業務終了後、家に直帰した私は来客に備えて軽く部屋の掃除を行った。

 一人暮らしにしては広いスペース。部屋の中を動き回ったのもあってじわりと汗が滲む。エアコンのスイッチを入れて、部屋着に手をかけたところでインターホンが鳴った。

 来たか。

 ベッドの横に置かれた紙袋を持って玄関に向かった。



「ん。今度は忘れんなよ」



 ドアを開けて、色白の華奢な女に紙袋を渡した。



「ありがとうございます。今日はよく眠れそうです」



 白い街灯に照らされた水野は、妙に艶のある雰囲気を醸し出していた。風がさらっと水野の髪を撫で、揺らめく毛先を目で追う。

 その場に沈黙が流れた。



「ったく……」



 言葉では表現しがたい気まずさを覚える雰囲気をぶち破るようにして、わざとらしく大きなため息をついてみせた。

 水野は柔和な笑みを浮かべると、横を向いてマンションから見える外の世界に目をやった。私もつられて外を見る。夜の街に無数の街頭の光が生々しく光っている。風の音がざざっと鼓膜を揺らす。お互いの息遣いが聞こえるような、静かな夏の夜だった。



「……あがってったら?」



 何を話すわけでもなく、その場で動こうとしない水野に声をかけた。

 小さな声で言ったが、彼女の耳に届くには十分すぎる声量だった。



「良いんですか」



 落ち着いた少し低いトーンの声。

 水野の顔がこちらに向いた。本当に良いのか真に問うているような表情だった。



「話の続き、してくれるんでしょ」



 定食屋の僅かな時間でした会話――肝心な部分を聞く前にお預けをくらい、業務中もずっとこのことを考えざるを得なかった。

 無論、あの話の続きはこんな玄関越しの外でするようなものではない。しかし、家の中に入るのをためらっているかのような水野。それは昼の会話の続きをしたくないのか、あるいは私を――。

 ……何のために部屋を片付けたと思ってるんだか。ここで帰したって私の気分は清々しない。扉を深く開けて水野を中へと通した。



「何が知りたいですか」



 水野はラグの上にちょんと腰掛けて、無表情でこちらを見上げた。私は同じ方向を向いて水野の隣に座った。

 家の中だ。ここでは言葉をオブラートに包む必要なんてない。何を聞かれるか本人もきっと分かってるだろうし、突っ込むか。



「じゃあ単刀直入に聞くけど……あんた、身体売ってる?」


「……はい」



 たった2文字のその返答の破壊力と来たら……。

 寺内さんも言っていた通り薄々そうかとは思っていたが、呼吸の途中、息をこれ以上吸うことができずにそのまま吐き出した。



「はぁ……そうなのかなって思ったけどさ。なんでだよ……お金が必要なの?」



 DAPでリーダー職に就いているんだ。確実に同年代とは差をつけた給料をもらっているはずだが、もしかして大きな借金があるとか――。



「いいえ。お金は割り切った関係を続けるためのものです」



 なんだそれ。不快感が湧き上がった。

 だったら借金があるという返答の方がずっとマシだった。



「あんなおっさんでも良いのかよ……」



 眉間の部分を指で押さえた。一体いつから……。私だったら絶対に無理だ。あんなのと交わるなんて考えたくもない。

 こんな綺麗で純粋そうに見える華奢な女性が、老いぼれたあのおっさんに身体を差し出しているという現実がただただ痛々しく心に突き刺さる。

 こういう世界を見たことがなかった。少なくとも私の周りではこういうことをしている人はいなかった。いや、いたのかもしれない。でも、知らないまま、触れることがないままここまで生きてきた。

 耐性がないだけかもしれないが、お金に困ってないのに売春なんて理解ができない感覚だ。これもセックス依存症という病気が招いた悲劇なのだろうか。



「誰かに求められたいと思うのは悪いことですか」



 水野は諦め切ったように、ため息混じりに言った。

 求められたいと思うこと――それ自体は悪いことではない。私だって、認められたいという一心で、それがモチベーションになってここまで来た。でも水野の求めているソレは種類がまるで違う。こんなことが公になれば、社会的な死を免れないだろう。



「そういうことに依存してるのはもうしょうがないとしてさ、もし会社の人に知られたらどうすんだよ。あの水野さんがってきっと皆驚いて……会社に居場所なくなっちゃうよ。寺内さんも不審がってたし……」



 少しでも今の自分を見直して欲しいというささやかな希望も含めて、私が感じている不快感を言葉に乗せてぶつけた。



「そうですね、会社の人にはネガティブな印象を持たれてしまうでしょう。注意不足でした。今度はちゃんと人目に気を付けます」



 返ってきた返答は私が期待しているものではなかった。

 人目に気を付ければ良いなんて問題ではない。まるでやめる気、ないじゃん。



「私はそういうこと言いたいんじゃなくてさ……」


「どうせ、私がこんなことをしてると知って悲しむ人はいません。誰に迷惑をかけてるわけでもありません」



 水野は顔をがくっと下に向けた。

 ぱらぱらっと耳にかかっていた髪の毛が崩れて下に垂れて、表情が隠れた。



「そんなこと……ない」



 低めの声で言う。

 だって私が今……感じているこの感情は何なのか。苛立ちにも似た不快感。水野がこんなことしてるなんてショックだし、悲しい。こんな気持ちにさせられてるんだ、私にとっては迷惑以外の何物でもない。

 自分はどうせ、と開き直られるくらいなら私はそれに反発したい。



「……そんなことない?」


「少なくとも私は悲しんでる。あんなおっさんと寝るくらいなら、ちゃんと彼氏作って欲しいと思う。私は」


「こんな私に彼氏ができると思いますか? このことを知られて失望されるか、逆に求めすぎて捨てられるかの2択が目に見えています」



 自分が彼氏だったら、彼女が不特定多数の人――あんなおっさんと関係を持っているなんて確かに受け入れられないかもしれない……。

 自己承認欲求という名の性欲の波の高さが作り出す鉄壁。自らの波に飲まれ、コントロールが効かない状況の中で、特定のパートナーを作るのは難しいということだ。



「……」



 返す言葉が見つからない。



「私だって本当はしたいわけじゃないです、こんなこと。吐き気がするくらい汚い光景なのに、その一瞬は虚無感から逃げられるんです。だから求めてしまう……嫌になりますよ」



 髪の毛で水野がどんな顔をしているのかは分からない。しかし声は僅かに震えているのは分かった。



「神田……」



 したくてこんなことをしてるんじゃなかったんだ……。もう開き直ってると思っていたがそんなことはなかった。水野自身、このことに苦しんでいる。

 私は水野との距離を縮めて座り直して、そっと背中に手を当てた。



「コトが終わればいつも、ものすごく後悔します……。いっそ、この世から消えてしまいたいと思うくらいに」


「もう病院行こう、それ」



 会社では鬱の症状は出ていないように見えたが、水野は思ったよりも、抱えているものが大きかった。

 これまで、病んで会社を辞めていく人を見てきたし、退職前にケアとして話もしてきたが私はそういう分野の専門家ではない。こうして水野が本音を吐き出してくれたことは嬉しいが、私にせめてできることとしては話を聞いてあげるくらいのことだ。

 本人がこのことをどうにかしたいと思っているなら今すぐにでも病院に行って診てもらうべきだろう。



「行きました。でも精神科で処方されたのは精神安定剤と睡眠薬だけ。それらを飲んでも意味なんてありませんでした」



 病院行ってもダメだったんだ……。



「どうすりゃ良いんだよ……」



 行き場のない苛立ち。

 病院行ってダメだったらもう無理じゃん。

 どうしたら良いの? どうしたらこいつを少しでも楽にしてあげられる?

 頭を抱えながらも、水野の背中に当てた手を上下に動かして摩った。



「心配なんてしないでください、惨めになりますなら」


 水野は右手で左の手首をきゅっと押さえた。

 時計のベルトの部分、肌に刻まれた僅かに細い線が見えた。



「ちょっと、腕見せて」


「嫌っ……」



 抵抗を押し切り水野の左手を掴み、時計の位置を掌の方にずらした。露わになった肌。数本の細い線がそこには刻まれていた。

 親指で摩る。なめらかな肌触りではなかった。



「これ……もしかしてリストカットした……?」



 リストカット――手首を切る自傷行為のことだ。

 浅い傷であればやがて消えるが、深くなると跡が残ると聞いた。水野の手首に刻まれているその跡には見覚えがあった。以前ネットで流れてきたリストカット跡の写真と酷似していたからだ。



「……」


「なんでこんなことすんだよ……」



 ネットで見たものと違って、時計のベルトで隠れるくらいには範囲が狭いのがせめてもの救いだ。

 水野の手首を優しく撫でる。細くて白い腕だ。これ以上自分を傷付けて欲しくないと切に思った。



「救ってくれる痛みもあるんです」



 私にはその心理がまるで分からない。痛いのなんて普通嫌だろ。病みすぎだ。

 ストレスが溜まったから耳にピアスを開けると言っていた人が以前いたが、それと似たようなものなのだろうか。いずれにしてもその感覚は理解ができない。



「最近いつしたの」


「猫を飼ってからはしてません」



 自傷行為は不安やストレスから起こるもの。

 であるとするならば、猫は水野のそれらを和らげることができたということだろうか。じゃあ私は――?



「……私は神田のために何ができる?」



 私は水野の心理状況が分からない。

 この答えを知っているのは水野自身。



「抱きしめて欲しいです」



 良かった。刺して欲しい、とか言われたらどうしようかと若干身構えたが、これくらいなら容易い。



「分かった」



 膝立ちになって包み込むように優しく抱きしめる。心臓の音に合わせて首の位置にある頭にポンポンと触れた。



「ずっとこうしていたいです……」



 もたれかかるように乗せられた体重を受け止めた。

 こうしてると、かわいいかも。



「うん。こんなんで良いの?」


「……もっと慰めてくれるんですか」


「ん」



 身体が離れたかと思うと、頬を両手で挟まれて半開きの私の唇はあっという間に塞がった。

 衝撃で体勢が崩れ、お尻が床についてしまった。勢いで身体が後ろの方に倒れそうになったので手を床についてなんとか支えた。



「え、おい。何して……!」



 お構いなしに水野は私の膝に跨り、再び頬を両手で挟んで顔の位置を固定すると唇を押し付けてきた。

 この前よりも深くて熱い。呼吸もままならないまま脳内が熱に支配されていきそうになる――。だめだ、だめだ。

 抗うように私は咄嗟に身体を起こして、水野の鎖骨の部分を押して遠ざけた。

 


 心臓が速く脈打っている。息を止めていたせいか、その場で呼吸を落ち着けることで精一杯だった。

 そんな私を水野は面白そうに覗きこんでいた。



「この前、私に何をされたか覚えてますよね? 本当はこうなるって分かってたんじゃないんですか」



 水野は人差し指で私の唇に触れた後、そのままぺろっと指先を舐めた。会社では見せない色っぽさに思わず唾を飲み込む。



「私を慰めたいと思うなら、熱をください」



 再び近づけられる唇。



「待っ、待って!」



 手に力を込めて距離を取った。



「……」



 このままじゃやばい。こんなことは許されない。

 言おう。ちゃんと言わなきゃ。



「私はレズビアンじゃない。だからこういうことは……」


「だから何ですか」



 水野は声のトーンを変えずに薄笑いを浮かべた。



「はい? だから何って……」



 なんでこいつは笑ってるんだ……。開いた口が開かない。



「いつ私のことを愛してくれなんて言いましたか?」


「え……」


「はるちゃんが同性愛者であってもそうでなくても、別にそんなのどうでも良いです。私を部屋に入れた。それが全てじゃないですか」



 ……確かにあんなことがあったのに、私は水野を家に入れた。こんなことになるのを予想していないわけではなかった。期待していたのか……それは分からない。

 でも水野は、私からの愛は欲していない。私と恋愛関係になることは望んでいないということが判明した。つまりは……



「ヤれれば何でも良いわけ? こんなの私は嫌だ」



 所詮あのおっさんと私は同じポジションってことだ。軽く見られている。性の捌け口になんてなりたくない。



「ふふ、そんなこと言ってますけど……私と何が違うんでしょうか」


「どういうこと……?」


「自分はレズビアンではないと言うくせに、私を受け入れようとしたじゃないですか。行為だけなら良いってことですよね」


「それは……」



 頭は冴え渡っているが何も言い返せない。



「利用、して良いって言いましたよね。はるちゃんも寂しいのでしょう……? 今夜は私が愛して、癒してあげます」



 うなじを指先でゆっくりと撫でられる。ゾクゾクとした感覚にぎゅっと目を瞑って耐えた。

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