自己欺瞞


「待って、酔ってる?」



 すぐさま手をハンカチで拭き、ミヤちゃんの両肩を掴んで咄嗟に自分から引き離した。

 トイレの個室から出て姿を見かけた時に背筋に悪寒が走ったような嫌な感覚になったが、まさかこのタイミングで仕掛けてくるなんて。



「ちょっとだけ。でも真剣ですよ。言ったじゃないですか、本気の人じゃないとしないって」


「ここで? いやいや、落ち着こう?」


 

 本当に落ち着かないといけないのは自分の方かもしれないが、年下相手に取り乱すこともできずに、心の騒めきとは反対に表面ではあくまで冷静を装う。

 ミヤちゃんはほんのりと頬を上気させている。この前部屋で飲んだ時と同じ。少し酔っているのだと思う。私も酔いが回っていないわけではなかったが、こんな状況なこともあって一瞬にして酔いはほとんどめ、視界はクリアな状態になっていた。

 遠ざけたのに反発するように乗せられる体重。私は腕に更に力を込めた。これ以上踏み込ませちゃだめだ。なんとかして回避しなければならないと本能的に思った。



「誰も見てないですよ」


「そういう問題じゃないよ」



 これは人に見られるとかそれ以前の問題。

 手を繋ぐなどの軽いスキンシップならまだしも、キスとなると話は別になってくる。私の意志とは関係なしにこうして行為を求めてくることは不愉快だ。

 ミヤちゃんが言ったように「本気の人と」じゃないと嫌なのは私だって同じ――。



「……水野さんにはできて、うちにはできませんか?」


「……」



 奥歯に力が入る。ここであいつの名前を出すなんて卑怯だ。

 立っているミヤちゃんの隣に水野の残像が映った。私の前に立つ2人。どちらかを選べと言われた時、以前の私だったら確実にミヤちゃんを選んでいたはずだ。それは今だってきっと……。でもどうしてだろう、いるはずのない水野の残像の方に意識が傾いてしまうのは。視界がクリアな今の状況で、水野に同じ様に迫られたら……。

 嫌だ、違う。私は違う。どちらも選ぶべきではないんだ。



 水野の残像が消える。ミヤちゃんに向き合う。



 受け入れたくない。そう思うが水野を引き合いに出されてしまった以上、ミヤちゃんを拒否をすることは水野以下だと言ってることと同じ――つまりはどちらか選べと言われた時に私が水野を「選んだ」ということと同じ解釈になる。



「春輝さん……」



 湿った声、近づいてくる唇。

 思考が右往左往しているのに対して私の身体は動かない。拳を固く握りしめる。ぐっと口に力を入れて唇を閉ざした。これが私にできる目いっぱいの抵抗だった。



「っ……」



 触れた。

 人間の唇の感覚が神経越しに伝わってくるが、心は何も感じない。無だった。



 瞑った目を開ける。相手の閉じられた目から生える睫毛がぼやけて見える。そのまま時が流れてくれるのを無心で待ったが、なかなか唇は離れてくれない。

 無の心のまま、私は自分の身体から幽体離脱のように抜け出して客観的に2人の女性のキスシーンを眺めた。どうしてこのような状況になってしまったのか、どうして自分はミヤちゃんとこんなことをしているのか、改めて考えた時に浮かんでくる疑問。それらは不快感に変わってじわじわと降りかかった。



「待って。これ以上はだめ」



 降りつける不快感に我慢できなり、ミヤちゃんの肩を押して距離を取った。



「はぁ……」



 息を止めていたからか、ミヤちゃんは呼吸を乱しながら片腕を押さえ、申し訳なさそうな表情を浮かべて斜め下の方を見た。私からの言葉を待っている。そんな空気だ。

 本当は今日言う予定じゃなかった。もっとじっくり考えて言葉を選ばなければと思っていた。でも、今のキスでハッキリとミヤちゃんに対する自分の気持ちが分かった。もう結論は出たんだ。だから私も覚悟を決めて言わなければならない。



「さっき知って欲しいって言ってくれたよね、自分のことを」


「はい」


「話してくれて、打ち明けてくれてありがとう。ミヤちゃんの話を聞いて、一社会人として偏見のない社会を作っていきたいと思う気持ちは強まったし、より理解したいと思った。でも思いに応えるかどうかは別の話で……。だって私は……どうせ……」



 同性、と言いかけて言葉をつぐんだ。



『自分がどうだとか別に白黒つける必要なんてないわ。大事なのはあなたがミヤを好きなのかそうじゃないかだけでしょ』



 先ほどのキヨさんの言葉を思い出した。

 この言葉を鵜呑みにするというのであれば、自分は同性愛者ではないから付き合えない、ではなくてミヤちゃんのことは恋愛対象として見られないと固有名詞で言うのが正解だろう。

 しかし、「自分は同性愛者ではない」と言葉にしてきっぱりと言い切りたい気持ちの方が勝った。



 少しでも平等な社会を実現するために同性愛者に対する偏見をなくしていきたいという思いに嘘はない。でも、自分が当事者だったら? もしここで仮にミヤちゃんと付き合ってそれが会社の人にバレたら?



 怖い。



 皆大人だから表には出さないだろうが、あの人は女性と付き合っているとどこからか後ろ指を指されている未来が見える。どんなに会社で結果を残しても、「でもこの人は女の人と付き合っているから」とあざ笑うかのように心のどこかできっと思われる。

 自意識が過剰かもしれないが、ミヤちゃんも言っていたように女同士じゃ結婚できない世の中だ。結婚できないのは、「同性愛者」が日本で認められていないから。国さえも認めない中で、個々人が認めてくれるなんて考えは持たない方が良いだろう。

 バカにされたくない、見下されたくない。人に認められたい、その一心で今まで努力してきた。上に登り詰めてきたんだ。



 自分は違う。違うんだ。

 言い聞かせるように心の中で言葉を繰り返しているとふと、水野の唇の感覚が脳内にぽつんと浮かんだ。

 あの時は先程のような不快な感覚ではなかった。でもそれは私がただ酔っていたから。お酒のせいに違いない。

 だって私は――!



「同性愛者じゃないから、付き合えないよ」



 候補者に不採用を通知する時のように、静かに、そしてはっきりと口にした。

 こうして「同性愛者」とミヤちゃんを一括りにして振るのは、ずるい言い方だったかもしれない。でもきっとこれで諦めがつくだろう。私だって付き合いたい人に告白して「俺はゲイだから」と言われて振られた方が諦めがつく気がするし。



 その場に沈黙が流れた。ミヤちゃんは下の方を見ている。

 ハッキリと言った。自分は違うのだと口に出した。言いたかったことを言えて少しは清々した気分になるかと思いきや、私の中には罪悪感に似た感情だけがゴロゴロと残っていた。



「そっか」



 ミヤちゃんは私と目を合わせないまま小さく呟いた。



「ごめんね」



 このまま友達でいよう、なんて都合の良いことは言わない。もう元には戻れないことを覚悟してこうして言ったんだ。

 私の持っている一輪の花。数少ない花びらの1枚が地べたにひらひらと落ちていく様子が脳裏に見えた。



「あーあ、振られちゃった……。先に席戻っててください、涙拭いてから行くんで」



 ミヤちゃんは洗面台に両手をついて俯いた。

 ハンカチを差し出そうか一瞬迷ったが辞めた。ジャケットのポケットにしまう。振られた相手にハンカチを差し出されるなんて嫌だろうし、私の手に握られているハンカチは水野がくれたものだったから。こんな皮肉なことはあってはならない。

 かける言葉が見つからないまま私は後ろ髪引かれる思いでトイレを後にした。重い足取り。ひとまず腰掛けて、ミヤちゃんが座っていた席に目をやった。これからどうしようか。

 あんなことがあったんだ、ミヤちゃんが戻って来たとしてこの後、普通に飲めるわけがない。「先に席に戻っててください」は、帰ってくれの意とも受け取れる。絶対に私がいない方が良いに決まってる。ここを出よう。



「何かあったの?」



 キヨさんの高いのか低いのかよく分からない色っぽい声が聞こえてきた。

 ゲ……。



「え、何がですか?」



 表情をビジネスモードに切り替える。



「後からお手洗いに行ったあなたが先に戻って来たから」


「あぁ……潰れちゃってるのかもしれないですね、心配です」


「ミヤはあれくらいじゃ潰れないわよ」


「女の子には色々ありますからねぇ」


「ふーん」



 キヨさんは面白くなさそうな顔をしてグラスワインを一口飲んだ。キラキラと目元のアイシャドーが光っている。

 美貌に見惚れそうになりながらも我に返った。



「……すいません、私そろそろ帰りますね」



 鞄を肩にかけた。



「あの子を置いて行くのね」


「……はい。ミヤちゃんが帰ってきたら急用が出来たとお伝えください。これでお会計お願いします。あ、ミヤちゃんの分も」



 パスケースからゴールドカードを取り出してキヨさんに渡した。



「分かったわ」



 どちらの味方でもないと言ったのは本当のようで、キヨさんは落ち着き払っていて特にこちらに何かを咎めてくるような様子はなかった。



「……あの、ミヤちゃんをよろしくお願いします」



 レシートを受け取り、小さく口にする。



「はいはい。客のグチを聞くことも仕事だからね」



 なんとなく私とミヤちゃんとの間に何があったのか察したような口っぷりだ。私はその言葉に少し安堵した。



「じゃあ失礼します」


「待って」



 キヨさんに背を向け、店を出ようとすると呼び止められた。



「はい?」


「これ、お店のカード。ポイント溜まったら割引できるやつ」



 赤いネイルが光る手に握られた1枚のカード。

 上の方には「会員証」と書かれている。



「お気持ちはありがたいんですが……」



 もうきっと私はこのお店に来ることはないだろうと思う。何故なら私はここにいるべき人間ではないから。先程そう宣言したから。

 また明日から今まで通りの日常が過ぎていく。変わったのは、もう週末にシャドーに行けなくなってしまったことくらいだろう。



「いいから、もらうだけタダでしょ」


「はい」



 ぐっと差し出されたので、仕方なく受け取ってパスケースに会員証を入れた。

 ずっとタメ口だったけど、キヨさんって何歳なんだろう。これでまさかの年下とかだったら笑える。ま、いっか。



「あと……、鏡見た方がいいわよ。口紅が剥げてるから」


「……ホントですか。分かりました、ありがとうございます」



 口紅を剥がさせてトイレから戻った私はキヨさんからどう映っていたのだろうか。

 私は足早に店の外に出て、駅のトイレで口紅を塗り直した。もう後何駅かで家なんだし、あとは帰って寝るだけなのにそこまでする必要なんてないのになと思いながら。



 鏡の前のキャリアウーマンの姿はなんとなく寂しく見えた。

 バッグから携帯を出してチャットアプリを開く。友達一覧には表示されているが、私は今日、一人、大事な友達を失った。

 そしてもう当分、週末の楽しみは消えた。



 誰かを振るというのがこれほど体力を使うことだなんて……改めて実感する。



 どっと押し寄せる疲れと、寂しさ。

 心の中に穴が開いたような気分になる。

 指で画面をスクロールする。



 私が向き合うべき相手。



『来週の週末なら時間を作れそうですがいかがですか?』



 私は粛然と送信ボタンを押した。


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