齟齬の歯車


「っ……」



 触れるか触れないかの力加減で、何度もうなじを往復している水野の指先。反応を示してはならない。ぐっと瞼に力を入れてギリギリと歯を噛むが、目を瞑ることによって余計に触れられている場所に神経が集中してしまう。

 ゆっくりと目を開けると吐息がかかりそうなくらいの至近距離で水野と目が合った。



「力を抜いて楽にしていてください」



 手はうなじから鎖骨をつたい、胸元が緩む感覚になった。ブラウスのボタンが外されたのだ。この先に何をされるかは想像に容易い。守らないと、自分を。心は拒んでいる。しかし、僅かながらの期待の感情を消し去ることができず、身体は言うことを聞いてくれない。

 徐々に外されていくボタン。無抵抗な私。これじゃあまるで水野の思う壺だ。負けてたまるか。必死の思いでボタンにかけられている水野の手を握り込むようにして阻止した。


 

「ふふ」



 水野は小さく笑い声を漏らすと、耳の少し下の部分――首筋にキスをしてきた。



「うぐっ」



 新しい刺激に歯を食いしばりながら、息を殺す。



「私が怖いですか」



 首筋に唇を這わせながら発せられる言葉。直接肌にかかる声、じんわりと広がる熱。耳に届くよりも早く体が反応してビクッと震えた。

 誰が怖いものか……。

 


「怖くなんかない。でもこれ以上はもう……」



 これ以上になったら、私と水野はもうただの同僚ではいられなくなってしまうだろう。度を越している。欲求を満たすためだけの関係。こんなの私の望む形ではない。分かっているのに……。

 流されている。私はこのまま水野に抱かれてしまうのだろうか。女で、かつ年下の水野に。形だけのセックスで。……悔しい。悔しいのに、背徳感にも心の高まりが脳内を支配する。



「大丈夫です、私ははるちゃんを愛してるから……すぐ良くなります」



 艶美な微笑を浮かべた美女が少し潤んだ瞳でこちらを見ている。

 よくもまぁ愛してるだなんて言えたものだ……。表情、言葉の抑揚、女優ばりの演技。たいした役者である。



「んっ……」



 指先で顎をくっと持ち上げられ優しく口づけられた。

 「愛してる」という言葉通りの、心が満たされるようなキス。一瞬でもその言葉を鵜呑みにしそうになってしまう。心のつながりなんて求めてないくせに、その一瞬でも楽しもうとしているのだろうか。

 唇は離れないまま、何度かついばむようにして優しく挟まれ、自分の口もそれに合わせて自然と動いていた。上手い……。先ほどよりもどんどん息が荒くなっていくのが分かった。

 唇がようやく離れた頃、乱れた息の中、酒に酔ったよう私の焦点は定まっていなかった。



「かわいい」



 そのまま鎖骨の上のへこんだ部分にキスをされ、小刻みにリップ音を立てながらぬめっとした舌先が徐々に首の側面をつたって上に上がってきた。

 キスされる場所に連動して上がっていく水位。唇が首の上部まで来た時には私は完全に水の中にいた。無重力。身体が包まれるような心地良い感覚に理性が地の底に沈んでいく。



「少ししょっぱい……」



 耳元で囁かれた水野の声で私は意識を取り戻して水面から顔を出した。



「これ以上は、やめろ。汗かいてるしシャワーも浴びてないのにこんな!」



 夏の季節、太陽が容赦なく照り付ける中での通勤。駅に向かうまでの道で少し汗をかいたし、さっきも掃除をして動いて汗をかいた。今だってエアコンはついているが、身体は熱く心臓がドクドクと速いペースで脈打っている。

 至近距離で臭いを嗅がれて舐められた。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。

 


「少し香水の苦いのと混じって美味しいです……。もっと欲しい」



 いつもつけている上品に香るレディース香水。

 今日は1プッシュ多く手首につけてしまったので、首元に馴染ませていたが舐めとられてしまったようだ。



「だっめだ……って!」



 抵抗も虚しく、反対側の首の側面にも口づけられた。

 最悪だ、こんなの。

 する前は絶対にシャワーを浴びたい人間なのに。しかも部屋の電気も消さないで続けるなんて。

 肩の部分を押して水野を遠ざけた。



「だめ……? でもその割には本気で抵抗しないんですね」


「……本気で抵抗したらあんたを傷つけるだろ」



 自己承認欲求で動いている水野を本気で拒んだりしたらきっと傷つけてしまう。

 その心理を利用した私はずるい人間だ。水野の気持ちに漬け込んで本当の自分の気持ちを言葉にしなかったのだから。

 


「はるちゃんは優しいですね」



 私の手が水野の手から離れたことを良いことに、残っていたブラウスのボタンが外されていった。



「お構いなしかよ!? とにかく、こんなのは嫌だって。もうやめよう」


「じゃあ本気で抵抗してください」



 すべてのボタンが外され、ブラウスが両側に開かれて下着が露わになった。



「くそ、見るな……」



 自分は脱がないくせに私だけにこんな格好させるつもりだろうか。

 両手をクロスさせて胸の位置に持って行って覆うようにして隠した。



「どうして? こんなに綺麗なのに」


「っ……」



 横っ腹の部分を、人差し指で縦になぞられた。くすぐったさに身をよじらせて退避する。

 水野は面白そうに微笑んだ。



「くすぐったいですか? 感度が良いんですね」



 水井の手が腰に回ったかと思うと、手が腰から背中にかけてゆっくり上がっていった。



「やめっ」


「……もっと私の知らないあなたが知りたい」


「おい、何して」



 手は背中のある位置で止まり、プツっと音がしてまた胸元が緩む感覚。

 ブラのホックが外された。



「……」



 私は手をクロスさせたまま、これ以上何もさせまいとその場で身を固めた。



「はるちゃんはする時、どんな表情になるんですか。どんな声を出すんですか」


「なんであんたなんかにそんなこと……」


「少し怯えたような顔もかわいい。好き、好きです」



 縮こまった私を包み込むようにして水野は抱きしめてきた。



「誰にでも言ってんだろ、こんなこと」


「そんなことないです」


「嘘だ」



 嘘に決まってる。

 水野が求めているのはその場きりの快楽だ。こうして表面上の言葉でその場の一瞬を満たそうとしているだけ。水野の好意を真に受けたら、いけない。

 だって、自分は愛してる、好きだと言うくせに私からの好意を求めてないなんておかしい話だ。結局私はこの策士なモンスターの手のひらで転がされて……。そんな私をあざ笑っているだけだろう。情けなくて悲しくなる。



「はる……ちゃん……?」



 指で目の下を拭われた。

 口呼吸していたことに気がついて鼻をすする。鼻が少し詰まっている。



「もう……やめてくれよ……頼むから」



 声は震えていた。私は自分の身に何が起こったのか察した。

 涙を流したことなんてずっとなかったのに。どんなに感動する映画を観ても泣かなかった私が……人に泣き顔を晒してしまうなんて。

 プラス、されるがままに流されて下着姿になっている私。雨に打たれて尾を垂れた野良犬よりも哀れだ。



「……」



 水野は神妙な面持ちでこちらを見ていた。



「神田はこれで満足なの? 私は……自分が見窄らしくてたまらなくなる」



 脱がされて、弄ばれて。私の気持ちなんか無視。

 あのおっさんと同じ、結局私はこいつの欲求不満を解消するための道具でしかない。

 こんなの美しくない。違うって思っているのに――。



「……嫌でしたか」



 こいつから与えられる快楽に全力で抗うこともできずにどうしようもなくなる。

 


「私も自分が分からない。……ムカつくよあんたが」



 悲しさ、虚しさ、情けなさ……この行き場のない感情は苛立ちに形を変えて押し寄せてくる。

 全部こいつが悪い。こんなことをしてくるこいつが……。水野に怒りの矛先を向けることで私は少しでも楽になろうとした。



「ごめんなさい……」



 水野はその場でうなだれた。

 本気の抵抗ではなく、私の涙が水野の行動力を奪ったようだった。



「…………」



 呼吸が落ち着いた私は黙ってブラウスのボタンをとめた。

 立ち上がろうと足の裏を床につけたところで袖のあたりをぐっと掴まれた。



「離れていかないでください。お願いします」



 水野は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。



「……」



 どうしようもなく苛立っているが、こんな表情をされては振り払うこともできず、身体の動きを止めた。



「あなたを失ったら私は……もう生きていけません」



 生きていけないという言葉が妙にリアルに聞こえる。

 私は座り直して水野に向き合った。



「離れない。離れないから」



 むしろ、今回のことで離れていってしまうのは水野の方なんじゃないかと私は思った。だから水野の必死の懇願に、どこか私は安堵していた。



「はるちゃん……本当ですか」


「うん」


「私が下手だったからですよね……だから……」



 本気でそんなこと思ってるのかな。

 中毒なだけあって手慣れていたし、もうすぐであっちの世界に行ってしまうところだった。



「違う」



 だからって上手かったよ、なんて絶対言わない。



「……」


「……あんたは言ったよね、コトが終わればいつもものすごく後悔するって。それは身体だけ満足して心は満足してないからだよ」



 私だって水野の言うこと全てが理解できないわけじゃない。

 学生時代のほんの好奇心。好きじゃない人と夜を共にした翌日の「無」な感情は知っている。遊び人でなかった私は、たった1度でもそのことを後悔した。



「だから今回もまたきっと後悔する。私だって誰かの性のはけ口にはなりたくないし、やっぱりこういうのは好きな人同士でするものだと思う。だから神田も早く好きな人を――」



 レズビアンではない私。そして私の好意を必要としない水野。

 ぱっと見、それは合っているように見えるが、そこに「愛」は存在しない。行為だけを望むのであれば相手は私じゃなくたって良いはずだ。



「……私は好きじゃない人とはキス、しません」



 水野はぽつんとつぶやいた。



「神田……」


「唇にキスするのは、はるちゃんだけです」


「……」


「信じられないなら、あの人に直接聞いてみてください」



 あの人……水野と一緒にいたおっさんのことか。

 その口ぶり。恐らく嘘はついていない……。信じて良いのだろうか。



「聞けるかばか……」



 目線を下に落とした。



「はるちゃん。もうこれで最後にしますから。良いですか」



 両頬に手を添えられ、見つめられた。



「最後……?」


「キスだけ」



 顔が僅かに傾けられて、近づいて来る。

 抵抗はしなかった。



「っ……」



 閉じられた唇同士が触れる。

 シフォンケーキのような柔らかさの唇が押されて形を変え、ジグソーパズルのパーツのように隙間なく密着した。私にだけ許すキス。これが最後……か。噛み締めるようにしてゆっくりと鼻で呼吸を繰り返す。

 


「…………」



 唇が離れ、再びじっと顔を見られた。



「……なに」


「その表情、目に焼き付けておこうって思って」


「はぁ……ったく」



 こいつは反省してんのか?

 振り払うようにして今度こそ立ち上がった。



「忘れ物すんなよ」



 枕の入った紙袋を水野に渡した。



「はい」



 水野も立ち上がって襟元を軽く整えると、玄関の方に足を進めた。もうお帰りの時間だ。



「明日からは、また普通に接してくれますか」


「うん」



 今日のことは無かったことにして、またいつも通りの日常が始まっていくんだ。



「じゃあまた……」


「うん、また明日」



 玄関で水野を見届けた後、部屋に戻った私はベッドに仰向けになって倒れた。



 私を本気で好き、と言うくせに私からの好意を必要としないのはどうしてなのだろうか。恋人以上の関係を望まないのだろう。



「あんたが分からないよ、飛鳥……」



 水野が帰ってからも身体の疼きは収まらなかった。

 脳内で何度も反復する記憶。髪から香るシャンプーの匂い、息遣い、触れられた感触。

 もしあのまま続きが行われていたら……。きっと私は溺れていた。欲求に抗うことができなかっただろう。新しい扉を開いてしまうところだった。だからこれで良かったんだ。



 汗かいたしシャワーを浴びよう。でもその前に……。

 現実にならなくたって良い。せめて妄想の中だけであれば……今日はあなたの事を想わせて欲しい。

 胸元がスースーする。そっとブラウスのボタンに手をかけた。

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