうと色々考えました。でもやっかいなのは本人に悪意がないことですね。セクハラと違って、パワハラの線引きは難しいところ。部下の成長のためだと本人が信じて疑っていないのであれば、我々が彼のやり方を否定することは立場的に難しいのが現状です」
水野は申し訳なさそうに少し俯いた。
私の知らない間にこいつも色々と考えてくれていたんだ。リーダーとして水野は私だけではなくてチーム全体をちゃんと見ていた。本当に関心する。しかし、現状は対処策がないようで。
「うーぬ……」
顎に手を当てて小さく唸る。
水野の言うように、セクハラの線引きは簡単だ。受けた本人がセクハラだと思えば、それはセクハラになるから。しかし、パワハラはそう簡単に断定できない。
ハラスメントだと断定できれば話は早いのだが……。
「はるちゃんの今回の体調不良は交渉の大きな材料になります」
「それはやめて。……新庄さんとはそういうしがらみを作りたくないし、今回の体調不良の原因が新庄さんだってことも他の社員の人には知られたくない……」
誰とでもうまくやれる、うまく業務を回すという自分の印象が崩れてしまうという危機感から早口で応答する。あぁ、また自分の悪いところが出た。
水野は私のことを真面目だ、と言ったが裏を返せばただプライドが高いだけなんだと思う。どうして楽になれる道からそうやって逃げようとしてしまうんだろう。ドMなのかな、私。
言い終わった後には、落胆と同時に身体の力がすっと抜けてしまった。
「そう言うと思いました。もう少し考えてみます」
水野は柔らかい表情で小さく息を吐いた後、何かを考えるしぐさを取った。
「新庄さんには死んでもらうしかないわ」
極論。
何かで事故死でもしてくれたら全て解決する。縁起でもないことかもしれないが、もうそれしか浮かばない。
「……望むなら殺しましょうか」
「うん。……って、うぇっ?」
あまりにもあっさり言ったものだからスルーするところだった。
冗談なんか言わなさそうな声のトーンでいつもこいつは冗談を言う。本気なのかそうじゃないのかの区別ができない。まだ善と悪の区別がつくようだが、本当にやりかねない感じがビンビンするので怖い。
「それで私が捕まってしまったら、はるちゃんは悲しみますか? 私を思い出してくれますか? 監獄まで会いに来てくれますか?」
意地悪な笑みを浮かべている。
私の心はシュッとなった。
「やめて? 犯罪はダメ。絶対」
「ふふ。……では犯罪を犯さずに済む方法を提案します。解決するための方法は今のところは3つかと。1つは部署の異動申請をすること、もう1つは転職、そしてもう1つは私に飼われることです」
私は若干のショックを受けた。まさか水野から異動や転職を勧められることになるなんて思ってなかったからだ。
「……転職はしない」
「どうして……」
どうして? なんでそんな質問をするの?
弱る。
「だって……そばにいさせて欲しいって言うから……」
小さな声で言うと、水野はハッと目を開いた後に一歩こちらに歩み寄った。
「はるちゃん……私のことは――」
なんなんだよ、一緒に働きたいって思ってたのは私だけ?
私がいなくなったら死ぬ、とまで言った奴がなんで転職なんか勧めるんだよ……。
「異動も嫌だ、同じ理由で。あんたには死なれたら困るし」
弱っている私のことを心配して……水野はこれが私にとって最善だと思って提案してくれているってことは分かっているけれど。それは分かっているけれど……。
思い通りにいかないことに駄々をこねるガキのようで自分が嫌になる。
もっと私を求めて欲しい。
今の心情を言語化することは出来た。でもそれを口にすることはできない。
「じゃあ私のペットになりますか」
「……そういう現実離れした提案は受けない」
もどかしさにぶっきらぼうに言い放つ。
結局、水野から提案された3つの選択肢に全て蓋をしてしまった。
「これは冗談では言ってないですよ」
ピタっと冷たいものが左頬に触れた。
水野はいつの間にか私の前に立っていた。
「なっ」
いきなりのことに一歩後ずさりしようとしたが、もう片方の手で右頬を押さえられ制される。
「私の目を見てください」
綺麗な瞳……。キスしてしまいそうな距離感だがそれはできない。
私の体温で温められ、水野の手は少しの熱を持ち始めた。心地よい温度だ。この熱で全身包まれたなら……。抱きしめられたいと思った。華奢ながら、確かにそこに存在している胸のふくらみに飛び込んでしまいたいと。母親に抱きしめられたことがなかった私は、水野にどこか母性のようなものを求めているのかもしれない。
「……はは。もういっそのこと、あんたに飼われてしまいたいと思っちゃうくらいには弱ってるかもしれないや」
私は私自身を縛り付けている。
縄を切ることもできるが、価値のない私を誰が認めてくれることだろう、愛してくれることだろう。そんな恐怖からひたすらに逃げていた。
でも、あなたがそんな私でも認めてくれて、愛してくれるというならハサミを持っても良いかもしれない。……なんて。
「養います。毎日たくさん美味しい料理を作ります。ふかふかのベッドを用意します。そして……。その……」
水野は口ごもって頬に添えた手を離し、目を逸らして言った。
「三大欲求では不自由させません……から」
なんでこういう時だけ恥ずかしがってる感じ出してくるの。いつもはスっとナイフで刺すかのような淡々とした口調のくせに。本当良く分からない生き物だな。
そう思うとふふっと笑いが漏れた。
「最後何て言おうとしたの?」
「……これはセクハラです」
「なんだよ、自分から言おうとしてきたくせに」
愛くるしさに再度ふふっと笑いが込み上げて、頭を軽く撫でると水野は小さく声を漏らした。
「久しぶりに笑った気がする。なんか元気出たわ。週明けから頑張らないとな」
こうして会いに来てくれたこと、弱った私でも見捨てず心配してくれたことが嬉しかった。私が恐れていたことは皆に愛想つかされて見捨てられてしまうこと。水野はこんな私でも寄り添ってくれたし、養うとも言ってくれた。それで少し元気が出た。
捨てられたら生きていけないのは私の方かもしれないな。
ともかく、水野のおかげで頑張ろうと思う気力は出てきた。
少なくとも現状を相談できる相手が1人いると思うとだいぶ気が楽だ。
「無理はしないでください」
「大丈夫だよ。わざわざ来てくれてありがと」
夜も遅い。
水野も長居はする気はなかったようなので、マンションの下まで見送った。
「はるちゃん」
別れ際でふと名前を呼ばれる。
「ん……?」
「私ははるちゃんのためなら何だってしますから。何だって……」
私に対するエールの言葉だろう。
この時は、水野のこの言葉をそれくらいの温度感でしか受け止めてなかった。
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