普通のベクトル

 焦げ茶色の髪を揺らしながらいつもの道を歩く。通りゆく通行人、店の開店をまだかと待つ人、喫煙所でタバコをふかす人。電車の中でつり革につかまっている人。街中の風景に溶け込んでいるが確かに生きているこの人たちの中で、セクシャルマイノリティにあたる人はどれほどいるのだろうか。そんなことを最近考えるようになった。

 パンセクシュアル、ノンセクシュアル……。バー、「エレファント」でキヨさんに話を聞いて様々なセクシャリティの形があることを知った。そしてこの歳で初めて同性とキスをした。ミヤちゃんとのキスではっきり自分は同性愛者ではないと自覚した。その時私は安心した。世間からの偏見の目が私に向くことはないのだと悟ったから。でも水野とした時は……。私はあの時の唇の感覚をまだ忘れられずにいる。



 コトっと前方からマグカップがデスクに置かれる音がした。音につられて水野に目をやると、髪の毛を耳にさっとかけながら小さい口をむっと結び、タイピング音を滑らかに響かせていた。この女のセクシャリティは何だろう。

 私のことを恋愛的に好きなのであればレズビアン? でも学生時代にそんな噂は1度も聞いたことがなかったし、水野は実際過去に男と付き合っている。男と寝ている。だとしたらバイセクシュアルなのだろうか。

 性欲を満たすために、好きではない人と身体の関係を持つ人もいるけれど、水野はそれとはちょっと違うように思う。自己承認欲求の成れの果ての悲劇だ。「水野君」のことを好きではなかったような発言を過去にしていたし、男の人のことを本気で好きになったことはあるのだろうか。



 1つ引っかかるのは、水野は私が同性愛者であってもそうでなくても、別にそんなのどうでも良いと言ったことだ。私はその言葉を真に受けて、身体だけの関係を望んでいるんだと思った。お互いの恋愛感情なんてどうでも良いんだと思った。でも、最後のあの言葉とキスを信じるのであれば……仮に。仮にだ。私が好意を伝えた時、身体以上の関係になったりするのだろうか。

 「普通」なら、自分が好きな人に好きと言ってもらえることほど嬉しいことはないし、双方が好き同士で、それを阻む障害がなければ即座に付き合うものだと思う。

 でも水野は「普通」じゃない。私が同性愛者でもそうでなくても良いと言った発言もあり、どんな関係を望んでいるのかが分からない。



 私は自分の気持ちが良からぬ方向に向きつつあることに薄々気がついていた。でもまだ確信はしていない。街中の人に目を向けているのは、もしかしたら自分と同じ境遇の人を無意識に探しているからなのかもしれない。……コントロールできない気持ち。こうであるべきではないと分かっているのに。私を思ってくれる異性が近くにいるというのに。私は「普通」でありたい。

 パソコンの横に立てかけてあるハンドクリームをじっと見た。



「京本さん、エージェント向け説明会の資料をファイルサーバーにアップしたので確認お願いします。……これからお昼だと思うので今すぐでなくて結構です。指摘点などあればその時に教えてください」



 活舌の良い澄んだ少し高めの声と落ち着いた口調。

 それはいつもの水野であるが、あの夜の艶のある雰囲気とはあまりにも違いすぎて、同一人物なのか疑いたくなる。あれ以来、こいつは本当に何もなかったかのように振る舞ってくる。あの時の感覚が焼き付いているのは私だけ? 面白くない。



「……」



 少し身を乗り出して目元を覗き込んだ。

 揺れる瞳。水野の瞳孔は僅かばかりに開いたように見えた。



「京本さん?」


「水野さんはどんな食べ物が好きですか?」


「え?」



 ついに真顔を崩した水野は口を半開きにして、きょとんとした顔になった。その表情のかわいさと滑稽さがあいまって私は内心でクスっと笑った。



「水野さんはどんな食べ物がお好きなのかなってちょっと気になったので」



 これを聞いたのはランチついでにもし良いところがあればこの流れで誘っても良いかな、と思ったのもあるが、少しちょっかいを出してどんな反応をするのか楽しみたい気持ちが大きかった。

 私はニコっと笑ってブルーライトカットの眼鏡を外してケースにしまった。



「飛鳥さんは嫌いなものがない代わりに特別好きなものもないんじゃなかったでしたっけ」



 川添さんが会話に加わってきた。

 飛鳥……。いつの間にか名前呼びになっている……。



「うん……、そうだね」



 水野は柔らかく笑って、こくんと頷いた。

 


「そうなんですね」



 私は何食わぬ顔でコーヒーを飲みながら横眼で川添さんを見た。

 同じチームだし仲良いのは結構だけど、ついに名前呼びか……。正直快くは思わないな。



「京本さん、資料の確認の件は……」


「お疲れ様です!」



 水野がしゃべりかけたところで、今度は男の声が入ってきた。

 見ると寺内さんがノートPCを片手に立っていた。



「お疲れ様です、寺内さん」


「あの、よかったらこれから飯行きません?」



 寺内さんはニッと笑って執務室のドアの方を親指で指さした。

 ゲッ……。



「今から、ですか?」


「はい、スケジュール確認したんですけど今からお昼ですよね? 俺もミーティング終わったとこなんで」



 社内ツールにはカレンダー機能というものが搭載されていて、各自それを使って1日の予定を立てている。同じ社員同士であれば他の人の予定を見ることができ、会議などを入れる際に皆が空いている時間を把握するのにこの機能は大変便利なのだが……。

 寺内は……寺内は違うチームのくせに私のスケジュールを覗き見てランチタイムを狙って誘ってきやがった。使い方を悪用しないで欲しい。



「……」


「行けます?」



 気が乗らないし、断るか。

 業務を言い訳にしようと思ったが先ほど業務用に使っている眼鏡をケースにしまったばかりだし、それを既に周りにも見られている。まだやらなければならないことがあると言って再度眼鏡を取り出すのは少し不自然な気がする。

 水野の方をチラっと見た。一瞬目があったが、彼女はすぐにパソコンの方に目を向けてしまった。



 私が寺内さんと一緒にご飯に行くってなったらこいつは少しは嫉妬してくれるのだろうか。



「はい、行きましょうか」


「やった! ……水野さん、川添さんも行きます?」


「私はまだ仕事が残っているので、どうぞ」


「私はお弁当あるので……」



 寺内さんが気を利かせてくれたのか、2人に声をかけたが来る人はいないよう。水野はで来られないようだ。スケジュール通りだと、あいつも今が「ランチタイム」のはずなのにな。



「そっか、残念です。……じゃあ、行きますか」



 私は寺内さんと一緒に昼の街に繰り出した。

 高層ビルが立て並ぶ道を歩く。自然がないので太陽の光がもろに地面のコンクリートを暖めていて、すれ違う人々は蒸気で空気が揺れる中、手やハンカチを使って皮膚に風を送りこんでいた。

 何人かDAPの顔見知りともすれ違った。皆、物珍し気にこちらを見ていた。寺内さんと並んで歩く私はどう映っているのだろうか。少し気になるが少なくとも私は今、男性と一緒にご飯を食べる異性愛者の女性に見られているんだと思いこむことにした。

 そう、私だって男とデートくらいするんだ。



 中華屋さんに入ってチャーハンをお腹いっぱい食べた。塩味が利いていて美味しい。塩分のあるものを美味しく感じるのは汗で体内の塩分が不足しているというのもあるのかもしれない。

 寺内さんとした会話は内容があってないようなもの。寺内さんとは2人で話す機会は以前よりも増え、少し打ち解けたかのようにも思えるが、貴重なランチタイムが削られて業務時間が伸びたという感覚には変わりなかった。



「ふーあちー。京本さんはこの後定例ミーティングですよね?」



 オフィスを目指して歩みを進める中、寺内さんは着ているシャツを何度か引っ張りながら尋ねた。

 さすが私のスケジュールを盗み見ただけあって、この後の予定を把握しているようだ。



「そうです。寺内さんは何かありますか?」


「WBS引く作業が残ってます。進捗管理って面倒ですよね。その後は面接が――」



 その時だった。電柱の下で会社員と思われる男性がうずくまっているのが目に入り、寺内さんの声が脳内で途切れた。

 顔をしかめてうずくまっているので何かに苦しんでいるよう。本当なら見知らぬ人に話しかけるなんてことはしたくないが、見たからには放っておくわけにはいかない。



「ちょっとすいません」



 寺内さんを残して早足で男性の元に駆け寄った。



「大丈夫ですか!?」


「だい……じょうぶです」



 意識はあり、言葉を発することはできるものの中年の男性の目の焦点は定まっておらず、手足がけいれんしていた。そして男性は汗をかいていなかった。もしかしたら熱中症かもしれない。



「一旦涼しい場所に移動しましょう、立てますか?」


「う……」 



 男性の腕を取って首に回すが、ヒールがガクガクと揺れている。以前ミヤちゃんにも肩を貸したことがあったが、これは比じゃない。さすがに成人男性の体重を支えるには応えるものがある。



「京本さん、1人でやろうとしないでください!」



 寺内さんも駆け寄ってきて、私とは反対側に回って支えてくれた。

 中年の男性の脚はふらふらだったが、寺内さんの助けもあって、日陰まで移動させることができた。身体に力が入らず、座っていることもつらいようだったので男性を横に寝かせることにした。

 意識があるようならお水を飲ませると良いと聞いたことがある。だが今手元にはない。あたりを見回すと、幸いなことにすぐ近くに自販機を見つけることができた。



「私お水買ってきます。ここで見ていていただけますか?」


「はい。俺、その間救急車呼んでおきます!」



 寺内さんは携帯を出してすぐにコールボタンを押した。さすが優秀な人事というだけあって取り乱すことなく対応してくれている。

 対して私は自動販売機の前まで来たが、罠があった。

 その自動販売機は現金しか使えないという、文字通り「使えない」自販機だったのだ。

 


 なんで交通系ICカード使えないの??? 時代遅れなんだよ!



「(しね!!!)」



 できるビジネスマン京本は言葉にしない代わりに全力で顔の筋肉に力を入れて怒りを表現した。当然何も起こらない。コイの王様が「はねる」の技を使うかの如く何も起こらない。



 そうこうしている場合ではない。寺内さんの元に駆け寄った。



「寺内さん!! 100円持ってますか!!」


「も、持ってます!!! あ、すいません住所は――」



 寺内さんは電話対応しながらも、財布から100円を取り出して渡してくれた。

 私はUターンしてヒールのカツカツ音を盛大に響かせて自動販売機の前に再び立ち、100円をいれた。



「飲めますか?」



 戻ってペットボトルの蓋を開けて男性の口元まで持って行った。



「……すいま……せん」



 少量であるが飲んでくれた。



「胸元失礼しますね」



 男性のシャツのボタンを開ける。さっき検索をかけたら、熱中症の場合はそうすると良いと出てきたからだ。寺内さんは必死で手であおいで男性に風を送ってくれた。

 救急車が来たのはその数分後のことだった。



「あなたたち、お……名前は……」



 担架で救急車に乗せられる直前、男性はそんなことを聞いて来た。



「寺内です」



 真剣な顔で名乗る童顔の男。その姿はどこか滑稽に見えた。

 恩人に名前を聞くってことはよくあることかもしれないけれど、私は別に大したことをしたわけではないし、別に名乗らなくても良いでしょう。



「私は名乗るほどの者ではないので」



 男性は無反応のまま間もなく運ばれていった。



「大丈夫ですかね」



 寺内さんは救急車の背を目で追いながらつぶやいた。



「名前聞けるくらいの意識はあったので大丈夫じゃないですか」



 余裕ぶってそう言ってみたが心臓はバクついていた。大丈夫。私たちでやれることはやった。

 あとは専門家に任せれば良い。



「名乗るほどの者じゃないっていう言い方にちょっと笑っちゃいました。俺は名乗っちゃいましたけど、きっと明日には忘れてるんだろうなぁと思います」



 今回ので少し寺内さんの人間性が見えた気がする。

 悪い人じゃないんだ。それは分かっているけれど……。



「意外と覚えているかもしれませんよ」


「京本さん……すげぇカッコ良かったです」



 寺内さんは額に汗をかきながら満面の笑みで笑った。



「はは、普通です。これくらい」



 普通だ、と思う。

 道には何人もの通行人がいたのに、皆男性がうずくまっているのを無視していた。気候に反して都会の人間は冷たい。熱中症で死ぬ人だっている。今にも死ぬかもしれない人がいるのに、素通りが「普通」だなんて絶対におかしい。

 ……でもこれは私の価値観であって、他の人にとっては違うのかな。そうやって自分の普通と他人の普通を比較していくうちに、それは「普通」ではなくなっていく。私の普通、寺内さんの普通、水野の普通……。常に変化して変わりゆく、定義できない存在のように思える。普通って何なんだろう。



「なんか今回のでもっと京本さんを……」



 寺内さんの声で意識が引き戻される。



「……」



 顔の筋肉がこわばっている。構えて言葉を待った。



「何でもありません。我ながら連携プレー、良い感じでしたね」



 ポケットに手を突っ込んだ寺内さんは再び笑った。



「そうですね」


 

 言ってくれまいと思っていたことを言われなくて良かった。

 気が緩んだところで手元の時計に目をやった。やばい、15分近く時間過ぎている。今からオフィスに戻る時間も換算するとだいぶ遅れることになってしまう。



「……すいません。定例始まってるので急ぎますね」


「あぁ、そうでしたね。急ぎましょう!」



 寺内さんと共に早足でオフィスに戻り、エレベーターの中で乱れた息を整えるのであった。

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