出口


「今日で大久保さんラストかぁ」



 朝のオフィス。今日は大久保さんの最終出社日である。

 窓ガラスをすり抜けて差し込む白い陽光に、それを彩るかのように香るコーヒーの匂い。今日も見える景色は変わらない。しかし、円を描くように大久保さんを取り囲む私たち――中途採用チームのテンションがいつもよりも低めなのは、来月から優秀な上司を1人失ってしまうからだろう。

 大久保さんが会社を辞めてしまうのは周知されていたことだし、我々もそれを受け入れて仕事をしてきたが、いざ最終日となると灯の消えたような寂しさが押し寄せる。



「寂しくなりますね」


「はは。ずっとお世話になってきたオフィスだから、なんだか名残惜しい感じがするね」



 大久保さんはネックストラップの下にぶら下がっている社員証を手に取り、しみじみとした顔で見た。長い時を一緒に過ごしてきた少し色あせたそれを、午後にはネックストラップごと総務に返却しに行かなくてはならない。社員証を見る大久保さんの眼差しには色んな思いが詰まっているように思えて心が沈んでいくような、未来を応援したくなるような何とも言えない気分になる。



「いつでも戻ってきて良いですからね」



 私がそう言うと大久保さんは力のない笑顔をこちらに向けた。



「ありがとう」



 そのお礼は、改めて私たちに「別れ」というものを感じさせたようで、しみじみとしたムードが流れた。皆、口を一の字に口を結んでいる。

 人事の初期から一緒に働いた。仕事のできる大久保さんからは多くの学びがあったし、たくさんお世話になったな。



「本日で大久保さんは最後の朝会になりますが共有事項や何か話しておきたいことなどありますか」



 水野は感情のこもっていない声でその場をぶった切った。

 ……まるで死ぬ前に言い残すことはないか、とでも聞くような悪役ばりのセリフに聞こえる。本当にこいつは……。まぁらしいっちゃらしいけど。



「うーん……。皆優秀だし俺は特に何も心配してないからなぁ。えー、胸を張って明日への扉を開いて行ってください」


「開きましょうか、明日への扉……」



 社員の一人が大久保さんの言葉を復唱したところで、クスクスとした笑いが連なり、場が少し和んだ。



「あはは。まぁ、最後だしたまにはこういう場でマネージャーらしいことを言ってみようかな……」



 大久保さんはそう言うとネクタイを整えた。

 我々はたちまち傾聴の姿勢に入った。



「えー。働いていく中で、自分のダメなところとかが顕著に表れることはあるかもしれませんが、悲観的にならないで欲しいです」



 大久保さんは社員一人一人の表情を一望するように視線を横にずらしながら話した。



「……」



 いきなりそんなことを言われても……どういう意味だろう。

 私と目が合ったところで大久保さんは言葉を続けた。



「欠点は、利点と表裏一体とも言えます。例えば、心配性なのは責任感が強いってことだし、優柔不断なのは慎重だから、負けず嫌いなのは向上心が強いという風にポジティブ変換することができます。だから、自分の短所を直そうとして潰すことは、長所を潰すことに等しくなる。そうなると人は無個性化します。私たちは面接でもロボットのような個性のない人に合格は出しませんよね、無個性の人は上にあげる理由がないからです」



 おぼろげにこれまでの面接を思い返した。

 確かに、そうかもしれない。結局合否は面接官の好き嫌いで決まる節が大きいし。無個性の人は嫌われることはないが、好かれもしない。面接官からの「好き」を勝ち取ることができなければ合格が出ることはない。

 聞いた質問にただ答えてもらうだけなのであればわざわざこちらが時間を割いて面接を行う必要はない。質問用紙を一枚送って、記入してもらうだけで良い。でもそれをせずに私たちが対面で人と会って合否を決める理由。それは受け答えの文言だけではなく考えるしぐさ、動作も含めた「人」を見ているから。面接の場で個性を測っているからだ。



「この先、逆境を乗り越えていく中で自分の新たな一面を知るかもしれない。その時は、これも自分なんだと否定せずに向き合きあい、より長所を伸ばすことを考えて欲しい。自分の個性を潰して普通の人になってもらいたくないと思います」


「……」



 皆黙って言葉を聞いていた。

 彼らが大久保さんのこれをどう受け取ったかは分からない。

 私にとっては抽象度の高い話だ。これまで何度も窮地に追いやられてきたが、なんとか乗り越えて来られたし、自己分析を繰り返して自分の強みや弱みは理解しているつもりだ。

 たくさんの経験を積み上げてきた大久保さんが言うのだから、説得力のある言葉のようにも思うが、今の自分にはいまいちピンと来ない。頭のどこかには留めておこうとは思うけれど。



「そんなことかなー。自分らしさを胸に明日への扉を開いていってください」


「はい」



 口々に返答する社員たち。私もはい、と声に出して返事をした。

 明日への扉を開いていこうと思う。



「はは。……皆からは何かある?」



 一時の沈黙が横切った。



「じゃあ朝会はこんな感じで。今日もよろしくお願いします」


「「よろしくお願いします」」


「京本さん、ちょっと良い?」



 大久保さんのラスト朝会が終了。メンバーが自席にぞろぞろと戻っていく中で名指しで呼び止められた。



「……はい、なんでしょう」



 ついて来てと言われるまま背中を追いかける。

 大久保さんは面接で使う会議室の前に立つと、周囲に誰もいないことを確認し、「特権は使えるうちに使わないとね」と歯を出して微笑み、カードリーダーにセキュリティカードの内臓された社員証をかざした。

 わざわざ会議室の中に私を呼び出した。何か重要な要件であることは間違いないだろう。そわそわする。



 中に入ると、座るよう促されたのでそのまま腰を下ろした。大久保さんは革製の名刺入れから1枚取り出し、こちら側が正面になるようにテーブルの上にそれを置いた。

 名刺には『ソールドフォース 人事部部長 松原卓実』と書かれていた。

 ソールドフォース……。AIを用いた顧客関係管理システムを取り扱っている会社だ。我々が会計システムをメインにしているのに対してソールドフォースは顧客関係管理……。導入実績およびシェア率はその分野ではナンバー1の競合企業である。



「なんですか……?」



 そんな名の知れた大企業であるソールドフォースの人事の名刺をなぜ私に……。

 セミナーや勉強会などへの招待を受けたので行ってきて欲しいとかならまだ分かるが……。

 名刺の文字を何度も目で往復した。



「京本さんが熱中症で助けた人のものだよ」



 大久保さんは向いに座ると、手で顎に触れながら口角を上げた。

 あの人、ソールドフォースの人だったんだ。本社はここから少し離れたところにあるはずだが、人事なこともあってここら辺の企業に訪問していたのかもしれないな。

 でも……



「どうして大久保さんが……」



 あの時、大久保さんは休んでいたし私が熱中症の人を助けたという話題はあの場きりだった。

 まわりにまわって大久保さんが何故、その人の名刺を……。



「実は俺の大学の先輩でさ、よく飲む仲なんだ」



 そんな偶然、あるんだ。

 にしても……



「そうなんですか。でもどうして助けたのが私だって分かったんですか」



 DAPの社員であることを教えていないし、名前を聞かれた時にも名乗らなかった。特定できるようなことはしていないはずだ。



「これだよ、これ」



 大久保さんは自分のネックストラップの紐をつまんで持ち上げた。



「あぁ、もしかして社員証、見られた感じですかね」


「そう。リクルーティングディビジョンって書いてあったのが見えたって。速攻俺に連絡があったよ」


「そうだったんですね」



 特に会社からは外出時は外すようにと言われているわけではないので、それに甘んじてつけっぱなしでいることが多かったが、意外と人は見ているものだな。こんなひょんなことから情報漏洩につながることもあるのだから今度からは気を付けなきゃ。



「話聞いてみたら、背が高めで品があって洗練された雰囲気の綺麗系な女性と、若めの男性って言ってたから女性の方は京本さんだなっていうのがすぐ分かった。あ、この発言はちょっとコンプライアンス的にNGだったかな。ごめんよ、聞き流しておいて」



 直接的ではないにしろ、今の発言がセクハラにあたると思ったらしく大久保さんは苦笑いでごまかした。

 正直、横内さんみたいな汚いおじさんにこれを言われたらセクハラ認定していたところだが、大久保さんにそう思ってもらえているのは嬉しい限りだ。数か月前の私が聞いたらきっと舞い上がっていたことだろうと思う。数か月前の私なら。



「ずいぶん良い評価をいただけていたようですね」


「はは。俺が休んでいた間にも大活躍してくれたね、俺も鼻が高かったよ。さすが京本さん」


「いえいえ。その後、その方……松原さんが無事なようで良かったです」


「うん。ちなみに、もう一人の男性社員は誰?」



 大久保さんはキリっとした表情で尋ねてきた。

 あれ……寺内さん、名前聞かれた時に名乗ってたけどあの人覚えてなかったのかな。



「寺内さんですね」


「やっぱりそっか。うーん」



 大久保さんは渋い表情になって腕を組んだ後、ゆっくりと口を開いた。



「……このことは寺内さんには黙っててくれるかな」


「このことって……?」


「俺が名刺を渡したこと。松原さんは社員と会いたいみたいだから」



 何か引っかかる言い方だ。



「私と会って松原さんはどうするつもりなんでしょうか」


「お礼がしたいんだと思うよ。名刺に書いてあるアドレスにメールして欲しいってさ」



 テーブルに置かれた名刺。メールアドレスを目で辿った。

 お礼をするためだけなら寺内さんだって入れて良いはず。でもそこをあえて私だけに絞っている……。松原さんは人事でDAPの競合他社。何となく察するものがある



「別に強制じゃないよ、渡してって言われたから俺はこれを渡しただけだし。……良いご縁になると願ってるよ」



 ご縁、という言葉で確信に変わった。

 松原さんは引き抜きに近いことを考えていて、それを大久保さんが手助けしている状況なのだろうと思う。



「大久保さん……? つまりそれって……」


「会社のメールアドレスからは送信しないように」


「大久保さん……」



 細めの声が出た。ここに来て大久保さんが他社の人事との接点を促してきている。

 優秀な人材を採用して会社を盛り上げて行きたいと一緒に切磋琢磨して来た仲なのに……。自分は組織の一員ではなくなるからか、まるでそんなことあったかのように他社に私を差し出している。切ない。



「俺がDAPの人事を続行してたら絶対にこの名刺は京本さんに渡してないだろうね、優秀な社員を取られたくないから。でも京本さんが成長するための場がDAPである必要はないと思ってる。よく考えて検討してみて。話は以上だよ」



 大久保さんにとっては会社がこれからどうなるか、なんて関係ないことだもんな。



 会議室から戻り、自席に着いて、先ほどもらった名刺を自分の名刺入れにこっそり入れた。

 ソールドフォースがうちの会社の優秀な社員を破格の給料提示で何人も引き抜いていることを知っている。そのたびに「クソフォース死ね」と心の中で思ってきた。

 でもついにそのターゲットが自分になった、といったところだろうか。話を実際に聞いてみないと分からないかもしれないが、大久保さんの話から察するに引き抜きに近い話をされるだろうということは想像に容易い。今よりももっと良い条件提示が来る可能性は十分にある。



 水野と目が合いそうなって、私は隠すようにしてすぐさま名刺入れを鞄の中にしまった。

 失いたくないと苦し紛れの表情で言われたんだ。私でさえも大久保さんでこの喪失感だ。私が転職するなんてことになったら水野の悲しみは計り知れない。だからまだここを去るわけには……。それに、私も同じ会社の同じチームという口実を使って、もっと水野と一緒に仕事をしていきたいと思ったりもするわけで……。だから良い条件を提示されても転職はしない。この環境が好きだし、不満を感じているわけではないから。



 でも人事のコミュニティを広げて情報収集するという意味ではこの名刺は使えるかもしれない。



 ちょうどその時、執務室に寺内さんが入って来た。ごめん寺内さん。私はふっと息を吐きだして目の前のPCモニターに向き合った。

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