非凡と普通
中学1年生。
澄んだ空気、スカートの制服を身にまとった私は美術室の窓からささやかに揺れる木々の葉を見ていた。綺麗だった。
その頃には入学してから伸ばし始めた髪もちょうど肩の高さまで届くようになっていた。「男」をやめ、ありのままでいることの心地良さを感じ始めていた時期だ。
「みなさんの思う、人、を心のまま表現してください」
先生はそう言うと、画用紙を私たちに配り始めた。美術の授業での絵画のテーマは「人」であった。
背景は自由だ。その時、緑に溢れる外の景色を見ていた私は自然の中で戯れる人間たちを描こうと決めた。下書きはすぐに終わり、背景から着色。緑色の絵の具をパレットに出した。その時に誤って手の甲に絵の具を少量つけてしまった。私の肌の色は一部緑色になった。手の甲で光る緑に思わず見入ってしまった。今まで手に絵の具がついても何も思わなかった私が、光に照らされた緑の肌を見て綺麗だと感じた。
その時に思ったんだ。
白い肌の人や、黒い肌の人がいるように、緑の肌の人がいても良いじゃないか、と。
パレットに出される赤、青、黄色の絵の具。人の肌の色が「肌色」だけな世界では面白くない。だから私はパレットに肌色を出すことはなかった。隣の席に座っていた女の子は、すごいねーと興味深く私の描いている絵を見ていた。先生も、思うままに表現して良いと言ってくれた。芸術のセンスが特別あったわけではなかったが楽しかった。私は筆を休めることなく絵を描き上げた。
授業参観の日に、描いた絵の発表会があった。
保護者が後ろで立ち並んでいる中、教卓の前で絵を見せた時に教室にはクスクスと笑い声が響いた。それは私の思ってる反応とは違うものだった。大人たちは黙っていたが教室の異様な空気感にその場で硬直した。この作品にどんな思いがあるのか、どこに気をつけたのか、言うことをまとめていたのに言葉は出てこなかった。
そんな私に先生は笑顔で尋ねた。
「どうして肌を緑や赤で塗ろうと思ったの?」
先生のこの質問に悪気はなかったと思う。
でもこれによって小さかった笑いの種に油を注ぎ、渦上に巨大化して教室中に笑い声が響き渡ることになった。私の隣に座っていたあの女の子も私を見て笑っていた。人を馬鹿にするような音。愉快な笑いの音ではなかった。
ふと母親と目があった。眉間に皺を寄せて睨みつけられていた。その瞬間に身体中が恐怖と後悔の念に包まれて、黙ってただ下を向くことしかできなかった。
その後のことは覚えていない。あの日はただただ最悪な日だった。
クラスの皆に笑われた原因は単純、私が人と違っていたから。
あのクラスの中で、人の肌を肌色以外で塗っているのは私だけだった。おかしな奴だとバカにするような視線を浴びた。
……逸れるべきではなかったのだ。皆と同じように肌色をパレットに出していれば良かったのだ。
母親は授業参観以来、しばらく口を利いてくれなかった。
あんたのせいで恥をかいた、もう他の親に顔を合わせられない。春樹はうちの恥さらしだと父や弟のいる前で憎まれ口を叩かれた。
クラスの皆は授業参観後も仲良くしてくれたけれど、親に口を利いてもらえないことはとても辛いものだった。
勉強ができる、運動ができる、才能がある……人よりも優れていれば評価される。
でも、人は理解できないものを排除しようとする。面白がってからかう。「普通」から逸れたら仲間外れになるんだ。
私が小学生の時にいじめられた原因もそうだった。女である私が男のように振る舞っていたから。
今も、今でも何度も授業参観の時の母の顔が脳裏に蘇る。恐ろしい目だった。たまに夢にも出てくる。怖かった。もうあんな目を向けられたくない、誰からも。
どうしたら母は機嫌を直してくれる? 愛してくれる?
私は自分に非凡を求めるが、普通から逸れないようにしようと決めた。
それが部活や勉強、委員会の活動、交友関係、全てにおいて「模範的」な生徒を目指すきっかけとなった。
――――――――――――――
スーパーの売り場をゆっくりと歩き、棚に陳列するカップラーメンの箱を手に取った。休日の夕方のスーパーはほどほどに混んでいた。
家から距離のあるスーパーまで足を運んだ。水野が住んでいるマンションに近いからだ。偶然会えたりしたら良いな、などと思っている。毎日会社で会っているけれど、仕事がない日は特別感があるから。自覚してからというもの、あいつの顔を思い浮かべると気分が高揚してしまう。
先日まで自分が同性に惹かれることなんてありえないと思っていたのに、自分は違うと思っていたのに。揺れ動く霧のかかった自分の心のそれが晴れた。心底嫌っていた相手を好きになってしまうなんて笑けてくるし、はてなマークがいくつも飛ぶ。正直、困惑している。
水野は策士だ。無意識であれをやってるなら本当に罪な存在だと思う。揺さぶられまくった。だんだんと我にも無く水野のことを考える時間が増えていった。
見事に沼にハマってしまったんだ。
しかし水野への恋心を自覚すると同時に私は自分の中にあるこの感情が「普通」から逸れるものであるということも理解している。だから、決して外に出さないように、これは封じ込めなければ。他の誰かに知られるなんてことはあってはならない。
レジに並んでカップラーメンを3つほど買った。こんなの近くのコンビニでも買えるのにわざわざ家から距離のあるスーパーに来た意味があったのだろうか。
買い物袋を片手にぶら下げながら帰路を歩く。水野の住んでいるマンションをちらっと見た。いるかな、なんて思いながら。
車が走る音が聞こえる。横断歩道の信号が赤になっていたのでその場で停止した。
帰ったら、何しよう。読み残しのビジネス本や自己啓発本があるが、結局そういった類のものはどれも同じ内容のものばかりでつまらない。ダイエットの方法を知っていても、それを実際に実践できる人が多くないように、ビジネスにおいてハウツーの知識をインプットすることはそれほど重要なことではないということに最近気が付いた。結局は自分の経験が全てなのだ。
動画アプリにも飽きてきたし、明日面接の人の経歴書にでも目を通しておくか。なんて考えながら信号が青になるのを待つ。
「猫!」
「圭太!」
ん……?
声のする方向に首を動かすと小さな男の子が一目散に猫の元へ駆け寄っていた。驚いた猫は走って商店街の方へ逃げて行った。
赤色の首輪をした猫……その赤い首輪には見覚えがあった。基本室内飼いの首輪をしている猫が外にいることに違和感がある。
信号が青に切り替わったが、私はその場で水野のマンションを振り返りながら発信ボタンを押した。
「もしもし」
『はい』
1コールで水野は出た。どこか上ずっているような声だ。
「ねぇ、今プリンどこいる?」
『……見たんですか!?』
取り乱している様子が声から伝わって来る。
猫を見失わないように逃げて行った方向に足を進めながら返事をする。
「赤い首輪してる? 目の前にいたんだけど走って行っちゃった!」
『赤い首輪です、今どこにいますか?』
やはりあの猫はプリンだ。路地裏の方に行ったのですかさず追いかける。
「商店街の近く! 駅に向かう途中にある横断歩道のところ! 線路沿いの!」
『分かりました、すぐ向かいます!』
電話を切った後、路地裏を覗くと低木の影に座るプリンを見つけた。
持っている買い物袋が邪魔だ。その場にそっと置いた。
「おいで」
しゃがんで手を広げてみたが、プリンはその場でじっとしている。さっきの男の子みたいに駆け寄ったらきっと逃げられてしまうだろう。慎重に1歩1歩距離をつめた。
「大丈夫だから」
手の届く距離で頭を撫でるとプリンは目を瞑りながら気持ちの良さそうな表情を見せた。私に警戒はしていないみたいだけど、またどっか行ったら厄介だ。
猫の扱い方が分からないけれどこれで良いんだろうか。胴体の部分を両手で持ち上げてみると猫の脚がびろんと下に垂れた。スライムのようにびろんとしている。
なんか違う気がする……どうすれば良いのこれ。この体勢痛くないかな、大丈夫かな。でもこのまま手を離したら逃げられてしまう気がするしどうしよう。
「はぁ、はぁ……いた……捕まえてくれたんですね……」
あたふたしていると水野の声が聞こえた。
走って来たのか息を切らしている。
「……うん、なんとか」
水野はこちらにやってくるとプリンを抱えて腕の中に抱き込んだ。
私は一安心して一息ついた。
「……本当にありがとうございます」
「あ……」
水野は肩を上下に揺らしてゆっくり息を整えている。
いつも冷静沈着で真っ白い肌をしている水野が、息を切らして汗を滴らせて、魅惑的な色気を醸し出していた。同じ部活の時は何も感じなかったのに……。
大人になった水野のその姿は、私が今何を言おうとしたのかも忘れさせるほどに平常心を失わせるものだった。
落ち着け、私……。
「えっと……脱走しちゃったの?」
取り繕っていつものトーンで目を合わせずに尋ねる。
「はい、帰ってきて玄関のドアを開けた時に横からすり抜けて行ってしまって……。家の近くを探していたのですがはるちゃんとは反対の方を見ていました。こうなるなら最初から首輪にGPSを取り付けておけば良かったです……」
室内飼いの猫にGPSか……。
まぁ、これは飼い主が決めることだし良いようにやって欲しいと思う。
「買い物ついでだったけど、見つかって良かったよ。気をつけなね」
「はい」
水野は猫の頭を愛おしそうに撫でた。
会えれば良いなと思っていたし、猫を見つけることもできた。たまたま通りかかって良かったと思う。
「じゃあ私帰るわ、ばいばい」
地面に置いてあった買い物袋を手に取った。
会えたこと、嬉しかった。でもこれ以上一緒にいると……気持ちを悟られてしまいそうで怖い。私は先程水野を前にして自分のペースを保つことができなかった。
普段から私のことをよく見ていて、知っている水野は敏感だろうからきっと何かおかしいと思われる。
仕事をしている時と今は訳が違うんだ。目も合わせられないほどの恥ずかしさを感じてしまうなんて私らしくない。もう帰ろう。
「それ、夜ご飯ですか」
水野は半透明の買い物袋を見ながら言った。中身はバレバレである。
「うん」
「うち、寄って行きますか。何か作りますよ」
水野の部屋のキッチンには料理道具がたくさん並べられていた。きっと得意なんだろうと思う。食べてみたいと思う気持ちがないわけではない。でも「部屋」への誘いだ。ほいほいと着いていくわけにはいかないし、わざわざご飯を作ってもらうなんて申し訳ない。
「えと……いいよ。見ての通り、買ってあるし」
軽く持ち上げて笑顔を作る。
「そこに入っているものよりも栄養のあるものを作れる自信はあるんですけど」
体に悪いものほど美味しいというものだ。
会社にいる時はカップ麺を食らうことはないが、毎日が休日だったら毎日ジャンクフードを食べてコーラを飲みたいと私は思っているんだ。
頑張って断れ私。
「……いいじゃん、ラーメン美味しいんだしさ。大事なのは味だよ」
「何かこの後ご予定があるんですか?」
携帯を出してスケジュールを見る動作をしてみる。空だ。
そんなことスケジュールをわざわざ見なくたって分かっている。
「予定はないけど……」
「もしかして、また何かされると思って警戒してます?」
真顔で少し首を横に傾けながら聞いて来た。水野はもう汗も引いて涼しい顔に戻っていた。
反対に私の顔はじわじわと熱を帯びている感覚だ。
「違うって」
「心配しなくても、何もしませんよ。あなたが大事だから」
「だから違うって!」
「作ってもらうのが申し訳ないと考えているなら気にしないでください……私はお礼がしたいんです」
「……」
水野はプリンの頭をもう一撫でした後、こちらをまっすぐに見た。
なんか押し、強くない……?
「はるちゃんは見返りなんて求めないかもしれませんが、お礼を受け取ってもらえることで救われる人がいるということも忘れないでください」
「そのお礼が料理ってか……?」
「ミヤちゃんも、お礼として料理を作ってくれたんですよね? 私も同じことがしたいんですがダメでしょうか」
ここに来てミヤちゃんの話を持ってくるなんてずるい。
「しつこいなまじで……分かったよ」
「良かったです」
結局押しに負けてしまった。気持ちを自覚してからの水野の家……。
大丈夫、大丈夫だ……。落ち着き払った外見の内側には騒ぎ立てる心臓があった。
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