心の手紙
白いエプロンをしてコンロの前に立つ水野に、何か手伝おうかと声をかけたが、はるちゃんに手伝ってもらっても料理が不味くなるから座ってろ、みたいなことを言われてしまった。腹が立ったので製氷機の中の氷をフライパンの中に入れてやろうかと思ったが、「入れたら殺すぞ」と言わんばかりの圧に屈して氷を自分の口の中に入れた。水野はそんな私を見てクスッと笑った。穏やかな空気に心がくすぐられた。
父と母は酒に使う氷がなくなるからと、冷蔵庫から氷を取って食べるということを許さなかった。口の中は冷たい。でも今こうして心が暖かくいられるのは水野が私を許容してくれているからだろうか。
テーブルに出されたのはオムライスにサラダ、ロゼワイン。ビジュアルは店で出されるそれと変わらない。
黄色いたまごに真っ赤なケチャップのシンプルなオムライスだったが口に入れた瞬間にとろりとした卵とケチャップライスが絶妙に溶けて舌鼓を打った。
「うまい」
「ミヤちゃんが作ったのとどっちが好きですか」
「決められない」
「……」
妙な視線を感じて前方を見ると、水野はスプーンを止めてわざとらしく拗ねたような表情をしていた。ふふっと笑ってワイングラスをそっと手に取った。
ワインを口の中で転がしながら、アルコールによる意識の揺れに思考を任せる。料理はミヤちゃんものも美味しかった。でもこうして過ごしているこの時間への満足度が味に作用しているのは言うまでもない。答えは明確に出ている。
「……あんたの方が好き、かもしれない、とでも言っておこう」
好き、と声に出したところで急に恥ずかしさが押し寄せて変に口ごもった言い方になってしまった。
何やってんだか。別に馬鹿正直に答えなくても良かったじゃないか。
「良かったです。特殊なスパイスが入ってますから」
水野は満足したように人差し指を上に1本立ててみせた。
「へー。なんていうスパイス?」
「愛情という名前のスパイスです」
「……何言ってんだバカか」
「ふふ」
水野は拳で口元を隠しながら笑った。つられて私も笑った。
こういう冗談も言えるんだね。楽しいな。
何気ない時間でも彩られていく。気持ちは高揚しているのに、一緒にいるとどこか安心感を覚えるような不思議な感覚だ。
一通り片付けを終え、水野はベッドの上にちょこんと座った。あまり近づくまいと私は少し離れたところにあるミニソファーに腰掛けた。
ご飯を食べるという目的は達成した今、私たちはフリーな状態になってしまった。少し話したらもう帰ろうと心に決めた。そわそわしているのがバレてしまう前に。
「好きな食べ物ないのに料理は得意なの?」
水野には好きな食べ物がないと川添さんが言っていたけれど、どっから料理を作るモチベーションが来ているんだろう。
「料理はただの暇つぶしです」
あれが暇つぶしのクオリティーかよ、と返事をしようとしたところで灰色の影が視界に入ってきた。プリンはひょいっとベッドに乗り上げると水野の膝の上で丸くなった。こうして室内で改めて見ると、前に見た時よりも大きくなったように思う。
「猫にプリンって名前つけるくらいだからプリンが好きだと思ってたけど」
「プリンはスプリングから取ってるんで」
「スプリング……春?」
「春輝の春です」
「な……」
猫の名前はまさかの自分由来のものだった。私としてはちょっと複雑な心境だ。
「いっそのこと、本物のはるちゃんを飼ってみたいですね」
プリンの頭を撫でながら水野は呟いた。
「前もそんなこと言ってたよな。飼いたいってどういうことだよ……」
普通、人間に対してこんなこと思う?
私のこと、ゆるキャラか何かと思っているのだろうか。
「まんまです。家の中に閉じ込めて、他の誰の目にも触れさせないようにして、私がいないと生きていけなくするんです」
「正気か」
好きな人であれば一緒にいたいし、同じ時を過ごしたい、と思うものだろう。自分以外の誰かと関わって欲しくないという独占欲が向けられること自体は何とも思わない、むしろ嬉しい。
でも相手の自由を奪って支配しようとするのは少し違うのではないだろうか。
「さっき飲んでたワインに睡眠薬を入れておきました。起きた時には首輪がついているかもしれませんね」
水野は瞳孔に光の入らない目のまま広角をわずかに上げた。寒気のようなものが背中に走った。
「え、冗談だろ……!?」
口元を手で押さえて立ち上がった。
さっきガッツリ飲んでしまった。眠気のようなものはまだ来ていないが、今からでもお水をいっぱい飲めば薄まる……? 吐き出すしかない……? どうしよう。
「冗談です」
「冗談かよ!」
勘弁してよ……。一気に脱力して再度ソファに腰掛けた。
本当にやりかねないオーラばんばん出してくるから怖いんだって、まじで。
「……人に故意に睡眠薬を飲ませるのは傷害罪です。閉じ込めた場合は逮捕監禁罪。やって良いことと悪いことの線引きはできているつもりです。まだ」
ふっと安堵の息を漏らした。
人は心が病むとIQが落ち、まともな判断が出来なくなる。仕事でストレスが溜まった時、蓄積されたストレスでIQが落ち、仕事のパフォーマンスが低下することで更にストレスが溜まっていくという悪循環が発生する。うちの社員はプライドが高い人が多いから、この循環にハマるとなかなか抜け出せなくなってしまい、心が病んだ社員は退職を余儀なくされる。
水野はその点、著しく自己肯定感が低く病んではいるが論理的に正解を導き出して仕事でも高いパフォーマンスを発揮している。
自分の目的を果たすために、倫理を捻じ曲げで良いわけではない。そこを水野はまともに考えられるようで良かった。
「まだっていうのが気になるけど……」
「仮に監禁したとしても今回みたいに脱走されてしまったら、もう私は生きていけなくなってしまうでしょうから……しません」
プリンは身体を起こすっとベッドを降り、そのままキャットタワーの上まで駆け足で登っていった。何となくだが、今回の脱走はきっと猫の習性的なもののせい。
対して人間の私に「脱走」されるということはすなわち私からの拒絶を意味するものだろうが、生きていけない、という言葉が引っかかる。もう何度も言われてきた気がするけれど……思い切って……
「あの、さ……もし私がいなくなったらあんたは……」
「死にます」
さらっとした声が返ってきたが、ふりかかったその言葉はずっしりとしていた。水野の目に迷いはなかった。人の命がかかっている。責任という言葉の重みで呼吸がし辛い。
無責任だ。死ぬだなんて。
そんな言葉を軽々しく口にして、それが私の自由を奪っている。水野は首輪をつけるのは現実的な話ではないからと、間接的に心の足枷を私にはめたも同然だ。
「死ぬほど好かれる理由が分からない」
おでこに手を当てる。
「……仕事中の京本さんのことも好きです」
「え」
「高校入学した当初、明るく皆を引っ張る表向きの春輝さんに惹かれました。でも、素を知ってもっと好きになった……」
「そうなの……」
「つまり何が言いたいか分かりますか? 私は、はるちゃんの表も裏も、全部、愛しているということです。たとえはるちゃんが親に認めてもらえなくても、私が認めます。この気持ちは他の人には負けませんよ。ミヤちゃんにも、寺内さんにも。文字通り、死ぬほど好きですから……」
「……」
握り拳を固めた。水野と一緒にいて安心感を覚えるのは、こいつが「私」を認めてくれているからなのかもしれない。
好きな人に死ぬほど好きだと言われる。それ自体は死ぬほど、嬉しい。
でも私はこの思いには……。
「たまに自分が怖くなるんです」
水野はベッドに腰かけたままその場でうなだれて小刻みに震え始めた。
「怖く……なる? どうしたの……?」
「はるちゃんが私に振り向くことはない、それは分かっていました、それで良かった……。でもあの時、寂しさを埋めるために私を利用してくれるならと欲望のままに動いて、結果的にはるちゃんを泣かせてしまいましたね。私は自分のしたことを後悔しました……。でも、はるちゃんの泣き顔を忘れることができなくて……何度も思い出して……それで……」
目から涙があふれたかと思うと、水野はそれを隠すように両手で顔を押さえて続けた。
「ダメだと分かっていても、止められない。自分を制御できなくなりそうで怖いんです……あなたのことが好きすぎて怖い」
「ねぇ、大丈夫?」
情緒が不安定になっている。焦る。
隣に座って背中に軽く手を置いた。
「優しくしないでください。私はあなたの歪んだ顔さえも求めてしまう愚かな人間です」
「だ、だとしても、目の前でいきなり泣かれたら心配するだろうが! 無視しろってか? そんなの無理!」
「失礼、泣いてませんから」
水野は手で顔を覆ったまま言った。
「嘘つくな。……あんたが頭おかしいことは知ってるから。今更どうも思ったりもしないよ」
「……その優しさにつけこんでしまいそうになります」
手を下にずれて目が露わになる。水野の目は充血していた。
「歯止めのきかないまま、はるちゃんのことをめちゃめちゃにして、気がついた時には後戻りできないところまで来てて……病的な私は社会的にも排除され、あなたにも捨てられる……そんな未来が見えます」
私に捨てられる……?
何言ってんだ。妄想の先走りもたいがいにしろ。
こう思ってしまうのも、水野が自分に自信がないからだ。
監禁したい、閉じ込めたいという欲求も自信がないがゆえの独占欲から来ているもの。相手の気持ちが他に向くのが怖いから。常に不安なんだ。
感情や欲求の制御ができないのも、不安だから。私の歪んだ顔を求めてしまうというのも、人よりも自分の方が相手のことを知っているという事実で自分を安心させたいだけだ。そうだろ!
……分からなかった。水野の思考は訳が分からなかった。でもあいつの思考の根本にはいつもこの「不安」が渦巻いているということは確かだ。
であるのならば、その不安を私が取っ払ってやる。あなたが私を認めてくれているように、私もあなたを認めてやると言いたい。だって私は飛鳥のことが……。溢れる思いを心に手紙に綴る。
「私はあんたを捨てたり、見放したりしない。これは自分だけの話じゃないんだから抱え込むな。不安なことがあれば話してよ、受け止めるから、突き放したりしないから。それで一緒に話し合ってどうすれば良いのかを考えていけば良い。だからバカみたいな未来を見てんじゃねーよ!」
今この場でそう言えたらどれだけ良いことだろうか。唇を噛みしめながら私は水野の背中をさすった。
「はるちゃん、私はずっとこのままでいたいんです。失いたくない。……だからこそ、私の気持ちに応えようとしないでください」
水野は目に涙を溜めながらも無理に目を細めてこちらに笑ってみせた。
あぁ……。こいつがはるちゃんの恋人にはなれないからと言った理由が分かった。私が優しくすること、近づきすぎることで、自分の行動が制御できなくなってその後――失うのが怖かったからだ。
でも怖いのは私も同じ。本当は今すぐこいつの手を取ってあげたいと思う、でも私にはそれができないのだから。今まで築き上げてきた地位や名誉を失うのが、怖いから。普通から逸れてしまうのが怖いから。臆病者なのは私と同じだ。
でもこれで良い。私が何もしなければ、お互いの思い描く恐怖から離れてた場所にいられる。だからこのままで、良いんだ。
胸が苦しい。叶えちゃいけない思い。
人を好きになるって、こんなにも苦しいことなんだね。
ねぇ、
「飛鳥」
「え……」
水野はあっけに取られた表情になった。
「あ、えと……寺内さんに神田呼びを怪しまれたから、その……」
目線を逸らして頬を指先でかりかりしていると、ぎゅっと抱きしめられた。柔軟剤だろうか、良い匂いがした。
「……」
「何もしないんじゃなかったの」
「抱きしめるだけ……」
小さな心臓の鼓動を感じながら、ベッドの枕元に視線を映す。私のあげた枕はそこにはなかった。
「あのさ、私の枕って……」
「ファスナー付きのプラスチックバッグに入れて保存してます」
「えっ……なんで」
「はるちゃんの匂いが消えないように」
減るもんじゃないのに。
手を上に少し上げて水野を包み込む体制をとった。
「そんなことしなくても……」
私が毎日抱きしめれば匂いなんて消えやしないのに。
なんてね。
「……なんでもない」
背中に触れず、そのまま手を下におろした。
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