靄の実体

『分かりました。では今から取りに行くので住所教えてください』



 ものの10分で返事は来た。



『え、今!?』



 さぞ驚いているかのようなスタンプを続けて1つ送信した。



『今取りに来ても良いからメッセージくれたんじゃないんですか?』



 ふっと短い笑いを漏らし、ベッドに仰向けになって手の甲で目元を押さえた。



「ったく。しょうがねーな……」



 天井に向かってぼそっと呟いた。

 


 社内で個人用の連絡先を知っているのは水野と寺内さんの2人。寺内さんはたまにどうでも良いようなことを連絡してくるが、水野から連絡が来たことは今のところない。私に好意があるというのであれば寺内さんのように連絡してきてもおかしくはないのに、何故かあいつはこういうところで距離を保とうとする傾向にある。だから私が自分の住所を教えたところで、急に押しかけてきたり、私が不快な思いをするようなことはきっとしてこないだろうと思う。

 くるっと回転してうつ伏せの状態になり、住所を入力して送った後、スマホを枕の上にポンと置いた。

 枕……。そうだ、これをあいつに今から渡さなくちゃいけないんだ。枕カバーはこの前替えたばかりだし、見た目はそこまで汚れていない。鼻を近づけてみたがシャンプーの薄い香りがするだけだった。シャンプーの香りといえど、自分の匂いである。なんとも恥ずかしい気持ちになって、棚から消臭スプレーを取り出して枕に吹きかけた。



 なんとなく落ち着かない。酒で火照った身体のまま冷蔵庫を開けると、中にはビールが1本残っていた。手に取って飲み口を開けた。ぐいっと大きな一口を飲んだ後、冷蔵庫の隣に置いてあるケースから常温のビールを数本か取り出して冷蔵庫の中に入れた。



 インターホンが鳴ったのは手元の缶がもうすぐで空になる頃だった。



「よ……」


「こんばんは」



 玄関口に立つ水野はニコっと口角を上げた。

 私は俯きがちにズボンのポケットに両手を突っ込んだ。数秒、空白の時間が過ぎていく。



「あーちょっと待ってて」


「はい」



 そうだ、本来の目的……。部屋に入って先ほどの枕を紙袋に入れて、玄関に戻った。



「ん……」


「ありがとうございます」


「うん……」



 差し出した紙袋をそのまま肩にかけた水野。

 今回はちゃんと受け取ってくれた……。



「では私はこれで」



 え……。



「あ、ちょっと待って……」


「はい?」



 水野は身体を斜め後ろに向けて制止した。

 目的は果たしたはずなのにどうして声をかけてしまったのか分からない。咄嗟に出てきた自分の声に狼狽しつつも、次の一手を考えた。



「あの……ご飯食べた?」


「食べてないです」


「良かったら食べてく……? 作りすぎちゃったから」



 親指でキッチンの方角を指して苦笑いをした。



「……じゃあそうします」



 結局、水野を部屋にあげることになってしまった。



 何をやってるんだろうと我ながら思う。今日は少し変だ。本調子じゃない。そう思いつつも心の中は不思議と穏やかだった。



「はい、こんくらいで良い?」


 

 そのまま温めたらすぐ食べられますから、と言っていたミヤちゃんの言葉に従い、フライパンのラップを外して温めたものを器に移して白いご飯と一緒にテーブルの上に置いた。



「ありがとうございます。はるちゃんの分はないんですか?」



 一人分の皿に水野は違和感を感じたようで、少し訝しげな表情をしている。



「私はさっき食べたから」



 お腹いっぱい食べた上にビールで胃はわりと膨れているし、私は飲むだけで良いかな。



「ご飯に誘ったくせに自分は食べないなんて虫がよすぎますね」



 ダイエット中だからと言って、2人でランチをしている時に水しか飲まない女子がいた。私はその時に、こういう系の人にだけはならないと心に決めたが、よくよく考えるとこの状況はまるでそれを再現しているようなものだ。

 でも相手は水野だしいっか。



「うまい料理を分けてやろうという私の厚意だから。ありがたく思えや」



 言い訳に変えて誤魔化す。



「分かりました。では、いただきます」



 ふっと諦めたようなため息を漏らして静かに箸を口に運んだ水野は、料理の美味しさに納得したように、何度か軽く頷いた。



「確かに美味しいですね。これ、はるちゃんが作ったんですか?」



 このような質問が飛んで来るだろうとは思っていたが案の定だ。少しばつが悪い気分になったが、相手は水野だし嘘をつく必要もない。



「……いや」



 目を背けて小さな声で返答した。



「……だと思いました。自分で作ってないくせに、作りすぎたとか言わない方が良いですよ」


「う、うっせーな」



 飲みかけのビールに口をつけて空にすると、ごみ袋に投げ入れた。

 しかし投げた位置が悪く、缶はごみ袋の中には入らずカラカラと音を立てて床に転がったので、くそ、と言いながら転がっている缶を拾ってごみ袋に入れた。



「これ誰に作ってもらったんですか?」


「……行きつけのバーでバイトしてる子」


「今週、会社にお弁当持ってきてましたよね。それもその子が作ってくれたんですか?」



 こいつ、見てたんだ……。

 今週は忙しかったので自席で食べることが多かった。向かいに座る水野は相変わらずの無表情でパソコンのキーボードをカタカタと叩いているように見えたが、私のお弁当の存在はしっかりと認識していたようだ。



「……うん」


「へぇ、ずいぶんと好かれてるんですね」



 感情のこもっていない声のトーン。



「いや、好かれてるっつーかその子が1回酔っぱらったから介抱したことがあって、そのお返しに作ってくれてるだけだよ」


「はるちゃんが頼んだんですか? 作って欲しいって」


「いや、そういうわけじゃない……」


「ふーん」



 水野はこちらと目を合わせないまま、料理を食べ進めている。



「な、なんだよ……」



 漂う気まずさ。

 別に私、悪いことしてないよな……?

 もしかしてミヤちゃんと仲良くしてることに対する嫉妬だったりするのだろうか。いや、そもそもこいつは嫉妬してるのか? 分からない。



「どうしてこのタイミングで枕を私にくれようと思ったのかなって考えてただけです」


「あぁ、別に深い理由があるわけじゃないよ。自分の枕見る度にあんたの顔がちらつくのが嫌だっただけ」


「そうですか」


「うん……」



 間違ったことは言っていない。

 毎晩寝る時に枕を目にすると水野の顔が浮かんだ。でも、あげるという選択に行きつくことはなかった。

 このタイミングで渡そうと思ったのは私が単に酔っているからだ。アルコールの力が私に思い切った決断をさせた。それだけのこと。

 今晩から寝る時に水野の顔を思い出さなくて良いなんて清々する。



「ごちそうさまでした。洗い物はせめてやらせてください」



 水野は流しに立つと、スポンジに洗剤をつけて皿を洗い始めた。

 途端に私は焦りにも似たような感情を覚えた。



「なんか飲む? ビールならあるけど。今、良い感じに冷えてると思う」


「はるちゃん、1つ聞いても良いですか」



 水野はこちらを振り返った。



「ん?」


「今日私をここに呼んだのは枕を渡すためですよね?」


「え……そうだけど?」



 まずい……。

 何かに感付かれ始めている気がする。



「別の目的があるんじゃないかと思ったんですけど」


「んなわけないだろ。言っとくけどご飯誘ったのはたまたまだから。その場のノリで言っただけ」



 うん、嘘はついていない。

 こいつがご飯を食べて行くなんてことは、実際想定していなかったし。……部屋にはあがっていくのかな、とは思ったけど。



「頑なに引き留めようとするのはどうしてですか。おかしいですよね、私のことを嫌いなくせに」


「ちょっと酔ってるのは事実だけどさ、そういう時あるじゃん……あぁもうっ」



 痒くもないのに頭皮をガリガリとかいた。

 ただでさえ今日は本調子じゃないのに、こうしてちょっかいをかけて私を惑わさないで欲しい。



「誰かと話したい気分でした?」


「そんなんじゃないし……」



 認めてやるもんか。



「今晩はずっとそばにいてあげましょうか」



 水野は髪を耳にかけると、僅かに首を傾けてほくそ笑んだ。



「それはどういう……?」



 心臓が若干速く脈打っている。

 もしかして泊まろうとしてるのか。



「そのままの意味です」


「……はぁ? いきなり言われても困るんだけど」


「ふふ、冗談。眠くなったら帰りますよ」


「そう……」



 小さな靄が渦巻く。

 本当、いつも冗談ばっか。



「ビール、いただいても良いですか」



 流しの横にかかっているタオルで手を拭いた水野は言った。



「おう」


「ありがとうございます、今度なにかでお返しします」



 最初からそうやって素直にビール受け取っとけっての。

 私は冷蔵庫を開けて、冷えたビールを2本取り出してテーブルの上に置いた。

 蓋を開けて缶を軽く合わせてから、喉元に注ぐ。自分、今日どれだけ飲むんだろう。もう結構飲んでる気がするけれど、もういいや。

 アルコールのせいで重力をもろに感じる。ベッドを背もたれにして寄りかかった。



「そのバーの子、どういう人なんです」



 粛々と飲み進めていると、水野は私と同じようにベッドに背を向けて、横に並んだ。



「えーと……見た目はいかついけど、素直で気さくで良い子かな」


「学生さんですか?」


「うーん、今はフリーター。うまくいけば来年から看護学校行くみたい」


「そうなんですね」



 水野はビールを一口飲んだ。

 目を何度か瞬かせ、儚げな表情だった。



「人助けがしたいんだって。優しいしホスピタリティある子だからさ、合うと思うんだよね、看護師」


「はるちゃんはずっと面倒を見ていた患者が1日に何人も亡くなったらどう思いますか?」


「……つらいだろうな」


「優しいだけじゃなれないですよ、看護師は」



 水野の前職は医療業界向けにシステムを開発している大手企業だった。そこの人事だったこともあり、医療業界の業務知識は豊富だ。



「なったことないから分かんないけど、メンタルは必要だろうし、拘束時間も長いっていうよね。楽じゃないんだろうな」


「実際、本当に誰かを助けたいだとか、それだけを思って医療の現場に立つ人間は多くはないです。仕事はボランティアじゃありませんから。医療業界は市場が大きいのでこういった業界に身を置く背景には、金銭的なものが絡んでいることが多いのも事実です」



 看護師の給料、結構高いって聞いたことある。

 あながちこいつの言ってることは間違いじゃないかもしれない。



「なんかそう考えると現実って感じ。夢がないというかさ。これミヤちゃんが聞いたらどう思うんだろう」



 ぼんやりと部屋の照明に目を向ける。

 社会人も悪くないと思うけど、自分の利益でしか動かない大人たちを目の当たりにすると、心が汚れた気分になる。



「どうであれ、やってみれば良いと思いますけどね。経験しないと分からないことってあると思うので」



 会社でも水野が時折口にする言葉。



「やってみれば、ね……。まぁそうだけどさ。やってみても分からないこともあるよ。正直、今の仕事が自分に合ってるのか分からないし。このままで良いのかなって不安になる」



 新卒の8割は入社後にギャップを感じるのだという。

 私は営業から入ったが、その時も確かにギャップを感じた。うちの会社の社風は数字が全て。製品を売るためなら、どんな手も使うというスタンスだった。いかに自社製品を魅力的に見せるか、情報の取捨選択によって客の購買意欲を駆り立てる。まるで騙しているようで、そんなやり方は好きではなかった。

 人事に異動命令が出た時、そんな営業のしがらみから解放されると内心喜んでいたが、違った。人事も採用のために、候補者には自分の会社の悪いところはとことん隠すし、表向きは会社の良いことしか言わないし伝えない。これも騙している。

 結局営業も人事も数字。同じだった。それでもこうして続けているのは水野の言うように、これが私の「仕事」だから。仕事はボランティアじゃないから。



「何か他にやりたいことがあるんですか」


「そういうわけじゃないけど……。今に満足してないわけではないと思う。でも……」


「はい」



 先が見えない不安というか……



「なんかこの年になると結婚してる同世代も多いじゃん。このままキャリア極めるのが正なのか分からない気がしてる」


「はるちゃん、言っていいですか」


「あん、何を?」



 水野とばっちり目が合った。

 覗き込むように近づけられた顔に唾を飲み込む。



「それ、キャリアが合ってるかとかそういうのより、寂しいだけですよね」


「……」



 呼吸が若干乱れる。強烈なクロスがクリーンヒットし視界がグラつく。

 会社帰りに時折感じていた漠然とした不安や焦りのような感情。

 私がシャドーに通う理由はそれらの心の靄を忘れるためだった。マスターやミヤちゃんの温かさによって……。



 私の心の靄の正体って……。

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