組織改変

 週明けの月曜日。

 何日か休息を取ったこともあり、視界の靄が少しばかり取れて執務室はいつもよりも鮮明に見えた。朝も胃は痛まなかったし回復はしている。

 だが、これからまたあの地獄のようなタスク管理に追われるのだと思うと肺に入ってくる空気は重く感じられた。



「あ、京本さん! おはようございます」



 執務室のドアを開けると、寺内さんが小走りでこちらまでやって来た。私が休んだことを寺内さんは心配していたようで、プライベート用の携帯の方にも私の体調を気遣うようなメッセージが届いていた。

 心が弱っていたこともあってなんだかんだ嬉しかったのを覚えている。



「おはようございます」



 歯を見せて微笑んでみせた。うん、まだ自然に笑えている。

 寺内さんはどこか照れ臭そうな表情だ。



「もう体調は回復されました?」


「はい、一応。ご心配おかけしました」



 今は症状が出ていないが、またぶり返す可能性も十分にあるので、胃が痛くなくても薬はかかさず飲むようにはしている。今後どうなるかちょっと怖い。



「良かったです……。京本さんが何日も休むなんてすごい珍しいことだから、もしかして何かあったのかなって思って……。余計な心配でしたかね」



 体調不良以外の可能性を示唆する含みのある言い方に心がドキっとする。



「医者には日頃の疲れだって言われちゃいました。少し休んだのでもう回復しましたよ」


「そっか……俺、肩くらいなら揉めますよ! 小さい時よく祖母の肩揉んでました」



 寺内さんは盛り上がりのない力こぶを作って、はにかんだ。



「あはは、ありがとうございます。お気持ちだけ」


「はは……。また本調子に戻ったらまた飯にでも――」


「おはようございます、京本さん」



 少し高めの男性の声。

 寺内さんが言いかけているところに割って、声をかけてきたのは新庄さんだった。

 


「……おはようございます」



 控えめな口調で返す。一気に現実がやって来た。

 正直、新庄さんの姿を見るだけで胃の痛みが再発しそうだ。



「体調はいかがですか」


「大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」



 色々言いたいことはあるが、休んで迷惑をかけてしまったのは本当のこと。今回の件で察して、もう少し進捗管理を緩めてくれても……と期待を込めて頭を軽く下げた。



「良かったです。まだ病み上がりで本調子じゃないかもしれません、辛くなったら無理をせずお休みください。その点は私からのコンセンサスが取れていると思ってもらって良いですから」


「はい」



 コンセンサス……こりゃだめだ。

 週が明けて新庄さんの体の細胞が全て入れ替わっていたら良いのにと思っていたがそれは叶わぬ夢だった。



「あ、いたいた! 新庄君」



 大きい声。横内さんが足早にこちらまでやって来た。

 なんだかバタついている様子だ。



「どうしましたか」



 新庄さんは冷静に尋ねた。



「お話ししたいことがありまして……。急なんですが取り急ぎ会議室まで来られますか」


「はい」



 まだ業務開始時間前だが……。

 マネージャー同士で何か仕事の打ち合わせだろうか。執務室を後にする2人の背中を見送った。



「……何かあったんですかね」


「どうでしょう。いやぁ、マネージャーって大変ですよね。横内さん、前から忙しそうでしたけど、グループ長になってもっと忙しくなってる気がしますよ。予定覗いても会議でビッシリですし」


「マネージャーですからね」



 会社の意思決定に携わるの分、責任は重くなり、何か問題が起これば長時間労働は避けられない。

 プレイヤーとして活躍していても、地位が上がれば表舞台に立つことはあまりなくなり、平社員との接触の機会は減る。

 マネージャーが会議が多くなってしまうのは仕方のないことだ。



「まぁそれは良いんですけど、なんか放置プレイされてる感じなんですよね。俺らの直属のマネージャーなのに」



 マネージャーがべったりすぎても辛いぞ。

 今の私からしたら羨ましい環境だ。横内さんの放置プレイなら大歓迎だ、ずっと放置プレイしていて欲しい。



「ある意味、裁量持ってやれる環境なのかもしれませんよ」


「まぁそうですね。京本さんは新庄さんとはうまくやれてますか?」


「はい……」



 大嘘をついたが、うまくいってないなんて言ったら話を掘り下げられてしまうし、これで良い。



「噂に聞いていた通りお堅めそうな人ですけど、さっき京本さんのこと心配してくれてたし、案外良い人だったりするんですかね」


「そうですね……。すいません、そろそろ」



 もういいよ、新庄さんの話は。気分悪い。

 時計をチラッと見る素振りをする。



「あ、引き止めてすいませんでした!」


――――――――――――――



 時は朝会。

 勤務開始時間から30分後のことだった。



『申し訳ありませんが会議が押しているので本日の朝会は水野さん、京本さんマターで進めておいてくれますか』



 中途採用チームのグループチャットに1通のメッセージが入った。新庄さんからだ。

 さっき横内さんと一緒に執務室から出て行ったっきり戻って来ていない。横内さんも同様だ。2人の話が立て込んでいるのだろうか。

 何か問題が起きていなければ良いのだが……。



「水野さん、新庄さんからのメッセージ読みました?」


「はい、朝会は私たちで進めましょう。京本さんは病み上がりだと思うので今日は私がファシリテートします」



 ファシリテート。

 新庄さんが使ったら腹立つけど、水野なら全然許せる。

 水野の言うように休んだこともあり、私はチームの進捗状況を把握しているわけではない。ここはお言葉に甘えることにした。



「……お願いします」



 ファシリテーターの水野は皆に告げた。



「今日何をするのか簡単に報告していただければ大丈夫です」


「簡単に……?」



 増田さんが問う。



「はい、分単位じゃなくて結構です」



 さすがだ。女神。もうずっと水野が朝会やってくれ。

 いつもは長く感じられる朝会も、ザックリした予定の共有により一瞬で終わり、皆そそくさと自席に着いて各自のタスクに手を伸ばし始めている。



「えー、皆さん今少しお時間あります?」



 朝会が終わってしばらくしてから、声をかけられた。振り返ると横内さんと新庄さんが立っていた。その声は中途採用チームに向けられたものだと察する。

 私たちの視線は一気に2人に注がれた。



「後ほど正式にアナウンスするんですが、組織改変に伴って新庄君には新卒チームをメインに見てもらうことになりました。急ではあるんですけど、よろしくです」


「……」



 え……?

 我々は突然のことにそれぞれ顔を見合わせた。



「組織……改変ですか」


「そう。今の状況だと僕が新卒チームをなかなか見ることができなくてね……。新庄君にお願いすることにしました。中途チームにはリーダーが2人もいるから、マネジメントの面では心配ないと思ってます。新庄君の代わりに僕が中途チームをメインで見ることになったので何か困ったことがあったら相談してください」



 横内さんは主に水野の方を見てニヤッと笑った。

 キモい……。が、今は私から新庄さんを引き離した救世主だ。でかした横内。

 30秒間手を握ってやっても良い……。いや、やっぱ15秒。



「ということです。短い間でしたが皆さんありがとうございました」



 新庄さんは深々と頭を下げた。この話には合意している様子。

 どんな議論が繰り広げられたか知らないが、きっと朝に2人はこのことについて話し込んでいたんだろうと思う。



「あっはっは。まるで退職するみたいな言い方しないでよ、人事としてこれからも共にやっていくんだから」


「そうですね」


「新卒チームにも挨拶に行きましょう」


「はい」



 新卒チームの方に2人の影が動いていく。

 私は隣の席の川添さんの方を見た。川添さんもこちらを見た。唖然とした表情だ。



「組織改変するって聞いてました?」


「いえ……。初耳です、びっくりですよ」


「私が休んでいる間に何かあったんですか」


「特には……ないと思います」



 こんなにあっさり……。

 嬉しくないと言えば嘘だ。もう天井が突き抜けるくらい高く飛び跳ねて喜びたいところ。しかし、あまりの事態の速さに状況を素直に飲み込むことができない。



 水野の方を見る。

 彼女は何ともないといった顔をしていた。



「水野さん、リーダー会議までの間少しお茶しませんか」


「良いですよ」



 唯一私の事情を知っている水野と話がしたいと咄嗟に思い声をかけると、すんなりついて来てくれた。

 オフィスの中には、社員に無料でコーヒーを提供してくれるカフェスペースがある。そこで働いている人たちは、障がい者採用で雇い入れた人たちだ。

 皆笑顔で接客してくれるので、社員の日々の疲れを癒してくれる。



「お決まりですかー?」



 受付に立つと、お姉さんにオーダーを聞かれる。

 数種類あるコーヒー豆からお好みを選んでコーヒーを作ってもらえるのだが、どれを飲んでも私には美味しさが分からないので基本的には「今日のおすすめ」と書かれたものを頼むようにしている。



「オレンジジュースじゃなくて良いんですか」



 水野はちらっとこちらを見て言った。



「オレンジジュースなんてメニューにないから! ……ないですから。本日のおすすめコーヒーでお願いします」


「はーい。仲良いんですねぇ」



 微笑みながらオーダーを伝えるお姉さん。

 程なくしてコーヒーを受け取り、胸の高さくらいある高めのテーブルを囲った。立ち飲みだ。

 コーヒーの香りにふぅっと溜息が漏れる。普段なら1分たりとも無駄にできないと、こんなところで小休憩を挟むこともなかったが……。もう新庄さんは私たちのマネージャーではない。時間をあまり気にしなくて良いことがこんなにも気を楽にさせてくれるなんて……。



「良かったですね、新庄さんの件」



 水野は切り出した。



「あのさ……」


「はい」



 視線がこちらに向く。



「違うとは思うけどさ、あんたが何かしたわけじゃないよね……?」



 分かってはいる……。これは水野がどうこうできる問題ではないってことは。でもどこか違和感を拭うことができずに問いかけた。



「横内さんの言っているように、組織改変に伴うチーム体制の変更です。こういうのはDAPでも珍しいことではないと聞いていますが」



 言う通り、組織改変はよくあることで、メンバーが入れ替わる光景は日常茶飯事だ。でも今回のは……。



「うん、そうだけど……。なんか不自然というか何というか……」



 願ってやまないことではあったけれど、妙にうまく行き過ぎている気がするのだ。

 私が異動や転職をするのではなく、新庄さんが異動する……。これなら水野とも離れないし、最善の方向に事態が動いてくれたように思う。

 しかし、私が水野に相談してからすぐにこれが起きた。何かしらこいつが関わっている可能性も捨てられない。



「さすがに組織を揺るがすほどの力は私にはないです。新庄さんが殺された、とかであれば私を真っ先に疑っても無理はないと思いますけど。今まで胃の痛みに耐えていた分が報われただけじゃないですか」



 水野はすまし顔でコーヒーを一口飲んだ。



「うーん……」


「嬉しくないんですか?」


「嬉しいけど……」



 私も一口コーヒーを飲んだ。

 新庄さんから解放されたこともあり、コーヒーの苦みを忘れてしまうほどに心は穏やかではある。



「ラッキーだったと思えば良いだけの話だと思いますよ。……何はともあれ邪魔者は消えました。これで一緒に仕事ができますね」



 水野はこちらを見て口角を上げて微笑んだ。



「邪魔者って……まぁそうなんだけどさ――」



 話していると水野の手が急に私の首元に回った。急な接近にたじろぐ。

 ここオフィスなのに……皆いるのに何を……。

 咄嗟に水野から距離を取ろうと構えたところで、手は首から離れ、水野も一歩後ろに下がった。



「え、何……」


「襟のところ、少し乱れていたので直しました」



 襟くらい、言ってくれたら自分で直すのに……。

 緊張が解けたところに、先ほど微かに感じた臭いの正体に疑問が浮かぶ。



「……もしかしてタバコ吸った?」


「え?」


「何かふわっと……。気のせいか」



 水野から一瞬だがタバコの臭いがした気がする……。あくまで「気がした」だけで、確証はない。



「私は喫煙者ではありませんよ。そうですね……今朝、喫煙所の前を通ったからかもしれません。そんなに臭いますか? 夜に面接が入っているので消臭しないとですね」



 水野はジャケットのポケットからスプレータイプの消臭剤を取り出してこちらにラベルを見せた。



「まぁ近づいたから臭いしただけで、実際はそんな気にならないと思うよ」


「そうですか」



 ちらっと時計を見る水野。



「もう、良い時間ですね。飲み終わったら行きましょうか」


「そうだね」



 復活初日から突然の新庄さんの異動。

 水野も言った通り、ラッキーだったんだろう。どこか違和感を感じながらも、私は与えられた業務環境に身を任せることにするのであった。

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