無価値
早朝のオフィス。
ビルの中にあるカフェで優雅に朝食……といきたいところだが、胸の騒めきは静まらず、心には優雅の「ゆ」の字もない。
前に座っている女に聞きたいことがある。だから呼び出したまでだ。
「横内さんと付き合ってる?」
会ってからメニューを決めるまでの間でもずっと聞きたくてそわそわしていた。早く本題に入りたい。
単刀直入。刀を構えた私はスパッと切り込みに行った。
「……まさか、そんなわけないじゃないですか」
前に座る女――水野は私の刀の攻撃をもろともしていないような表情で言った。
返って来たのは恋愛関係を否定する言葉で少し安心するが、嘘をつかれている可能性もあるし侮れない。
「違うの……?」
「違います。そんなこと聞くために呼んだんですか。誘ってくれてすごく嬉しかったのに……。もうこれ以上話すことはないですね」
水野はフレンチトーストを切る手を止めて、ナイフとフォークを皿の上に置いた。
「待って。付き合ってないにしたって、横内さんと何かあるんでしょ?」
ここで話を断ち切られるのだけは勘弁だ。逃がすまいと畳みかける。
「どうしてそんなこと思うんですか」
水野はここで初めて怪訝そうな顔を浮かべた。
朝いきなり会ってこんなことを聞くのは自分でもどうかと思うが、探りを入れる余裕なんて私にはなかった。あるのは焦りと不安だけ。
何もかもすっ飛ばした質問に対して、怪訝に思って聞き返すは当たり前だ。でも冷静さを失っていた私は返す言葉を用意していなかった。
「えっと……なんか最近仲良さそうだし」
苦し紛れの返答になってしまった。
横内さんと水野が会話している風景、それは日常のこと。でもそれは業務だからであって、「付き合っているんじゃないか」と思う動機としては少し無理があったかもしれない。
「寺内さんから聞きましたか」
頭の良い水野は今の返答で、私が
寺内さんとは、横内さんの前では2人の姿を見たことを「知らないてい」でいくことで同意している。だから寺内さんから聞いたとは決して言ってはならない。
「いや……違うけど。寺内さんは何か知ってるってこと?」
水野から「寺内さん」という言葉が出たことはある意味チャンスだった。
これをうまく利用することで水野を誘導できるかもしれないからだ。
「横内さんと一緒にいるところを見られました。ただ、それだけです」
「どうして一緒にいたの? いや、別に一緒にいる理由が聞きたいわけではなく、一緒にいたことそのものがちょっと怪しいというかそういう意味合い……」
冒頭部分だけだとすごい面倒くさい女になってしまうと思って、色々言い訳をしてしまったが返ってそれが言い訳感を助長させ、ツンデレみたいになってしまってつらい。
「中途採用チームのメインマネージャーですよ。関わりが深くなるのは当然のことじゃないですか」
「業務中に一緒にいても仕事だからだって普通思うよね。でも寺内さんに見られただけで交際を疑われたってあんたは思った。……それってつまり業務時間外に会ってたってことだよね」
なんとか相手の言葉を拾って論理的に話しを進めていけている。
たどり着きたい答えまであと少しといったところだろうか。
「……まぁそうですね。でも業務時間外だとしても業務のことは話しますよ」
水野はやれやれと言った顔でお水を口にした。何としても核心には踏み込ませないといったスタンスを取っているように感じる。じれったい。
これまでの話を整理すると、横内さんと恋愛関係はない。でも業務時間外に会っている。であれば、聞くことは1つ。再び私はツバから刀を抜いた。
「横内さんと寝た?」
水野はゆっくりとテーブルにお水の入ったコップを置いて言った。
「……そんなことどうだって良くないですか」
関係がないのであれば、否定しているはず。さっき、付き合っていないときっぱり言い切ったように……。
「どうだって良いって……」
覚悟はできていたことだが、横内さんとの身体の関係を否定しないことはやはりショックだ。でもそれ以上に、その言葉はまるであなたと私は関係ありませんと言われているような気がして悲しくなる。
「仮に、私と横内さんがそういう関係だとして、あなたにデメリットはあるんですか」
「デメリットとかそういう問題じゃない。横内さんのこと……好きなの?」
好きなら、私はこの2人の関係を否定することはできない。
私じゃない誰かに気持ちが行ってしまったということは、とても悲しいし、もう何にも手がつかなくなるほどショックを受けてしまうが。
「……」
水野は口を一文字に結んで斜め下の方を見ている。
否定しない。……ということは好きではないということ。
水野にデレデレな横内さんのことだ。水野が本気で横内さんのことが好きだったら、とうに恋愛関係になっているはず。
もう十分分かった。クロージングに持ち込もう。
「消臭スプレー持ってたじゃん。あれって喫煙者か、あるいは喫煙者の近くにいる人でもない限り持ち運びするもんじゃないと思うんだよね。あんたが持ってたのは中身全然減ってなかった。最近買ったものなんでしょ」
人事という職業柄、組織外の人に会う機会は多い。印象を落とさないためにも、喫煙者は配慮して消臭スプレーたるものを持ち歩いている人がちらほらいる。
水野が持っていた消臭スプレー、透明のボトルに入った液体は満タンに近かった。
「横内さんと関係持ち始めてから買ったんじゃないの。横内さんが喫煙者だから」
「なるほど、そう思ったんですね」
返って来た言葉はそれだけ。
クソ。しらばっくれやがって、やるせない。
これでトドメだ。チェックメイト。
「横内さんにお願いしたんでしょ、組織改変のこと」
「……良い推理ですね。まるで名探偵です」
水野はふふっと声だけで笑った。
こいつ……。この期に及んでまだ逃れるつもりか……。
「はいかいいえで答えろ」
「なんだか怖いですね……。これで、はいって言ったらどうするんですか?」
「……もう無理だよ、さすがにこれ以上は誤魔化しきれないから。どういう経緯があったかちゃんと話して欲しい」
真剣な表情で伝えると、水野は大きくため息をついた。
「そうですよ。はるちゃんの言う通り、横内さんにお願いしたのは私です」
よし、認めた。
「うん、で?」
「どうせ横内さんに頼んでも無理だと分かり切っていました。でも少しでも希望があるならとダメ元で頼んだのが始まりです。チーム全体のモチベーションが下がっていると思うから、新庄さんにマネジメントスタンスを緩めるよう指示して欲しいと」
水野のお願いは新庄さんのマネジメントスタンスの緩和……。
新庄さんを異動させる、というものではなかったんだ……。
「それで、横内さんはなんて?」
「想定通り、横内さんの回答はNGでした。現状、チームメンバーからの不満は上がっておらず、新庄さんからの報告でもパフォーマンスの低下は見られていない。水野さんの個人的な見解だけで、こちらが指導を入れるのは難しいと」
「でも結果的には組織改変に結び付けたわけじゃん? どうやって……」
「まぁそこは私の
「……話してくれないと怒る」
ここまで話したんだから最後まで言ってくれないと。
「怒ってくれるんですか?」
何度も何度も話を曖昧にして誤魔化そうとするのは、後ろめたいことがあるから。私がどういう反応をするのか知ってるからだ。
でも私はちゃんと事実を明確にしたい。もう覚悟はできている。
「飛鳥、言って」
強く言うと、水野の身体がピクっと反応した。
その後、水野はうなだれるように顔を下に向けた。
「……ベッドの中でのお願いであれば話は別だと横内さんに言われました」
小さい声だった。
「はぁ!? こんなのセクハラじゃんか、許せない!」
私は一つ誤解していたことがある。
2人の関係は想定内ではあったが、水野から誘ったわけではなかったことだ。
横内、あの野郎……!
「しー」
「っ!」
水野は力なく人差し指を自分の口元に当てている。
マグマのように横内に対するヘイトが煮えたぎっているが、制された私はただ目の前の女を凝視することしかできない。
「相手に論理が通用しないなら、感情論に頼れば良い話です。赤ん坊をあやすのに言葉は必要ないのと同じ様に」
「なんでそんな平然としていられるの? ふざけんなよ……。あり得ない……。あんたもあんたでなんで横内さんにほいほい付いていってんの? 断れよ!」
横内さんも横内さんだが、水野も水野だ。
私のために何だってすると言っても、私はそこまでのこと絶対して欲しくない。望んでいない。
自分から誘っていないにしても、横内さんに付いて行って欲しくなかった。
「……余計なお世話ですね」
「は? てか、そもそもそんなことで私が喜ぶとでも思った? もっと自分を大事にしろよ! バカなんじゃないの?」
感情的になってしまった私に対して、再び水野は人差し指を縦にして唇に当てた。
「自分を大事に、ね。今更ですね。私はとうに汚れ切った人間です。心配してくれなくて大丈夫ですよ。おかげさまで相手にも困ってませんし」
嘘つき。
……でもこう言わせてしまっているのもきっと私。軽い吐き気を催して口元を手で覆った。
こんなんだったらずっと新庄さんの下で苦しんでた方がマシだった。
「はるちゃん、そんな顔しないでください。私が良いと言っているんです。はるちゃんは平和に仕事ができて、私ははるちゃんのそばにいられる。それで十分じゃないですか」
「そんなわけないだろ……横内さんのこと好きなの? 違うよね?」
水野が横内さんのことを好きではないということはもう分かった。だからこそ、もう一度聞いた。愚かさに気がついて欲しい。
『コトが終わればいつも、ものすごく後悔します……。いっそ、この世から消えてしまいたいと思うくらいに』
いつしかあなたはこんなことを私に言った。好きじゃない人としたって絶対後悔する。この世から消えてしまいたいと思う絶望を水野は確実に感じている。
相手に困らない、と言っているのは私に心配をかけないために強がっているだけ。水野は今だってきっと苦しんでいる。
「どうでしょうね」
「……」
また誤魔化された。完全に否定しないことで、私が何かアクションを起こすことを回避しているつもりなのだろうか。水野はこのままの状況を維持する気なんだ。
私が何を言ったってきっと水野は動かない。質問をしたって曖昧な回答しか返ってこない。じゃあどうすれば良いの。頭が回らなくなってきた。
「私は誰かのために尽くしたいんです。相手がはるちゃんであれば尚更です。私は今に満足してます」
「……」
もうやめてくれ。
「はるちゃんは責任感が強くて優しい。だから本当のことは言いたくありませんでした。これ以上聞かなければ良かったのに、白黒つけたいという正義感で結局こうして傷ついてしまっている。私が頬被りをしたあたりで、そういうことだと察してうやむやなままにしておけば良かったんです」
「……」
「まぁ、もう話してしまった後なので遅いですね。……はるちゃんは今、生き生きと働いている。そんな姿を近くで見れて私は幸せなんですからもうこの話は終わりにしておいてください」
「……」
「この話は誰にも言わないでくださいね。はるちゃんが新庄さんとの関係を壊したくないように、私も横内さんとの関係が崩れることは避けたいので。……それでは京本さん、今日もお仕事がんばりましょう」
水野は席を立って行ってしまった。
一方的に話を終わりにされてしまった。
テーブルの上に置かれた千円札。
デジタル化が進んでいる今、私の目から見える千円札はただの絵の描かれた「紙」のように感じる。これが「お金である」と認知されていなければ、無価値なものだ。
結局私は何もできなかった。横内さんとの関係を咎めただけで終わった。苛立ちと焦りが前に出過ぎた結果だ。
苦しい思いをしているのは水野も同じだ。なら、せめてあいつを救ってあげられる選択肢を用意しておくべきだったんじゃないか。でも私は救済のカードを引くことができなかった。去り行くその手を掴んで引き留めることもできなかった。
私もこの千円札のように人間としての実態はあるのに、味噌っかすで無価値な存在のように思える。
水野の通った後の空気に僅かながらタールの臭いを感じた。
「タバコの臭いなんて身に纏わせてるんじゃねーよ」
今の私は、無価値だ。千円札を握りしめた。
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