許可
「あー満腹だぁ」
一通り片付けも終わって、自分のお腹を手のひらで撫でた。
あれからちょうど1週間。ミヤちゃんは朝までバーで仕事をしているので、せめて昼は寝て欲しいという私の要望もあり、今回は夕食を作ってくれることになった。
味付けはオリジナル、料理の名称は分からないがとてつもなく美味しいお肉料理で箸が止まらなかった。ここまで満腹になったのは久しぶりのことだ。
料理の味ももちろんだが、温かい空間で他愛もない話をしながらする食事は私の心を満たした。普通の家庭っていつもこんな感じなのかな……。
部屋の端にある一人掛けソファーの背もたれにぐっと体重を預け、食事の余韻に浸りながら天井を見上げた。買い出しから料理まで何から何まで……お返しというわりには、こちらが返されすぎている気がする。けれど、あまり家にいたくないというミヤちゃんの気持ちもあるだろうし、本人が良ければこれはこれで良いのかなと思ったりもする。
ゆっくり吐き出した息の音に合わせて微かに虫の鳴く音が聞こえてきた。外はもうすっかり日が落ち、向いのマンションの街灯が光っているのが目に入る。微かに感じる夏の始まりを告げる匂い……。
「よーし、終わり」
冷蔵庫を閉めたミヤちゃんは腰をくっと反らしてストレッチをした。
この前と同様、余った食材をタッパーに移し替えて冷蔵庫に入れてくれていたのだ。
「本当毎回毎回ありがとう……」
若者がこうして動いているのに私は何をやっているんだろう。もはや私はご飯を吸い込むだけの掃除機と化している。ただその場でご飯を食べるだけの個体でしかない。その辺に植えられている植物と何が違うんだろうか。情けなさよ……。
「いえいえ、この前余ったやつちゃんと食べてくれたの嬉しかったんで、今日も多めに作ろうと思ってたんですよ」
「なんて優しいの……。作ってくれたやつ会社にも持って行ったんだ、本当に助かったよ」
家にいる時間よりも圧倒的に会社にいる時間の方が長い私は、夕飯を家で食べないことも多い。放置して腐らせるのも嫌なので、初めて会社にお弁当を持って行った。
帰ってからの洗い物の手間は増えてしまったが、コンビニなどで買うよりもずっと健康的だし、何よりも美味しい。
正直外食には飽きていたので、こういうのも悪くないなと思った。
「あははー、そっかそっか。愛妻弁当ってちゃんと言いました?」
ミヤちゃんは照れ臭そうに笑った。
「愛妻って……」
そもそも私の持ってきた弁当にツッコミを入れてくる人なんていなかったな……。
うちの会社は基本的に誰が何を食べてようとどうでも良いと思ってる人が多い。興味がないのだ。他人のご飯よりも、関心が自分の目の前の業務にあるパターンが幾度。
隣の川添さんは私のお弁当をちらっと見ていたが、それだけだ。社内で私は料理が得意ということになっているので、誰かに作ってもらったものだということは全く疑っている様子ではなかった。
もし仮に聞かれたとして愛妻弁当です、なんて胸を張って言えれば良いかもしれないが私は女だしな……。変な目で見られて自分のイメージをぶち壊すわけにもいかない。
「ちょっとくつろいでいっても良いですか?」
「あ、うん。何にもないところだけどゆっくりしていって!」
そう言うと、ミヤちゃんはスマホを片手にラグの上に体育座りの体勢になった。
「……お酒でも飲む?」
ここにいたいと思ってくれて結構だが、何もない空間だ。ミヤちゃんにサンドバッグを殴らせるわけにもいかないし、食べる飲む以外の方法で暇をつぶす手段が思いつかない。
提供できるものがあるとすればお酒くらいだろう。定期的にビールは箱買いしているのでストックなら存分にある。
「良いんですか?」
ミヤちゃんは目を輝かせた。
こりゃもっと早く……食事の時にでも出しておけば良かったな。
「もちろん、ビールで良い?」
「はい! ありがとうございます!」
冷蔵庫のビールを2本取り出して、ミヤちゃんに1本渡してラグの上に腰かけた。
プシュっと缶の開く音が2つ。何気ない会話が続く。
「春輝さんってベッドの上座って良い人ですか?」
ちょうど何本か飲み終わり、アルコールが身体を駆け巡っている頃のことだった。
ミヤちゃんは顔をしかめながら自分の腰のあたりを手でさすっている。
「大丈夫だよ。ごめん、ずっとラグの上だとお尻痛いよね?」
ずっと体育座りだったから痛めてしまったんだろう。
ベッドは聖域として、人に座らせたりシャワー後のパジャマ姿でないと入るのが嫌な人もいるようだが、今の私はそっちの部類の人間ではない。疲れた時はシャワーも浴びないまま会社着の姿でベッドに飛び込むような人間だ。
座るなり好きにすれば良いと思う。
「あはは、すいません」
ミヤちゃんは腰を浮かせて、上のベッドにちょんと腰掛けたので、私も倣ってミヤちゃんの隣に腰を下ろした。
ミヤちゃんはほんのりと頬を上気させている。バーの中だと暗いので顔色まではよく分からなかったのもあるけど、顔が赤いミヤちゃんは初めて見たかもしれない。泥酔していた時はどちらかというと青ざめていたし……。
そんなレアな横顔を何の気なしに眺めているとふと目が合った。
「実はシャドー、8月末でもう卒業するんです」
え……。
目が合ったまま3秒ほど瞬きを繰り返した。
「まじ……?」
8月末までって大久保さんがやめるタイミングと同じだ……。
期間的にあと2か月くらいか。時なんて過ぎるのはあっという間なことは知っている。いきなりの告白に心臓をきゅっと掴まれたような切ない気分になった。
「まじです。もうお金は貯まったんで、11月の入試に向けて備えなくちゃ」
ミヤちゃんは脱力した表情で上の方をぼやっと見ている。
専門学校はほとんどの場合入試で落ちることはないとされているが、看護系や作業療法士など、医療系の国家資格があるものは学力がないと落とされてしまうのだという。
そのため空いた時間にこつこつと勉強していると話していたけれど、そろそろ本腰を入れなければならない時期なのだろうと思う。
「そっか、勉強も大事だもんね……。でもいなくなっちゃうのは寂しいな」
ビールを一口飲む。
シャドーにミヤちゃんがいることが私にとっては当たり前だったけれど、そうじゃなくなると考えるとやはり寂しさを覚える。でも近々こうなることは分かっていたし仕方のないことだ。
「そうっすね……。まぁうちがこの世からいなくなるわけじゃないし。またこうして遊んでくださいよ」
「うん、遊んでぜひ」
「そういえば春輝さんってめっちゃ優秀な大学出てましたよね? 私の代わりにテスト受けてくださいよー」
「勉強かぁ……もう昔のことだしなぁ、ちょっと自信ないかも……。多分ミヤちゃんの方が良い点採れると思うよ」
勉強は頑張ってきたけれど、実際社会人になってからそれが活きているかと聞かれたら分からない。仕事では別の脳みそを使っているし。
結局は本当に学びたいものがあったというよりは、勉強をして良い大学に入ることそのものに価値を見出していた。勉強した内容は役には立ってはいないが、今の自分を形成できているのは勉強したおかげであることは間違いないわけで……。やっぱりあの時頑張って良かったのかもしれないな。
「うちの方が? あはは、それはないと思いますよ。あー勉強嫌だなぁ」
「将来のためだ、頑張れ!」
努力は無駄にならない、という思いを込めてガッツポーズを決めた。
ミヤちゃんは、うっす、と返事をするとビールを一口飲んで、着ているTシャツの襟元をぐっと引っ張った。その時にちらっと胸元に黒い模様が見えた。タトゥー……入れてたんだ……。見てはいけないものを見てしまった気分になって残っていたビールを勢いよく飲んだ。
若干ショックな点は隠し切れないが、それも個性。似合っていれば良いと思う。実際、私も入れてみたいと思ったことはあるし。でも世の中的にタブーとされていることは、世間体を気にする私にはとてもできることではなかった。きっとこの先も私の肌に墨が入ることはないだろう。
「将来かー。ぶっちゃけ言うと専業主婦になりたかったです。でも親が高校卒業したらすぐ働けってうるさくて……。なんとか説得して学費を自腹で払う条件で専門行く許可をもらったんですよね。付き合ってた人とはもう別れちゃったし、この選択をして良かったって今は思ってます」
ミヤちゃんは小さめの声のトーンで言った。
「今更だけどミヤちゃんはどうして看護師になろうと思ったの?」
卒業したらすぐに働けと親に言われながらも、どうして看護師を目指すことにしたんだろうか。
「んー……。そうですね……どうせ働くなら人助けに精を出す仕事が良いかなって」
ミヤちゃんは下を向いてゆっくりため息をついた。
「ミヤちゃんは尽くすタイプって感じするから合ってるかもね」
やってみなくちゃ分からないこともあるから適当なことは言えないけれど、人事という立場上、たくさんの人を見てきたつもりだ。人のことを考え、尽くせるホスピタリティのある人材というのはそう多くはないが、ミヤちゃんはそれを持っていると思う。看護の現場ではきっと活きるんじゃないだろうか。
「そうですねー、でもどうせだったら1人の人に尽くしたいなー」
「ミヤちゃんはどんな人に尽くしたい?」
「えー、春輝さんみたいな人ー」
おどけた表情のミヤちゃんから流し目を送られる。
「またそうやって言ってさー」
冗談がお上手なこと。
「いやいや、実際相性良いと思いませんか? 春輝さんは仕事頑張って、うちが家事全般やったらお互いハッピーになれるんじゃないかなーって。毎日料理作りますよ」
「うーん、確かに家に帰ったら誰か人がいて、ご飯が作ってあってって考えると良いかもなぁ」
「でしょでしょ?」
ミヤちゃんは少しこちらに近づくようにしてベッドに座り直した。
私の夜のルーティンは真っ暗な部屋の電気をつけるところから始まる。
ただいま、と言っても当然返事なんか返ってきたことはない。逆に暗闇の部屋の中から返事が返ってきても無理だが。
でも出迎えてくれる「人」がいるのは幸せなことだと思う。人じゃないのに出迎えられた時には引っ越すしかないと思っている。
「そういえばミヤちゃんはマッチングアプリで良い人見つかった?」
先ほどのは、たらればの話ではあるが、私なんかに尽くすよりミヤちゃんにはきっともっと良い人がいる。
キャリアを捨てきれない私はミヤちゃんとの時間を多くは作れないだろうし。
「あー。……全然ですね。最近やってないし」
ミヤちゃんは目線を私とは反対に向けて、ベッドのシーツを撫でている。
「そっかー受験に備えなきゃいけないしそれどころじゃないか……」
「そうですねー……。この枕ってこの前のやつですか?」
ベッドに置かれた2つの枕にミヤちゃんは視線を向けていた。
別に悪いことをしているわけではないけれど、なんだか気まずい空気感になる。
「あ、うん……」
「枕2つ並んでると……誰かここで寝たのかな、なんて思っちゃうんですけどー」
少しからかうような口調。
「いや、違うよ! なんとなく置いてるだけだって!」
そう、別に意図はなかった。
新しい枕の寝心地を確かめようとしただけで……。
「なんとなくー? だってこれ、必要なものなんですよねー。あえてここに置いた理由ってあるんですか?」
「いやー、寝返りうった時とかにどこに転がっても大丈夫なように……」
苦し紛れの言い訳。本当は枕なんて1つで十分だ。
でもあいつにあげる決意はなかなかできず、ダブル枕な日々を過ごしている……。
「ふーん、なんか怪しいなぁ」
ミヤちゃんは、私に添い寝をする関係の人がいることをまだ疑っているようだった。
「本当にそういうのはないから」
「本当?」
「本当」
「じゃあ春輝さん……もしうちが……」
場が沈黙した。
「ん?」
「いや、なんでもないです。あーお酒飲んで眠くなっちゃいました、そろそろ帰ります。ビールありがとうございました」
「あぁ、もう帰るのね。分かった! 下まで送って行くよ!」
少し急な気はしたけれど、もう良い時間だ。
今回は玄関ではなく、下のエントランスまでミヤちゃんを送った。
部屋に戻ってもぬけの殻となった室内を見渡した。
料理、美味しかったなぁ。
……正直寂しい。楽しかった空間も1人になるとこんなにも違うなんて。ここまで切なく感じるのは、お酒のせいもきっとあるだろう。だって私は通常1人の方が気が楽で好きなのだから。
ベッドに再び腰かけた。先ほどまではミヤちゃんが隣にいたのに……。さっき言いかけてたこと、何なんだろうか。眠くなったって言ってたけどあれは本当だろうか。昼まで寝てたのにこの時間に眠くなるなんて不自然だ。何か気に障ること、言っちゃったかな……。視線の先に映る枕を凝視しながら、ぐるぐると思考が巡っている。
スマホを取り出して、ミヤちゃんにお礼のメッセージを送った。
不安、人恋しさが押し寄せる。それはスマホをタッチする私の親指を更に動かした。
『枕、取りに来て良いよ』
送信。
あーやっちまった。何送ってんだが……。
あり得ない……。何してんだよ私。目頭の部分を強く押さえた。
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