エレファント

 間が空いて週末の金曜日。今日はなんとか定時で仕事を終わらせることができた。

 会社と駒米の中間地点にある駅を降りると、改札口でミヤちゃんは私を見るなり手をひらひらを振っていた。合流して、案内されるまま細い道を進んだ。

 あれからミヤちゃんには返事をできていない。仕事が忙しいせいにして考えるのを先延ばしにしていた。いや、本当は私の中ではもう答えは出ているのかもしれない。でもこれを言うことで関係を崩したくなかった。ミヤちゃんは私の唯一の「友達」だから。

 結局そのままずるずると時間だけが過ぎて今日という日を迎えてしまったのだ。



 ミヤちゃんは「Elephantエレファント」と書かれた看板の前で立ち止まった。店の外から店内の様子は伺えなかったが、看板を見た感じショットバーのようだ。



「あら、いらっしゃい」



 店内に入ると、艶やかな雰囲気を醸し出した美女に出迎えられた。背が高く、長い黒の巻き髪が片目にかかっていてなんだかセクシーだ。真っ赤な口紅が少々明るい照明に照らされて光っている。シャドー以外のバーに入るのは久しぶりだが、ここはシャドーよりも照明がやや明るい感じだ。

 店員の女性とミヤちゃんは見たところ知り合いのようだった。



「こちらバイト先の常連の春輝さんです」


「オーナーのキヨよ、よろしく」



 美人な女性はこちらを見るなり、キヨと名乗った。



「京本春輝です、よろしくお願いします」



 自己紹介には慣れている。私は笑顔でキヨさんに挨拶をした。



「彼女さん?」



 キヨさんは普通にミヤちゃんに尋ねた。

 心が動揺する。女性の連れに彼女さんかと聞く光景に慣れない。

 この人ミヤちゃんのこと知ってる人……?



「いいえ。彼女になってくれたら嬉しいんですけどね」



 ミヤちゃんは呑気にそう言うと、カウンター席に腰掛けたので、私も隣に腰を下した。

 なんだか居づらいなこの空気……。



「あなた、セクは?」



 キヨさんの視線はこちらに向いている。



「セク……?」


「セクシャリティのことですよ」



 初対面の人にセクシャリティ聞く?

 この時点でここがただのバーではないことを私は察した。

 待てよ……。こういうところって同性愛者ではない私みたいなのが来ちゃいけないところなんじゃ……。場違いな発言は白けるだけだ。



「えっと……」



 なんて言えば良いんだろう、嘘でもレズビアンだと言っておくべきなのだろうか。どうせこの人とはもう会うことはないんだろうし。



「ま、別に何でも良いけどさ。何飲む?」



 キヨさんはハンディを手に取った。

 なんとか答えずに済んだが、なかなかサバサバした感じだな……。



「春輝さん何飲みます?」



 ミヤちゃんはメニューをこちらに見せてきた。



「どうしよー」



 羅列されているカタカナを追いかけるが全く頭に入って来ない。



「うちは生にします」


「じゃあ私もそうする」


「生2つね」



 ここはそういうバーみたいだし、告白の返事待ちのミヤちゃんと来ているわけで楽しく飲むという感じにはどうしてもならないと思う。なんだかな……。

 キヨさんは冷蔵庫からキンキンに冷えたビールジョッキを取り出して、私たちから少し離れたところにあるビールサーバーの前に立ってビールを注ぎ始めた。



「あの人すごい美人さんだね…背も高いし」



 若干態度が失礼な気がするが、こういう系のバーはそういうものだと割り切ってしまえば良い話だ。



「キヨさんは男性ですよ」



 ミヤちゃんはクスクスと笑いながら言った。



「えっ嘘!」



 息を呑んでキヨさんを二度見する。

 細い腕に少し出た胸にくびれ、完璧なスタイル。どこからどう見たって女性にしか見えない。



「めっちゃ綺麗ですよね」


「……もしかしてあそこの店員さんも実は女性だったりする? ぱっと見男性のように見えるけど」



 キヨさんの隣に並んでいるベストを着た男性店員に目が行った。

 恐らくバイトさんで見た目は若い。少しパーマのかかった髪に伸びた鼻筋とシュッとした輪郭。美男子という言葉以外見つからないが、キヨさんが男性だというからこの人の性別も分からない。



「あはは、カエデさんは元から男ですよ」


「あぁ、そこはそうなのね。そっか、なんか不思議。ここだと何でもありって思えてくる」



 ここに足を踏み入れた時から、現実とは別世界に来たような、そんな錯覚を覚えるくらい私にとってはキヨさんが男性だったということが衝撃だった。



「はい、分かります。だからうちはここが好きなんです、自然でいられるから」



 ミヤちゃんが屈託のない笑顔を浮かべたところで、キヨさんが2人分のビールを持ってきた。

 できる話の内容としては、確信には触れない他愛もない話。ミヤちゃんがここで私と飲みたいと思った理由は不明だが、私にできることはこうして飲みながらただ話すことくらいだ。



 何杯目かのビールをお代わりする頃、店内は少しずつ賑わってきているようだった。先ほどまでは私たち2人だったけれど。時計を見ると1時間は疾うに過ぎていた。本当、お酒を飲むと時間ってあっという間だ。

 店内をぼうっと見渡す。明らかに男装している客と目が合って、私はすぐに逸らした。



「ミヤちゃん、ここってさ、そういう……バーなんだよね」


「はい。ミックスバーって言ってどんなセクシャリティもウェルカムなバーですね」



 ゲイバーは知ってるけど、ミックスバーなんてところもあるのは知らなかった。

 先ほど店内を見渡したが確かに客層は様々だった。向かいに座ってる女の人たちも、横でしっぽり飲んでいる男の人たちも色んな性別やセクシャリティを持ってるってことか。

 ここに私がいて良いのだろうかという気持ちが沸き上がってくる……。



「あのさ、どうして私をここに?」



 ミヤちゃんは春輝さんと行きたい場所があると言った。

 蓋を開けるとそれがここだった。一人ではなく、私と。

 一体それは何のために? という疑問が拭えない。



「うーん、知って欲しかったからです。うちのこと」


「ミヤちゃんのことは知ってるつもりだったけど……」



 バーでは結構会ってるし、家でも何度か遊んだ。カミングアウトも受けた。

 これ以上何を知れというのだろうか。



「うちがカミングアウトした時、どう思いました?」



 結構驚いたし動揺したのが本音だけど、そういう回答をしたところでミヤちゃんは喜ばないだろう。



「どうって別に……そうなんだって感じ」



 なんて言うのが正解かは分からないけれど、多分これが無難。

 手元の飲み物を一口飲んだ。



「そうですか……。誰かに言うのは今でも躊躇します、気持ち悪いって思われたり軽蔑されるのが怖くて。だからまだ親にも言えてないですし。でもここだとうちがカミングアウトしたところで誰も驚きません。それがだから。自分が自分らしくいられる場所なんです」



 店内のどこからともなく、ははっと笑い声が聞こえた。

 今回は招き入れてもらった立場ではあるけれど少なくとも私は今、この空間で、同じ空間で様々なセクシャリティの持ち主と共存している。時を刻んでいるということを脳で感じた。



「うん……フォローになってるか分からないけど、私はみんな個性はあっても同じ人間だと思ってる。性的な指向が違うだけで、それは差別する理由にはならないよ。こういう考えが当たり前になったら良いなって、そう思ってる」



 最初は驚いたし、LGBTの人を目の当たりにしたことがなかったから戸惑ったのは事実。でもミヤちゃんのカミングアウトを受けて、身近にそういう人がいるんだということを知って、ミヤちゃんの気持ちに応えるかは別として、考えることがなかったわけではない。よりそういう人達を受け入れていかなければいけないと思った。人間的にも、人事的な立場としてもだ。




「春輝さんは優しいですね。……うち、夢はベタですけどお嫁さんでした。家庭を持つことに憧れがあったんです」


「そうだったんだ」



 専業主婦になりたいって言ってたけど、本当の夢はお嫁さん……。

 ミヤちゃんのセクシャリティを知ってるからか、私は明るい気分でこの話を聞くことができなかった。



「はい、でも目が行くのはいつも女の人だった……。初めて中学生になって男と付き合いました。自分は男とも恋愛できるって信じたかったんです。でも初めてキスした時、どうしても嫌悪感を拭いきることができなかった。結局好きになれなかった。この意味が分かりますか? うちの夢は叶わないってことです」



 ミヤちゃんは曇った瞳で宙を見つめている。



「同性と結婚は法律的に難しいかもしれないけど、パートナーシップとかあるし家庭を持つことなら……」


「結婚はできないってことは、法律的に同性愛者は守られないことと同じです。平等は存在しません、生きづらい世の中ですよ」


「ごめん……」



 こうした発言が人を傷つけることだってあるんだ。ミヤちゃんはきっと自分のセクシャリティとの葛藤があった。でもその気持ちは私には分からない。

 だから今の私にできることは、こうして話してくれていることに耳を傾けることだけだろう。



「謝らないでください。こんな世の中だから、稼がなきゃって思いました。男の人とは結婚できないから。1人でも生きていかなきゃって……。看護師になりたいのもお金のためだったりします」


「そうだったんだね……」



 水野も言ってた。業界に身を置く背景には、金銭的なものが絡んでいることが多いと。どうせ働くなら人助けに精を出したいと言っていたが、どうやらミヤちゃんの背景にも金銭的なものがあったようだ。

 重い何かが肺にのしかかった。



「だから、社会に出てバリバリ稼いでる春輝さんが憧れでした。うちは高卒だし絶対にDAPには入れないし」


「大卒以上しか採用しないのはどうなんだろうって正直私も思ってるよ」



 DAPの採用条件は「大学卒以上」となっている。

 これは昔、買い手市場で就職難の時代の話。市場に人が溢れている時に企業が足切りラインとして設けたもので、どこの大手企業もこぞって採用条件を大卒以上と定めた。

 しかし最近は少子化に伴い、市場に出る若者の数は明らかに減ってきている。今や売り手市場。人がなかなか採用できない中で、どこの企業の人事も人を欲している。大卒以上という基準を落とさなければ人が採用できない時代に来ている。実際、高卒でも高い能力がある人は五万といるわけで見直しが必要だとは私も思っていたところだった。

 自分のセクシャリティと生まれた環境で悩んでいるミヤちゃんを前にして、大卒以上という基準を設けている企業の人事である私……。胸が苦しくなった。当事者の気持ちになって見えてくるものがある。

 何が多様性だ。この社会はまだ、クソだ。



「もし大丈夫だったら捨て身で受けてみたいな、なんて。ちょっとトイレ行ってきますね」


「あ、うん。行ってらっしゃい」



 ……私もトイレ行きたかったんだけどな。

 重苦しい空気の中で唇を噛む。



「ミヤに狙われてるの?」



 ふつふつと浮かぶビールの泡とにらめっこしているとキヨさんが話しかけてきた。



「あぁ……あはは」



 この人、結構踏み込んでくるなぁ……。



「別にあたしは誰の味方でもないから、各々頑張ってくださいとしか言えないけど」



 誰の味方でもない、という言葉は何故か私を楽にさせた。



「私実は異性としか付き合ったことなくて、女性はいまいちピンとこないというか……LGBTには自分は当てはまらないと思うんです。それなのになんでここに来てるんだって感じかもしれませんけど……」



 あぁ、言ってしまった。

 きっと白ける……。



「自分がどうだとか別に白黒つける必要なんてないわ。大事なのはあなたがミヤを好きなのかそうじゃないかだけでしょ」


「そうですね……」



 意外にもキヨさんは寛容な感じだった。



「それ言ったらあたしだってLGBTQには当てはまらないし」


「そうなんですか? えっとキヨさんは……」


「パンセクシュアル。レズビアンでもゲイでもバイセクシュアルでもない」



 パンセクシュアル――LGBT研修では習わなかった言葉だ。



「知識不足で申し訳ないんですけどパンセクシュアルって……?」


「人間であれば好きってやつ。男も女もFtMもMtFも関係なく」


「なるほど……」


「あの子もLGBTQじゃないわ。性的感情は持たないけど、恋愛感情は持ってる、いわゆるノンセクシュアルってやつ」



 キヨさんは美男子店員――カエデさんを顎で指さしながら言った。



「カエデさんが?」


「そう。あなたは初心者みたいだから教えてあげるけど、LGBTQだけでセクシャリティは分けられるわけじゃないし、流動的な人もいる。自分はこうだとか言葉の概念に捕らわれる必要なんてないの。あるのは誰かを好きになったって事実、事象だけよ」



 キヨさんは言い切った。

 その瞳からはたくさんの経験がにじみ出ていた。私にはそんなキヨさんがすごくかっこ良く見えた。それと同時に、私が感じていた居づらさのようなものがすっと消えていったのが分かった。



「ミヤちゃんがここに来たくなる理由、分かった気がします……私もお手洗いに行ってきますね」



 本当はミヤちゃん戻ってくるまで待とうと思ったけど、膀胱が早くしろと身体を急がせている。

 早足でトイレを目指した。



「あれ、春輝さん?」



 入口でミヤちゃんに出くわした。



「ごめん、ちょっと漏れそう!」


「ちょっ……早く行ってきてください」



 駆け込んで用を足す。

 ビール飲むとトイレ近くなるのはどうしてだろうか。

 一息ついて個室のドアを開けると洗面台の前でミヤちゃんが壁に寄っかかっているのが見えた。



「あれ、ミヤちゃん……? 席戻ったんじゃ」



 手を洗いながら尋ねる。

 なんだか嫌な予感がする。



「うち、好きな人には積極的にアプローチしたいんですよね」


「え?」


「キスして良いですか」



 顔を上げると目の前にミヤちゃんの顔があった。

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