中間地点
あんなことがあってから心が平常でいられるわけもなく……。
業務中は自分にタスクに集中していれば何とか気を紛らわすことはできても、土曜日になって暇になると延々に脳内を水野と横内さんが巡回している。やり場のない怒り。自分要因で起こっているこの状況、胸糞が悪くて仕方がない。
もう一度関係を持ってしまったという事実は消せないし、まだあの2人の関係が続いているということにも苛立ちが隠せない。思った通り横内さんは下心むき出しの最低男だったし、視界に入るだけで不愉快極まりない。でも仕事上、横内さんと会話しなければならない機会が訪れてしまうのはしょうがないこと……。今すぐこいつをぶん殴ってやりたいという気持ちを包み隠すことにかなりの労力を使った。いつも以上にどっと疲れた。
あの気持ち悪い笑顔で水野と……吐きそうになる。
水野は受け入れろと言ったが到底無理だ。一言でいうと、この状況がとても気持ち悪い。しかしそう心で思ってはいても、こうしてただベッドに横になっていたって状況は変わることはないんだ。私が行動するしかない。
じゃあどうするべき? ――それは、横内さんから水野を……。
はぁっと大きなため息が宙を舞う。それが簡単にできていたならば今こんな風になってはいない。私が私自身を認めることができていないうちは無理だ。気持ち的には動きたい。でもどうしても怖い。真っ暗の中、一歩踏み出したところで足場がなかったら……。仮に踏み出せたとしても、この先の人生がうまくいくか分からない。下手をしたら全てを失い兼ねない。常に不安がつきまとう。
何もできないまま、1分1秒が過ぎていくのがどうしても耐えられず、軽くおめかしをして近所を散歩した。普段の私なら、まずしないことだ。
行きかう人々を目で追う。こんな状況の中でも私は無意識に水野のことを探してしまっている。どうせ会ったって何かできるわけじゃないのに。嫌になる。
今も横内さんと一緒なのだろうか……。脳内で水野のことを考えると、横内さんの影が常につきまとう。商店街に目を向けながら気を紛らわす方法を考えた。
――エレベーターを上がった先。
「おひとり様ですか」
「はい」
来たのはカラオケだ。
付き添いなどで行くことはあっても1人でカラオケに行ったことはない。何の気の迷いか足を踏み入れてしまった。なんだか恥ずかしくて店員さんの顔をまともに見ることができなかった。
「メンバーズカードをお持ちですか?」
「持ってないです」
「新しくお作りしますか? 今キャンペーン中でして登録料を無料でご案内しております。新規会員の方には特別料金でご案内できますよ」
カラオケなんてそう行くものでもないし、メンバーズカードは作らなくても良いと思っていたが登録が無料で、しかも安く済むというのであれば断る理由がない。
「あー……じゃあお願いします」
ぎこちないやり取りで受付を済ませて個室に入った。
歌っている最中にドリンクが運ばれてきて店員さんと気まずい雰囲気になるのが嫌だったので、歌を入れたのはドリンクが運ばれ来てからだった。
「この声が枯れるくらいに~君に好きと言えばよかった――」
・・・
「恋がこんなに苦しいなんて~恋がこんなに悲しいなんて~思わなかった~の――」
・・・
「傷ついても~傷ついても~立ち上がるしかない~~どんなにうちのめされても ――」
悲しげな曲ばかりになってしまった。
本当はソファーに乗り上げて、ストレス発散も兼ねてノリノリで歌ってやろうと思っていたけれど、この状態でパンクロックな曲を歌う気分にはなることができず……。夢中で短調の音階に浸っていると間もなく終了時間を知らせる電話の音が鳴った。歌っていると一瞬で時間が過ぎていく。個室を出る頃には私はコンサート後のようなちょっとしたトランス状態になっていた。
「こちらメンバーズカードです」
「ありがとうございます」
トランス状態の私。もう1人で来たことの恥ずかしさは消え失せていた。受付の女性店員さんの目を見てお礼を言った。
店を出る。日は暮れ始めている。建物の入り口で受け取ったメンバーズカードをパスケースに入れようとするが、中がパンパンで入らない。最近闇雲に突っ込んでいたので少し整理が必要かもしれない。何枚か取り出して確認する。
そこで目についた1枚のカード……。時計を確認した。自然と足が動いた。私は何かにおびき寄せられるかのように駒米と会社を結ぶ中間地点の駅に電車を走らせていた。
駅を降りて、記憶を頼りに細い道を進む。
進んだ先に、見覚えのある看板を目にした。過る記憶。やっぱりやめておいた方が……足が止まる。でも、ここまで来たんだ。普段なら家でぐうたら人間をしている私がおめかしをして、近所を散歩して一人カラオケをした。そして電車を走らせて、ここまで来た。ならこのまま――思い切って扉を開けた。
「あら、いらっしゃい」
少し低めの声の色気のある女性……ではなく、男性のキヨさんがこちらを見た。
「……こんばんは」
キヨさんは相変わらず妖美なオーラを身にまとっていた。やはり自分は場違いなのではないかと思いながらも控えめに応答する。
「ひとり?」
「はい」
カラオケでも同じことを聞かれ、少し恥ずかしかったがバーに1人で行くことは慣れている。ここは胸を張って返事をした。
「ここ座って」
「あぁ、はい」
指示通りカウンターに座って荷物をカゴに入れた。
他のお客さんはまだ来ていないようだった。それもそうだろう。今は夕方の16時。バーにしてはかなり早い時間帯だが、土曜日は特別営業でこの時間からやっているそう。
「久しぶりね」
カウンター越しのキヨさんは髪をさらっと上にかきあげると、隠れていた片目が露わになり、こちらを見た。
ミヤちゃんとの一件があったし私のことは忘れてくれて良いと思ってけれど、覚えていてくれたようだ。このバーにはあまり良い思い出がない。でも帰り際に会員カードを渡してくれたのは、次回の来店を許可してくれた証拠でもある。
キヨさんの中立的な立ち振る舞いや、馴れ馴れしいわりにもサバサバした性格が好印象として私の中では記憶に残っていた。
「……覚えてくれていたんですね」
「接客業してるとね、お客さんの顔は一度見たらだいたい覚えちゃうわけ」
キヨさんは膨らませたほっぺに、人差し指を当てて言った。
「キヨさん、ですよね。私も職業柄、人のことは覚えてる方でして……」
「へぇ、名前覚えててくれたんだ……。あなたは名前なんていうんだっけ?」
顔は覚えてたけど名前は覚えてないかよ……。1回自己紹介したはずなんだけどな……。
「京本です」
「長いわね。下の名前は」
京本で長いんだったら他の長い名字とかどうなっちゃうんだよ。つっこみたいところだが、下手に馴れ馴れしくもできずやんわりと心でつっこんだ。
「春輝……です」
「ハルって呼ぶわそしたら。名前の最後がカ行の人は省略するって決めてるの」
「そ、そうですか。ご自由に……」
相変わらず癖の強い人だが、我をちゃんと持っているって感じで飾り気のない美しさがそこにはある。
「ハル、何飲む?」
改めて名前を呼ばれたことで、ここにいることを許可されていることを強く実感した。
「えっと……この店で一番強いお酒ください」
「スピリタスっていう96度のウォッカあるけどロックで良い?」
なんて提案をしてくるのこの人、やばい。そんなの飲んだら喉が焼け死ぬ。
「すいません、普通のウイスキーのロックでお願いします」
「逃げたわね」
「まだ死ぬわけにはいかないので」
「そんなんじゃ死にゃしないわよ」
キヨさんはバーカウンターの前に置かれたウィスキーのボトルの中から一つ選んで、ジガ-カップで分量を量ってグラスに注ぎ、バースプーンで氷と混ぜ合わせている。
混ぜている長細い綺麗な手には青白く血管が浮き出ている。カランカランと店内に氷の音が巡る。
「他のスタッフさんはまだいらしていないんですね」
この前はカエデさんという男性スタッフがいたけれど……。
「早い時間だからね。はい、ウイスキーのロック。濃いやつ作っておいたから」
前に置かれた背の低いグラス。氷の山を半分ほど覆う茶色の海が広がっていた。
「ありがとうございます。ウイスキーのロックに濃いとか薄いとかあるんですか?」
「ない。あなた濃いの飲みたそうだったからリップサービス」
「リップサービスですね、ありがとうございます」
なんだか面白い人だな。
少し緊張が和らいだ気がする。これもキヨさんの計らいだったりするのだろうか。そうなら、さすがは接客のプロと言ったところだ。
「元気ないね。それ栄養ドリンクだから実は。色、それっぽいでしょ? 飲んだらきっと元気出るわよ」
「それじゃあ、いただきます」
ごくっと一口飲んだが、味はもろウイスキーだった。分かってたけど。
つーっと熱いアルコールが胃に流れていく。
「喉から胃にかけて熱くなってきました。この栄養ドリンクの効果はすごいですね」
「当たり前でしょう、もっと飲みなさい。おかわりたくさんあるから」
栄養ドリンク感覚で飲ませるつもりだろうか。そんなことになったら潰れてしまう。でも精神状態的には飲んで酔いを体中に巡らせておきたいという思いではある。
「あの……ミヤちゃんってお元気ですか」
「うーん最近は音沙汰ないわね」
「そうですか。この前逃げるようにして帰っちゃったから申し訳なかったなって思って……」
あれからミヤちゃんには一度も会っていない。彼女との縁は切れたと思っていたけれど、良くしてもらっていたし、思うことがないわけではない。
受験真っ最中だから今はきっと忙しくしてそうだ。
「ミヤに会えると思ってここに来たの?」
「いや……そういうわけではないんですけど」
「はーん、じゃあ失恋でもした?」
キヨさんは私に背を向け、グラスに先ほど私が頼んだウイスキーを注いでいる。
「そういうわけでも……なくもないかもしれません」
失恋は……多分していないと思うけれど、心境的には失恋に似たような感じだ。
「飲みな。あたしも飲むから」
キヨさんはグラスを突き出してきたので、自分のをそれを合わせた。オーナーだからお店のお酒は飲み放題ということだろうか。少し羨ましい。
カンっと小さい音が響く。
その後もキヨさんは何気ないトークで繋いでくれた。そのおかげもあってか、この人になら……という思いが酔いの巡りと共に体内を循環し、より濃いものとなっていく。
「会社で……」
「ん、会社で?」
ふうっと息を吐いて、再度言葉を発した。
「会社で、私に好意を寄せてくれていた女性がいました。でもその人は他の男性と関係を持ちました。その理由が私のためだったんです」
「どういうこと?」
キヨさんはグラスをコトっと台に置いて少しこちらに近づいてきた。
今のは言葉足らずだった自分でも思う。
「その男性と関係を持つことで、うまいこと丸めこんで組織を動かして私のことを救おうとしたというか……。実際にそのおかげといいますか、業務はだいぶ楽になったんですけど、裏でそんなことがあったって知って私はショックで……」
「好きな子を男に寝取られそうになったから逆にその男を寝取ってやったって話なら聞いたことあるけどね。そのパターンは初めて聞いたかも。要は枕営業したってこと? ハルのために」
こんな話、普通の人が聞いたらまず性別を確認するところから入るだろうが、さすがキヨさんは話が分かっている。
「はい、端的に言えば」
「あなたはそれでどうしたいの」
キヨさんは身を少し乗り出した。
やっぱりそうだ。話を聞いて、大変だったねで終わらせない。この人は踏み込んでくる人。そして且つ、頭の良い人だ。人事である私はそれを最初に見抜いた。
だから、私はここに来た。
「私は……」
どうしたいのか……。脳内で必死に言葉の取捨選択を行う。
「その男性と関係を持つのを辞めて欲しいって思います」
「そうなったらまた元通り、業務で大変な思いをするはめになるんじゃないの?」
「そうかもしれないです……でもそれ以上に2人が関係を持つ方が嫌です」
「それは罪悪感から? それとも嫉妬心?」
「正直、どっちも……あるかもしれないです」
「ハルはその子のこと、好きなの?」
ここから先のことは初めて人に話す。
奥歯を軽く噛んだ。怖い。でもここで話すこともできないんじゃこの先には進めない。手元の栄養ドリンクを一口飲んで口を開いた。
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