影
忘れ物
ぼやけた視界の中に見慣れた部屋の内観が映る。遮光カーテンの隙間から差し込む光の強さでだいたいの時刻を察した。平日の朝ならとっくに目覚めなければいけないであろう時間だが、今日は目覚ましが鳴らない曜日なので気にすることではない。休日イズ最高である。
枕元に置いているスマホに手を伸ばすと液晶には10時13分と表示されていた。そして時刻の下に「不在着信1件」の通知。夜の2時にミヤちゃんからの着信だ……。何だろう。
このまま二度寝をしたいところだったが、用件が気になるので折り返しボタンをタップした。
『あい……』
なかなか電話が繋がらず、切ろうかと思ったタイミングで電話口からミヤちゃんのかすれた声が聞こえてきた。
寝起きの声。朝まで働いてたんだしそりゃ寝てるか……。
「ごめん寝てた? 着信あったみたいだからかけ直したんだけど……」
『は、春輝さん! あ゛ぁっ!』
喉を全開に開かないと出ないような勇ましい声の後に、ガチャンと何かが床に落ちたような耳に痛い音がした。
「……大丈夫?」
『あーもうくっそー。ヘッドホン落としただけです大丈夫です。それより枕! お店に忘れてましたよ』
バーに置いた紙袋の残像が脳内に映し出された。……やっちまった。
電話くれた理由、私が忘れ物をしてしまったからだったんだ。
「あぁ、ごめん。だから電話くれてたんだね」
『はい。今日お店が休みなんでうちが代わりに預かってます。春輝さん今日家にいたりしますか?』
今日……。ちょっと待てよ、これって……。
「いるけど……もしかして届けに来てくれようとしてる?」
『はい。必要なものなんですよね?』
今日はゆっくりしたいと疲れた私の身体が主張している……。
一瞬、枕をミヤちゃんにそのままあげてしまうという選択肢がよぎったが、思いとどまった。
「そうだけど、さすがにそれは申し訳ないよ!」
『春輝さん……昨日お店で話したこと覚えてますか?』
少し鼻にかかったようなしっとりとした声が脳に刺さる。
「あぁ、うん……」
『今日空いてるなら届けるついでに、お返しさせてください』
ここまで言われたらもうだめだ、諦め態勢に入る。
「わざわざ枕届けてくれるだけでもう十分なのに」
『つれないなぁー。そんなにうちの料理、嫌ですかー?』
少しいじけたような口調。口を尖らせたミヤちゃんの姿が容易に想像できる。
「いや、そんなことは決してない! めっちゃ食べたい!」
『あはは。じゃあ後で向かいますね! また少ししたら連絡します』
「分かった!」
電話を切ってから、むくっとベッドから起き上がる。はぁ、っと溜息が出る。
部屋をぼんやりと見渡すとテーブルに散らかっているビールの空き缶が目に入った。ここに人が来るんだ。さすがにこのままだとまずい。掃除、するか。
立ち上がって大きくの上に伸びをしていると、ボロボロの部屋着姿の自分が立ち鏡に映った。これもまずいな、着替えよう。
黒いTシャツに着替え、ゴミ袋を手に取ったのであった。
その後、ミヤちゃんが家にやって来たのはお昼時だった。
「よし! じゃあ……あの、冷蔵庫の中見ても良いですか……」
腕まくりをしたミヤちゃんは冷蔵庫の前に立ってこちらを振り返った。
苦笑い状態。もう私の冷蔵庫の中身を察しているような表情だった。
「どうぞ……」
ミヤちゃんの背中を無心で見る。スキニーのジーパンに長袖の白シャツ。シンプルなのにスタイルが良いので後ろ姿でもオシャレに見えるのがずるい。多分私と同じくらいの身長だけれど、私はこんな風には着こなせないなと思う。これも若さか。
ミヤちゃんは冷蔵庫のドアをすぐに閉じた。
「……買い出し、行きましょうか。飲み物だけだと料理作れないので」
「はい……」
食材がないことには料理は生まれないため、近くのスーパーに買い出しに行くことになった。
この時期はこの野菜が安いだの目を輝かせながらミヤちゃんは言っていたが、コンビニのサラダで済ませることが多い私には野菜の相場がまるで分からない……。何が食べたいかという質問にも、特段これといったものが浮かばす、基本的にはお任せのスタンスをとることにした。
買い出しを終えて家に帰るとミヤちゃんは手際よく調理を始めた。
料理道具だけは住み始めた時に揃えておいたので、出番がようやく回ってきて救われただろうと思う。ほこり被らせてごめん。
バーにいる時のミヤちゃんと同じ、後ろで髪をまとめてキッチンに立つ姿は制服を着ていなくても様になっている。フライパンで何やら焼いているミヤちゃんに手伝おうかと声をかけても、客人は座っててくださいの一点張りで私のなすすべは全くなかった。
すぐに出来る手軽なものを作ると言っていたこともあって、あっという間に卵焼きや野菜炒め、美味しそうな湯気のたつスープなどがテーブルの上に並べられた。
「遠慮なくどーぞ!」
ミヤちゃんは腕組みをしながら得意げにニコっと歯を見せて笑った。
私の家で食べ物が生み出されているという事実が未だに信じられない。めちゃくちゃ美味しそうだし……。天才かよ。
「いただきます」
両手を合わせて、卵焼きに手をつけて口に運んだ。舌先が刺激され、痺れるような感覚になった。
「うますぎ……」
「本当に!? やったー! 隠し味にチーズ入ってるんですよ、合いますよね」
箸が止まらない。卵焼きってこんなに美味しかったっけ?
外食で少し値の張るようなものは食べてきたが、明らかにそれを超している。店では食べられない実に温かみのある味に心と胃袋が満たされていくのを感じた。胃袋掴まれるってこんな感じなんだな……しみじみする。
「家庭の味って感じ。ミヤちゃん絶対良いお嫁さんになれるわ……」
「はは……」
ミヤちゃんは少し笑うと窓越しに見える外の景色に視線を移した。
つられて私も外を見たタイミングで、ブーという振動音が部屋に響いた。聞き覚えのあるとても嫌な音。社用携帯のバイブ音だ。
席を立ってクローゼットの横に置かれていバッグから社用携帯を取り出すと、ディスプレイには「増田孝之」と名前が表示されている。増田……何の用だ。
「ごめんね、会社から電話だ」
「あ、どーぞどーぞ!」
ミヤちゃんに許可を取ってベランダに出た。
カーテンというガードがないので太陽の光にもろに照らされて薄目になった。本当は部屋の中にいたいが、人事という職業は個人情報に蜜に関わる仕事だ。たとえミヤちゃんでも電話の内容を聞かれたらまずい。
休日にかけてくるくらいだから緊急の何かだろう。最悪だ。鳴りやまない携帯の通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、もしもし」
『お、大久保さんっ! ってあれ…京本さん??』
慌てふためいた増田さんの声が聞こえる。
おいおい、間違い電話かよ。
「京本です」
『あー間違えちゃいました、すいません……!』
ふざけんな。心の中で舌打ちした。
「いえ、どうかされたんですか?」
緊急そうな気配だし、一応何があったのか聞いといても良いだろう。
『実はセキュリティカード無くしちゃったみたいで……居酒屋に忘れたのかなって思てるんですけど。あーどうしよう』
絶句した。これは非常にまずい事態だ。
セキュリティカードくらいと思う人もいるだろうが、これによって情報漏洩が生じた場合、会社の損害は計り知れない。セキュリティカードを紛失した事例は何度かこれまでも見てきたが始末書の提出が求められ、決して笑って済まされることではない。自分の財布とセキュリティカードのどちらかを選べというのであれば、私はセキュリティカードを取ると思う。それくらい紛失するとやばいものなのだ。
自分が増田さんと同じ目にあったら気が気ではいられなくなるだろう。だが今は第三者のポジションだ。今の私にできること……。
「本当ですか。居酒屋さんには確認しましたか?」
私は頭を仕事モードに切り替えた。
『居酒屋だからこの時間やってなくて……こういう場合ってすぐに上長に伝えた方が良いんですよね? ちょっと焦りすぎてパニくってますどうしよう本当に』
「落ち着いてください。鞄の中はちゃんと見ましたか?」
ガサゴソと何かをまさぐっているような音が聞こえる。
『はい……。うん、やっぱないっすね』
「ズボンや上着のポケットも見ましたか?」
『はい……なかったと思いま…………あっ!!!』
沈黙が流れる。
「……増田さん?」
『上着の内ポケットに入ってました……』
あるのかよ!
自分の身体からすっと力が抜けていくのを感じた。
「……良かったですね」
『すいませんっ! うわぁ、電話した相手が京本さんで良かった、ホントすいません!』
「いえいえ、あったようで良かったです」
会話を切り上げて通話終了ボタンを押す。
よく仕事でやらかす増田さん。挙句にはセキュリティカードと来て、やってくれたなと思うけれど、私もバーに忘れ物をしたという意味では増田さんと同類かもしれないし、彼を責めるのは違うな、うん。
私は自分と同じような境遇に立ったことがある人には甘いんだと思う。
窓を開けて家の中に入った。
「ごめんね」
「いえ、大丈夫でした?」
冷蔵庫の前に立っていたミヤちゃんはこちらを振り返った。
「うん、大丈夫」
「残ったやつ、何日か持つのでタッパーにつめて冷蔵庫に入れときましたー」
ミヤちゃんは冷蔵庫を指さして口をニッと横に開いた。
私が電話をしている間に残ったおかずをタッパーにつめてくれていたようだ。
「いっぱいやってもらっちゃって、本当ありがとう……ミヤちゃんはすごいね」
席について両手で自分の頬を押さえた。
「春輝さんだってお仕事頑張ってるじゃないですかー、すごいです」
「あぁ……泣きそう……」
美味しいごはん作ってくれて、励ましてくれる。
ミヤちゃんを振る彼氏ってなんなんだろうな。
「春輝さんってなんか……」
向かいの席に立ったミヤちゃんは若干前かがみになってこちらの顔を覗き込んだ。
「な、なに」
ミヤちゃんの人差し指が軽く私の鼻先に触れた。
「なんか、年上なのにかわいいなって思っちゃいました。ごめんなさい」
「ちょ、やめてよもう! ……冷めないうちに早く食べなきゃね」
目を逸らして皿に盛られている食材に向き合う。
綺麗だとか、美人だと言われることは今までも何度かあった。でも、かわいいとはあまり言われたことはない。言われる相手が年下というのもまた慣れない。
若干社内でも私のことをかわいいと言ってくる奴は1名いるが……。
その後は他愛もない話をしながら箸を進め、食べ終わった後の洗い物もしてくれる感じだったので、さすがに私もそこは手伝った。
「実は春輝さんが忘れ物してくれてラッキーって思いました……。いつも金曜くらいしか会えないですし」
一通り片づけも終わり、玄関でミヤちゃんはスニーカーを履きながら言った。この後用事があるらしく、もう出なくてはいけないようだ。
飾らない自分になんて価値はないと思っているけれど、そんな飾らない私に会いたいと思ってくれるのが純粋に嬉しい。
「そう思ってくれて嬉しいよ。忘れ物は良くないと思うから気をつけるけど……」
「いえいえ、今日春輝さんと遊べて良かったです。あんまり家にいたくないし」
ミヤちゃんはジーパンのポケットに手を突っ込んで気まずそうに笑った。
「家にいたくないの?」
「……実はまだ親と完全に仲直りできた訳じゃないんですよ。親はあれから気にかけてくれてる感じはあるんですけど……。うちはなかなか素直になれないというか、遅れてきた反抗期というか」
仲直り、まだできてなかったんだ。
家にいたくない気持ちは、分かる。私にとって家は心休まる場所ではなかったから。ミヤちゃんも今そんな感じなのかな。
「そっか。そういう時もあるよね。私のところで良ければまた……」
「……来週も来ちゃだめですか?」
「あ、来週? えと……」
唐突な提案に様々な思考が渦巻く。来週も特に予定はないが……。
今日は、正直思ったよりも楽しんでいる自分がいた。料理も身に染みた。
でも今週のみならず来週もとなると正直迷う。自分の貴重な時間。週にたった2日しかない、秒で過ぎていく休日と天秤にかけると……。
「ごめんなさい、迷惑ですよね」
ミヤちゃんのこの一言が私の思考回路の舵を大きく切った。
「いや、そんなことない、空いてるから!」
「本当ですか!?」
「うん、来たければおいで」
「ありがとうございます、じゃあまた来週ご飯作らせてください。春輝さんを肥やさなきゃ!」
決まってしまった……。
私は玄関から出て行くミヤちゃんをそのまま見送った。
元彼と付き合っていた頃、彼が家にたびたび遊びに来ていた時のことをふと思い出した。あの時は家にいるのに着飾ってお化粧をして、まるで社内にいる自分のように振る舞っていた。でも今回は違う……。
居心地の良さはある。でも、ミヤちゃんに自分の全てを開け切っていると聞かれたら違う。なんとも分からない心の違和感……。まぁいっか。
ベッドの横に置かれた紙袋から枕を取り出して、いつも使っている枕の横に並べてみた。横になる。
新しい枕。ふわっとした低反発の素材が頭全体を包み込んだ。お腹も膨れた後に襲ってくる眠気。私はそのまま目を閉じた。
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