カミングアウト
喉が渇いた。
起きて一番初めに思ったことはそれだった。
身体が全力で水分を求めている。一刻も早く水を摂取しなくては。
ベッドから身体を起こすと激しい頭痛とめまいが私を襲い、視界がグラついた。
「いっ……」
何か固いもので頭を思い切り殴られたかのような感覚。瞼にぐっと力を入れて痛みに耐えた。何度か経験したことのある痛みだから分かる。これが二日酔いから来るものであるということを。
頭の痛みに顔をしかめながらもなんとか蛇口までたどり着き、計量カップに水道水を並々注いで、思い切り口に流し込んだ。ごくごくと水が喉を通過する音が1Rの部屋に響く。呼吸をすることも忘れて無我夢中で水を飲んだ。
空になった軽量カップを流しに置いて、乱れた息を整える。喉の渇きは満たされたが空気は重く、最悪の気分だ。立っているのがしんどい。ベッドに戻ってそのまま寝ていたい。
再び頭痛に耐えながら数歩進んだところで、何かが足に当たった。クシャっとした紙の音がした。
紙袋……。
昨日はミヤちゃんが帰ってしまって無性に寂しくなって、水野を家に呼んでしまった。本当は枕をあげるつもりなんてなかったのに、こう言えば来てくれると思ったんだ。枕を犠牲に寂しさを埋めようとしたんだ。でもなんでよりによって水野……。
私としたことが、酒に酔いすぎてどうかしていた。
『枕忘れてる』
チャットの送信ボタンを押した。酔っていたとはいえ、1度言った発言を取り消すことはできない。私があげると言った以上、この枕は水野のものだ。連絡は入れておくべきだろう。
仕事では几帳面で1mmのズレも許さないあいつが忘れ物をするなんて……そんな飲んでたっけ。記憶を呼び起こす。
確か水野が来てご飯食べてもらって、その後飲んで――。抱きしめられて、その後……。微かに残る感覚。私は口元を手で覆った。私、昨日水野と……。
断片的な記憶が色付いていく。先ほどの水が喉を通る音に勝る勢いで私の心臓はバクバクと鳴り始めた。
『ちゃんとお水飲まないとだめですよ。……今夜のことを忘れないためにも』
私にあんなことをしておきながら……
あいつはそう言い残して部屋を出て行ったんだ。
「どういうつもりで……」
どういうつもりで
私にキスしたんだろう。
色んなものを水野に奪われてきたがついに唇まで……。警戒していないわけではなかったが、まさか本当にされるなんて思わなかった。
考えれば考えるほどガンガンと鼓動のリズムが頭痛の波を刻む。頭は痛いが、幸いにも吐き気のようなものはなく、ベッドに横になって呆けた面で天井をただ仰いでいた。
するとピロリンと携帯の通知音が鳴った。
水野からの返事だ。
『ごめんなさい、今度また取りに行って良いタイミングで連絡ください』
私は返事をしないまま携帯を枕元にほっぽった。
やられた。
冷静に考えて、自分が欲しいと思っていたものをそう簡単に部屋に忘れるなんてことあいつはしないだろう。私と反対に全然酔ってなかったし、お酒のせいでというのも考えづらい。きっと意図的に忘れたんだ。私とこうしてまた部屋で会うために……。
水野の好意の正体、それはキスしたいという好意だった。もしくはそれ以上を求めている可能性もある。でも、気になるのは水野の恋人の存在。女同士だったら浮気にならないとでも思っているのだろうか。それとも水野にとってはそれくらいはただのスキンシップにすぎない?
いや、でも普通に考えて何も思っていない相手にキスはしないよな。
仮に恋人に抱くような好意があったとしても、意味深な言葉を残してそそくさと帰っていってしまったのが引っかかる。電話の主は誰だったんだろう。
はぁ、分からない。
あと1日。あと1日ゆっくりしていられる。
その日は、休みの日の定ポジションであるベッドでうたた寝しながらも二日酔いが消えていくのをただ待った。業務のことなどぽつぽつ頭に浮かぶことはあったが、私の頭は水野のことが大半を占めていた。
なんでいつもあいつのことを考えなきゃうけないんだろう。
頭の中のモヤモヤは二日酔いが明けても消えることはなかった。
「おはようございます」
翌日、私は同僚たちに挨拶を投げかけながらも水野とは目を合わせることができなかった。
「おはようございます。京本さん、先ほど連絡がありましてこのあと10時からの面接は候補者の体調不良によりリスケだそうです。再度、日程調整をお願いします」
大久保さんの代わりのポジションの候補者との面接がぼちぼち始まっていた。将来の上司になる人の1次面接を私が行う。なんだか変な気分だったが今日はキャンセルか。
「承知しました」
週が明けて仕事が始まっても、水野は依然としていつもと何も変わらないままだった。自分のタスクを早々に片付け、マネージャーのサポート、部下の人のフォローは欠かさない。そんな非の打ちどころのない彼女の仕事のスタンスに対抗しようと試みるが、困ったことに私は水野の存在が視界にちらつくと仕事に集中することができなかった。
向こうは普段通りなのに、こちらばかりが意識しているような気がして悔しい。
もう餓鬼じゃないのにたかがキスごときでと自分でも思う。もちろん、私が水野とどうなりたいとかそういう考えは全くない。
ただ、水野が何を考えているのか知りたいのだ。元から謎が多い奴だった。最近、距離が近くなってより一層その気持ちが強くなった気がする。
「京本さん、今日暇っすか? もし良かったら駒米で飲みません?」
週末、残業を終えて帰り支度をしていると、寺内さんが声をかけてきた。
少し照れたような表情を浮かべて眉毛を人差し指でかいている。
疲れているし、そのまま帰って寝たいというのが本音だ。しかしそれをそのまま伝えるのはエリートとしてはナンセンス。
「すいません、今日は行くところがあって」
今日はそのまま家に帰ろうと思っていたが、アリバイ工作のためにも私はシャドーに行く選択肢を取った。
「あーそうですか。いつも忙しそうですもんね、急に声かけちゃってすいません」
「いえいえ、とんでもないです。誘ってくれて嬉しかったです」
私がニコッと微笑むと寺内さんの顔がぱあっと明るくなった。
やべ……。
「嬉しい……ですか! 今度からアポ必須ですね、また連絡します」
寺内さんはスーツの胸ポケットに入っていた携帯を取り出して満面の笑みを作った。
この人、社交辞令って言葉知らないのかな……。
「……はい。それでは」
「お疲れ様です!」
私は寺内さんに見送られながら執務室を出た。
――――――――――――――
「今週はどうだった?」
「ぼちぼちです。マスターは?」
シャドーにていつもの会話。
仕事に疲れている日は寄り道せずに家に帰りたくなるが、来たら来たで良かったと思う。手元のグラスの氷をカランと揺らした。
「娘が急に結婚するって言ってきてさ。もうお腹に子供がいるって。参っちゃうよ」
マスターはグラスを拭きながら渋い顔で無理に笑ったが、雰囲気からは喜びが溢れているように見えた。
「本当ですか? マスターにも孫ができるんですね!」
「あのキリちゃんが結婚に、子供作るなんて感慨深いっすよね~」
テーブル席の片付けを終えたミヤちゃんが会話に入って来た。
「ミヤちゃんはマスターの娘さんと友達なんだもんね」
私はマスターの娘さんは見たことないけど、ミヤちゃんは繋がっている。
ミヤちゃんがここで働くようになった経緯も、マスターの娘さんであるキリちゃんからの誘いだったそう。
「そうですよ、同じクラスだったんでよく遊びましたよ。……めでたいけど、なんか寂しいですよね」
ミヤちゃんは何もない空間をただ瞳に映して覇気のない声を出した。
その感覚は分かる。友達が結婚するのはめでたいことだとは私も思うが、歳を重ねるごとに取り残されていくような感覚になっていくんだろう。ミヤちゃんはまだまだ心配するような歳でもないと思うけれど、面持ちからは不安が垣間見えた。
私ももうすぐ結婚適齢期。気になるのは世間体。恋愛できそうな兆しは今のところないが、相手を選ばなければ――。
ジントニックを舌の上で転がした。
今私の手の届く範囲で一番近いのは寺内さんだ。職位は私よりも下だし、何も惹かれるものはないが素直だし、年上なのにかわいいなと思うところもある。携帯のチャット画面を開いた。
『いつ空いてますか?』
『日程分かったらで良いんで教えてください!
『俺絶対空けるんで!』
戻るボタンを押してトーク一覧の画面を出す。
寺内さんのアイコンの下に見える猫のプリンのアイコン。結局あのまま私は水野に返事をしていない。どちらに先に返事をすれば良いものなのだろうか。はたまたこれでどちらも打ち切るか……。
口の中のジントニックをスッと飲んだ。
「あのさぁ……」
暇そうにしているミヤちゃんに問いかけた。
「はい?」
「変なこと聞くけど、女の子同士でキスすることって今時は普通のことだったりする?」
「え……どうしてですか」
ミヤちゃんは一瞬硬直した後に口を開いた。
「なんとなく」
高校の休み時間にベランダでふざけて女子同士でキスをしているのを見たのが最後。これまでこういったたぐいのものを自身は経験してこなかった。女子に唇を奪われたのは私にとって初めてで、この記憶をどう処理すれば良いのかが分からない。
女子同士のキスなんて普通のことだし、水野もあの時は深く考えていなかったのだと割り切れれば良いが、私の中の常識ではそれは普通ではないことで……。
もちろん人それぞれ考え方は違うというのは100も承知なのだが、ミヤちゃんの常識を聞くことで思考の舵を切りたいと思ったのだ。
「へぇ、したんですか? 誰かと」
ミヤちゃんは何か企んだような顔をして腕組みをした。
「いやいや、たとえ話だよ! ふと今時の若い子ってどんな感じなんだろうって」
私は平然と答えてみせた。
危ない。怪しまれて一瞬焦りを顔に出してしまいそうになったが、日ごろから仮面をかぶる癖があって良かった。
「そこまで歳変わらないじゃないですか!」
「6歳は結構違うよ! 人事として若い世代の常識を知っておこうと思ってさ」
「んー。お酒に酔ってノリでする人もいますけどね、うちはないかなぁ」
「だよね……」
やっぱりミヤちゃんはまともだ。
「急に春輝さんが女の子同士でキスなんて言うからビックリしちゃったじゃないですか。バレたのかと思った。……うちは本気の人じゃないと、しませんよ」
バレる……?
なんだか引っかかりを覚える。
「あの、ミヤちゃんってさ……もしかして――」
「マスター、あそこの席オーダー入ってます。うち今接客中なんでお願いできます?」
言いかけの私の言葉を遮ってミヤちゃんは少し離れたところでグラスを拭いていたマスターに声をかけた。
「……はいよ」
マスターはやれやれと言った表情で、注文用紙を片手にオーダーを取りに行った。
「……なんですか、春輝さん」
ミヤちゃんは落ち着いたトーンで尋ねてきた。
間が途切れたことで私は質問しようとしたことを後悔した。
こんなこと聞いたら失礼かもしれないし辞めておこう。
「ごめん、なんでもない」
「ビアンですよ、うち」
質問をせずとも、答えが返ってきた。
ビアン――レズビアンの略称。
これはミヤちゃんに教えてもらった言葉だ。
「……まじか」
心臓がバクっと跳ねた。
そうなのかなと思う節は無きにしもあらずだったが、まさかこんな近くに……。
「はい。まぁ結構春輝さんにはジャブ打ってたし、気が付かれるのも時間の問題だと思ってましたけど」
「じゃあ前付き合ってた人っていうのも……」
「女性ですよ」
「マッチングアプリも……?」
「ビアン向けのです」
「なるほど……マスターはこのこと知ってるの?」
「言ってないですけど気が付かれてると思います。察しが良いですから」
ミヤちゃんの視線の先――オーダーを取り終わったマスターは気を使ってくれたのか私たちとは離れたところでシェイカーを振っていた。
「そっか」
「春輝さん、これまで通り仲良くしてくれますか」
「もちろんだよ! ミヤちゃんはミヤちゃんじゃん」
13人に1人はLGBTだと言われている世の中。あの子はそうなんじゃないかと裏で囁かれている人はいたが、打ち明けている人を見たのは始めてだ。動揺していないわけではない。
でも、私は性的趣向で人を選んだりなんかしない。LGBT研修でも習った。仕事ができることと性的趣向は関係ない。
……待て。ここはビジネスの場ではない。落ち着け……。
「良かった。それで……私はカミングアウトしましたけど。春輝さんも教えてくれても良いんじゃないですか? キスしたんですよね、女の子と」
ミヤちゃんはもう全て分かり切った目をしていた。
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