利用
「はぁ……。あんたに言われると腹立つ」
人の心情を覗き見ることなんて他人はできない。自分の気持ちを1番分かっているのは自分自身のはずなのに。
そんな自分でさえも気が付きそうで気が付かなかった気持ちを、こいつはいつも涼し気な顔で言い当ててくる。
寂しさは弱み。完璧でいたい私にとって隠していたい感情だ。こうして「私」にさえも姿を見せまいと内部に潜っていた感情――「弱み」を掘り起こしては、上から見下ろしてくるのが水野だ。
いったい何個こいつに弱みを握られないといけないのだろうか。
「結婚、したいんですか」
「……別に。だってこのままだと時間作れる気がしないし、誰かと付き合うなんてそもそも無理」
目線を空になったビール缶の飲み口に向けた。黄金色の液体が淵で光っている。
誰かと付き合いたいだとか、結婚したいとかそういう願望があるわけではない。誰かと添い遂げれば今感じている靄は少しは取り払われるんだろうが、私には時間がないのだ。
ミヤちゃんとの同棲シミュレーションを先ほど脳内で行ったが、現実的な話になれば正直厳しいだろう。確かに、真っ暗な部屋に帰ってくるよりも灯りのついた部屋に帰りたいとは思う。けれど、気は使いたくない。人と接するだけ疲れる。平日は仕事で疲れているし、そのまますぐにベッドに入って寝たいが、相手がミヤちゃんだときっとそういうわけにもいかないだろう。
休みの日もずっと誰かが家にいると思うときっと落ち着かないし、私にとってそれは本当の意味での「休日」とはならない。
彼氏と付き合っていた時は、心の靄はあまり感じていなかったが、彼のために時間を使うことは負担だった。デートはしたいものではなく、しなくちゃいけないもの、私の中で仕事と同じようにタスクと化していた。
寂しさを取るか、負担を取るか……。どっちに転んでも良い思いはできない。それは今の仕事のせい以外に何があるだろうか。
「大久保さんとは付き合いたいと思ってたくせに」
「うっるせーなぁ」
あぁ、いっつも揚げ足ばっかり取ってきやがって……。
あの時は目先の目標にばかり囚われていたからしょうがなかった。ただ大久保さんと隣に並んで歩いていたかったのが勝った。
でもその気持ちが恋愛感情ではないかもしれないと分かった今、仮に付き合えたとしても、元彼のようにまた付き合うことが負担だと感じるようになってしまうのではないかと思う。
「この前、
「え、そうなの? ……やっぱ忙しいとそうなるよね」
森田さんとは東京本社の人事部を総括している人で職位はVP――マネージャーの上だ。VPクラスになると年収は1500万ほど。年功序列ではない、わが社でVPの座を手に入れるためには相当やり手でかつ努力が必要だ。
40代の森田さんはバツイチだったが、2年前にDAPの若くて美人なコンサル女性と結婚した。以後、彼の薬指からは大きめのダイヤの光がちらついていた。
結婚後もお互い仕事はやめることはなく共働きの生活を送っていたようだが、ついに離婚。……まぁそうなるわなと思う。
DAPは社内恋愛はそこまで活発な方ではないが、あるあるのパターンとして男性社員と女性事務職との結婚。社員同士の結婚もあるが、離婚率は比較的高い。それはおそらく仕事の忙しさも関係している気がする。
森田さんは基本夜の12時近くまで会社に残っているし、部署内の飲み会にも滅多に顔を出さない。私も忙しい方だとは思うが、森田さん並みの生活をするとなると気が狂いそうになる。ミーティングなどが多く、森田さんが自席に座っていることはありないが、時折見かけるといつもやつれた顔をしていた。それは結婚した当初も同じで、新婚の雰囲気は1ミリも感じなかった。同じ会社にいながらも、奥さんと話している姿を1度も見たことはない。無理もないと思う。
「内部の事情は分かりませんが、私は仕事が忙しいというのは当てつけの口実だと思っています」
水野はビールの缶をテーブルに置いた。乾いた音がした。
もう飲み終わったようだが水野は顔色1つ変わっていない。もっと飲ませなきゃ。
「なんで?」
質問を投げた後、立ち上がって冷蔵庫を目指した。
おぼつかない足取りで上手く歩けない……。私、だいぶお酒に呑まれているかもしれない。シャドーでもここまで飲むことは珍しいのに、今日はなんか変だ……。
「仕事が忙しくても恋愛できたから結婚したんじゃないですか。今更忙しさを理由にするのはどうなんでしょう」
「まぁ……確かにそれは一理あるかも……」
席に戻っておわかりのビールを渡した。水野はありがとうございます、と言って受け取った。私は自分の分のビールの蓋を開けてそれに口をつけた。
お互い忙しいのは分かった上で交際して結婚までいきついているのだから、それが別れの原因だと言われれば、確かに違和感はある。前言撤回。
結婚してからじゃないと分からないこともあるだろうし、日々変化する日常の中で相手に対して思うことがあったのかもしれない。性格の不一致、同棲して相手の悪いところが見えてくるなど色々な要因が考えられるが、それを仕事の忙しさのせいとして一括りにして、少しでも美しく見せようとしているかなと思えてくる。
「業務のせいにしていないで自分に素直になったらどうですか」
水野の視線がこちらに向いた。
「は、私に言ってんの? それ」
「はい。仕事が忙しいから恋愛ができないってことはないと思いますよ。本当に好きな人ができればきっと考え方も変わります」
「そんな日が来るのかな……来ると良いな……」
私も結局自分が恋愛できないことをただ仕事の忙しさのせいにしているだけだったんだ。
「大久保さんの二の舞にならないと良いですね」
「はぁ。もう恋人がいるあんたには私の気持ちなんて分からないでしょうね」
ミヤちゃんが前に話してくれた好きという感情。
私はあんな風になったことがない。
好きという感情を知らないまま私は死んでいくのかな……。
「やっぱり。寂しかったから呼んだんですよね、私のこと」
「……悪い?」
そうだ。枕を渡すなんてただのかこつけ。もうなるようになれ。水野を前に、考えることを放棄した私は脱力してより体重をベッドの方にかけた。
ミヤちゃんが帰ってしまって急に寂しくなった。誰かにそばにいて欲しいと思った。でもそれは誰でも良いわけじゃない。どうして私はこいつに連絡をしてしまったんだろう……どうして……。
「良いですよ、それで。ミヤちゃんの代わりというのは面白くありませんが」
「……なんでミヤちゃんの名前知ってんの?」
バーの子で通していたはずなのに、水野からミヤちゃんという名前が出てきて若干ビックリした。
「さっき言ってました、名前」
……そういえば言ったっけ。ぐらつく視界の中で記憶を遡る。
「そうだっけ……。ごめん酔ってる」
本格的に酒が体内に回り始めている感覚だ。
「普段会社の飲み会では全然飲まないのに。今日はずいぶんと飲んでるみたいですね」
「家じゃいつもこんくらい飲んでる」
嘘。本当は今日までは飲んでない。
水野を前に少し見栄を張ってしまった。
「こんなに赤くなるまで飲んでるんですか」
「そんな赤い?」
水野の片手が私の頬に伸びた。
細い指から伝わるひんやりとした感覚が伝わってきた。
「赤いですよ。頬もすごく熱くなってます」
「……あんたの手が冷たいだけだろ」
私は水野の手に自分の手を添えた。
ほらやっぱり冷たい、と思ったのも束の間。水野はぽかんとしたような表情でこちらを見ていた。
私は急いで自分の手を水野の手から離してそそっぽを向いた。何やってんだか……。別に手に触れるくらい傍から見ておかしな動作ではないと思う。でも水野に対してこんなことをする予定ではなかった。最悪だ。
「はるちゃん、こっち見てください」
水野の両手が私の頬を包んだ。
ひんやりとした心地良い感覚とは反対に私の心はどうしようもない羞恥心で乱されていく。なんでこんな普通に顔触られてんの。と思いつつも手を振り払えない自分がもどかしい。
「なんだよ……」
ちらっと声の方に目をやると、ずいぶんと近い距離に顔があった。目の前にいる美女に息を飲みそうになる。こいつ、美人な部類だとは思ってたけどここまでかわいかったっけ……。
あぁ、酔ってる。自分の心境を悟られまいと目をぎゅっと閉じて俯いた。水野相手に何取り乱しているんだろう。本当嫌になる。
「ミヤちゃんの前でもいつもそんな無防備な姿見せてるんですか?」
「そんなことない」
思考停止。水野が言うことは何でも否定したい気分だったのでそう言ってしまったが、この受け答えでの「そんなことない」は水野を喜ばせてしまう言葉であることは言うまでもない。あなたの前でしか無防備になりませんと言っているようなものだ。あぁ、やっちまった。
恐る恐る顔を上げると、バカ整った顔が微笑を浮かべていた。
「はるちゃん、かわいい」
身体が揺れた。ぎゅっと何かに包まれる。
「ちょっ!」
背中に回る細い腕が身体を覆っている。
ふわっとシャンプーの香りに包まれる。「女の子」の匂い。
私、今抱きしめられてるんだ……。柔らかい。小さい。その感覚は今まで感じたことのないものだった。
不快とは無縁の感情。
ただ、包まれているこの感覚に身を任せていたい。そんな感情だった。
「……」
「……」
非常に小さな呼吸の音が聞こえる。私と同じくらいの波長。
心臓の鼓動が服越しに伝わってくる。
水野の身体は、私の体温で先ほどよりも少し温かくなったように思えた。
「抵抗しないんですね」
「もう好きにしたら」
もうどうでも良いや。酔いもあって心地よい。なるようになれば良い。
「最後にこうして抱きしめられたのはいつですか」
耳元で水野は囁いた。脳に溶けていく心地よい高音に目を閉じた。
「覚えてない」
「私のことは利用してくれて良いんですよ」
「利用……?」
「はい。こうして呼んでくれたら、私が寂しさを埋めてあげます。でもその代わり……私も利用させてください」
「どういうこと?」
「こうして、あなたの熱をもらうだけです」
「熱……ん……」
身体を包んでいたものがなくなったと思った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
は?
唇に残る余熱。
目の前には水野の顔。
「本当ははるちゃんは誰かにそばにいて欲しかったんでしょうけど、私はこういうことを求めてます」
「……何してんの」
何が起こったのか考える間もなく、自分の心臓の音がみるみる速くなっていった。
「酔っているはるちゃんを利用、したんです」
「……っ!」
私は感情のまま咄嗟に何かを言い返そうとしたが、部屋にバイブ音が響いたので何を言おうとしたのか忘れてしまった。
バイブ音は水野の携帯から鳴り響いていた。何食わぬ顔で水野は携帯を耳に当てた。
「ごめんね、ちょっと話し込んじゃってた。もうすぐ行くから」
携帯を切った水野は一息つくと、こちらを見た。
「そろそろ帰ります。ビールありがとうございました」
水野はテーブルに置かれている空き缶をゴミ袋に入れて、帰り支度をし始めた。
「……彼氏?」
「さぁ、どうでしょう。ちゃんとお水飲まないとだめですよ。……今夜のことを忘れないためにも」
そう言い残して水野はそそくさと私の部屋を後にした。
私はベッドに倒れこんだ。身体が重い。何も考えたくない。
瞼が自然と下がっていく。私は眠気に任せて目を閉じた。
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