選択の解釈


「遅れました」



 セキュリティカードをかざして会議室に入ると、チームメンバーが私の方を一斉に見た。

 前の予定が長引くなどして会議に遅れる場合は、いつもグループチャットに一言その旨を記載するのだが今日は頭の中が他のことでいっぱいいっぱいだったためそれができなかった。

 25分ほどの遅刻。人によっては全然だと思うかもしれないが、面接でそれくらい遅刻してきた人はよっぽど理由、魅力がない限り私はその人を落とす。何故なら、時間にルーズな人は業務でもルーズだからだ。

 エレベーターに乗っている時に増田さんから着信が入っていたし、チームメンバーに多少心配をかけてしまった点は否めない。少し神妙な面持ちでノートパソコンを抱えてその場に立つ。



「何かありましたか?」



 プロジェクターの前に立つ水野は無表情でこちらに一言発した。

 転職が決まった大久保さんは有給の消化のためにちょこちょこ会社を休むようになった。そしてそれは今日も例外ではない。本来このような会議はマネージャーが取りまとめを行うことが普通だが、大久保さんは先週、俺は来週休むからと水野を指名してこの会議の進行を指示をした。そう、私ではなく水野を……。

 やっと同等のリーダー職になれたが、大久保さんの目には水野の方が優秀に映っているということだ。その日は悔しくて、無心でかわいい動物の画像を検索していたのだが、灰色の猫が出てきた時にはプリンの飼い主の顔が頭によぎり、余計に不愉快になった。最初は、こんな仕事ができる化け物なんていなければ良いなんて思っていたけれど、今は純粋に水野に勝ちたいという思いが強い。



「熱中症で倒れていた人がいて、救急車を呼んでいました。遅れてしまい申し訳ありません」



 会議室の若干空気がザワっと揺れ動いたのを感じた。

 ……大丈夫。連絡もなしに遅刻してしまったのは悪かったが、しっかりここで弁明して謝罪すればマイナスな印象にはならないだろう。時間や約束を守れないルーズな社員というレッテルを貼られるのだけはごめんだ。



「えぇっ、大丈夫でした?」



 増田さんは目を少し大きめに開いて問いかけてきた。

 この質問は、不運にも熱中症発症者に遭遇してしまった私の精神面や施した応急処置について案じているのか、あるいは倒れていたあの人自身のことを案じているのか……。私は優秀な社員。状況から判断するに、この場合は後者だろう。



「はい、意識はあるようでしたのでなんとか。その場で応急処置をして運ばれるまでを見届けました」



 私の発した言葉にチームメンバーの何人かが安心したように首を縦に小刻みに動かしている。



「良かったですね、大事に至らなくて」



 増田さんは背もたれに体重を預けた。

 私が会議室に入った直後のあの少し緊迫した空気はほどけ、なだらかに時間が過ぎていく感覚になった。



「……熱中症になったのが京本さんではなくて良かったです」



 水野はそう言うと、プロジェクターの操作をしてメンバー各自の進捗一覧のページを画面に映した。

 増田さんは倒れた人を心配してくれたが水野は私のことを心配してくれたようだ。



「私は大丈夫です、ありがとうございます」



 お礼を言って空いている席に腰かける。

 隣に座っている議事録担当の川添さんは小さな声で、お疲れ様でしたと言ってきた。首を横に振って、小さく笑う。遅刻をしてしまったが、人助けをしたことでむしろチームメンバーからの印象を上げることができたのかもしれない。良かった。



「京本さん、来たばかりのところだと思いますが、進捗状況の共有をお願いできますでしょうか」



 水野からの指示を受けて、私はノートパソコンをテーブルに置いて開いた。



「はい。まずは状況の共有からですが今月のKPIに対しては――」



 今日のミーティングで何を話すか、報告するかはあらかじめ頭の中でシミュレーションができている。場の空気が和らいだこともあり、私はいつもの仕事モードに即座に切り替えて発表をした。

 会議が終わった後、私がいない間に何を話したのかと、共有事項を簡潔に水野が話してくれたので、遅刻の分はしっかりとリカバリーすることができた。

 どっと精神的な疲れはまだ残っているが、業務に関しては順調である。



「水野さん、エージェント向け説明会の資料確認しました。問題ないかと思います」


「そうですか、ご確認ありがとうございます。後ほど先方に先立って展開します」



 水野は軽く微笑むとパソコンのタイピングを再開した。



 昼に確認を頼まれていた資料に目を通したが、化け物が作ったものだけあって非の打ちどころがなかった。誤字の1つも見当たらない。でも、確認を頼まれたからにはどうにかして粗を探して指摘してやりたいというものだ。「指摘ができる」ということは、水野が気が付かなかったことに私が気が付けたということだから。目を凝らして粗探しなんて嫌な奴でしかないが、負けたくないので仕方ない。

 少しでも……何か指摘できることは――……探してようやく見つけたもの。



「……提案なのですが説明する際に分かりやすいようにレイアウトの右下の部分にページ数を記載してはいかがでしょうか」


「確かにそうですね、ではそのように変更しておきます」


「結構です。もうやっておきましたので」


「…………」



 間髪入れて答えると水野はポカンとあっけに取られた表情になった。ふん、ザコが……。ニヤッとあえて腹の立つ笑顔を作って席を立ち上がった。手にはコーヒーの粉末の入ったマグカップ。向かう先は給湯室だ。



 向かう途中でさっきのやり取りを思い出す。改善を「提案」したくせにもう修正済だなんて我ながら私って嫌な奴だ。でも水野のポカンとしたあの顔を思い出すと横隔膜の内側から笑いがこみ上げてくる。楽しい。



 給湯室に入ってお湯を注ぐ。コーヒーの香りが静かに広がっていく。

 落ち着く香りだ。



「はぁ……神」



 誰一人いない空間に私はため息を漏らした。

 「同僚とのランチ」という残業に加えて、昼間から思いがけない事態――遅刻をかまして全力疾走するわで疲れた。

 人の話し声、視線、パソコンのタイピング音が全く聞こえないこの空間の居心地の良さといったらこの上ない。まさに神。給湯室は神だ。



「何が神なんですか」


「!?」



 ビクッとして振り返ると水野だった。



「うわっ……なんだよ、ビックリした……」



 水野とはたまに給湯室で鉢合わせることもあるが、さっきの私のウザい感じにキレてまさか追いかけてきたとかじゃないよな……?



「ストッキング、足首のところ伝線してますよ」



 水野はマグカップに熱湯を注ぎながらこちらを見ずに言った。



「えぇ! ……どこ?」



 慌てて足首のところを確認するがそれらしきものは見当たらない。



「くるぶしの内側です」



 見てみると確かに右足首の内側に僅かに斬り込みのような跡がついていた。

 本当良く見てるな……。目立つような場所ではないが知ったからにはこのままにはしておけない。こんなこともあろうかと鞄に予備のストッキングを常備しているのだ。すぐに取り替えなくては。



「……まじじゃん。最悪。きっとおじさん助けた時に派手に動いたからだ。履き替えなきゃ、戻る」


「寺内さんも一緒だったんですか?」



 片足の指先を出口の方に向けたところで尋ねられた。



「え? あぁ、うん」


「そうですか」



 水野はふぅっとマグカップに入ったコーヒーに息を吹きつけた。

 その動作はコーヒーを冷ますためのものに見えるが、ため息にも聞こえた。



「……何」


「はるちゃんは優しいですよね。誰に対しても」


「私が優しい?」



 両足のつま先を水野の方に向けて顔を覗き込む。



「はい。やらなくて良いことまで気にかけて誰かのために残業したり……。でもそれは業務外でも同じ。優しいのは変わらないんです。あんまり良い人でいて欲しくないなってたまに思いますよ」



 水野は淹れたてのコーヒーを一口飲んで私を見た。

 良い人でいて欲しくない……? どういうことなんだ。水野のカールのかかったまつ毛の先に目をやりながら私は何度か瞬きをした。



「なんでそんなこと思うの」


「他の人がはるちゃんを好きになっちゃうかもしれないからです」



 水野はマグカップを台に置いて先ほどと同じように息をふぅっと吐いた。

 やはりため息の意味合いだった。好きな人を誰かに取られてしまうというのは愉快なことではない。寺内さんへの嫉妬のため息だったということだろうか。



 水野のことが分からない。口先だけの好き、じゃ分からない。

 いつもどこか誤魔化されてきた。本当に私のことが好きなのであればちゃんと言って欲しい……。どんな関係を望んでいるのか教えて欲しい。



「私が恋人作ったら……嫌?」


「嫌です。想像しただけでも気が狂いそうになります。でも……」


「……」



 でも、何……。



「その時はその時ですね。私ははるちゃんの恋人にはなれないから」



 落ちそうになるマグカップをぎゅっと握りしめた。



 恋人になれない……?

 これは私はあなたの恋人にはならない、という意思の入ったものなのか、あるいは現実的に考えて不可能だと判断したということなのか。……何か他の要因があってできないのか……どっちなんだ。分からない、こればかりは判断ができない。



 聞かなきゃ。

 声がスムーズに出ない。

 答えを聞くのをどこか躊躇っている自分がいる。

 でも今しか……



「……あのさ、神田。もし私が――」


「あ、お疲れ様です」



 サッと私たちの間に入る男の影。



「お……疲れ様です」



 寺内さんが入ってきたことで私は戦力喪失した。



「使ってます?」


「いえ、今使い終わりましたので。どうぞ」


「ありがとうございます」



 水野は横に一歩ずらかり、チラっとこちらを見た。私はその場で立ち尽くしていた。



「京本さん、この前は枕ありがとうございました。それでは」



 そう言い残すと水野は給湯室を去っていった。



「枕……?」



 寺内さんは不思議そうな顔でこちらを見た。

 今の、絶対わざとだ。あえて寺内さんに聞かせるように言ったんだろう……。



「……誕生日プレゼントであげたんですよ」


「そうなんですか、水野さんの誕生日っていつでしたっけ」



 私たちが出張に行った日だと答えれば済む話が、とっくに誕生日は過ぎているのに何故今になって水野がプレゼントのお礼を言っているのだと変に思われてしまいそうだ。でも答えないとそれはそれで逆に怪しまれる……。

 くそ、爆弾置いていきやがったあの女……!

 大丈夫、平然としていれば大丈夫だ、私。



「関西に出張に行った日です。ずっと渡せてなくて、遅めのプレゼントとしてこの前にあげたんですよ」


「そうなんですね、プレゼントに枕かぁ。俺の母がもうすぐ誕生日なんですけど何あげようか迷ってて。プレゼントに枕も悪くないかもしれないっすね、うん」



 寺内さんはぼんやりと上の方を見ている。

 よし、なんとか乗り切れた。寺内さんがある意味バカで良かった。



「はは、喜ばれるんじゃないでしょうか。……では私もそろそろ失礼しますね」



 水野との枕の話をぶり返されたら嫌だし、ストッキングを早く履き替えなければ。

 居心地の悪い場所と化した給湯室には長くいたくはない。



「京本さん」


「はい」



 今日は呼び止められることが多い。

 脚を止めて首だけ横に向けた。



「今週末飲みに行きませんか?」



 聞こえているのは寺内さんの声なのに私の頭には水野の顔が浮かんだ。

 さっき水野は寺内さんに嫉妬した。ということは、私がまた寺内さんとデートをしていることを知ったら嫉妬してくれる……。



「……いいですよ」



 前までは好きになれるかもしれない、という期待もあったが今はその期待も風船がしぼんだようにかなり小さなものになってしまった。

 私は寺内さんの気持ちを利用している。最低だ。こんなのだめだって分かっているのに……。



「良かった。良い店あるんですよ」


「楽しみです。では……また」


「あのっ……」


「はい」



 今度は寺内さんに背を向けて返事をした。



「さっき聞こえたんですけど水野さんのこと神田って呼んでましたよね。この前も神田って……なんか意味あるのかなって……」



 その場で唾を飲み込む。まずい、さっきのを聞かれていたなんて……。私は以前、寺内さんとの食事の帰りにおっさんと歩いている水野に対して「神田」と発してしまっていた。聞くのが2回目となるとさすがに寺内さんも気になったようだ。

 背を向けていることもあって焦った顔を見られていないのが救いだ。

 絶対に本当のことは言えない。水野のプライバシーのためにも。



「……」


「すいません、余計なこと聞いちゃいましたね。気にしないでください。週末のこと、また連絡します」


「……はい」



 ほっと胸をなでおろしてそのまま脚を進めて前身する。

 もうあいつと一緒にいる時は神田呼び、やめよう。

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