素顔

『あ、京本さん……!』



 電話の主は寺内さんだ。

 少し上擦ったような声の張り方から、焦ってる様子が伝わってくる。



「すいません、シャワー浴びてて……。何かありました?」


『あ……いや、えと、あの……少しロビーで話しませんか?』


「今ですか?」


『あ、シャワー浴びたばっかですもんね。全然待ちますんで!』


「……分かりました」



 電話を切る。

 要件が何なのか分からないが、とりあえずロビーに行くことになってしまった。電話口の寺内さんは焦っている感じだったし、本当に緊急なことかもしれない。でも、そんな緊急なことなら電話口で用件を言えば良いのでは? わざわざロビーに行かなければならない理由が分からない。



 急いで髪の毛を乾かした後、化粧ポーチを開いた。これから寺内さんに会うので、先ほど落としたばかりの化粧を再度顔に施すことになる。最悪だ。面倒くさいの極みである。



 ふとファンデーションを塗る手が止まった。待てよ……でも本当に緊急なことだったとして、私が電話に出なかったら普通水野にも連絡するよな? なんで私だけ……。

 修学旅行の夜を思い出した。クラスの男子から夜に突然メールが来て、呼び出された記憶。まさかそういうノリだったりする……?



 化粧をして髪を軽くセットしてロビーに向かうとソファーに腰掛けてスマホをいじっている寺内さんが目に入った。

 寺内さんは私に気が付くと即座に立ち上がり、速足でこちらに駆けつけてきた。



「すいません、急に呼び出しちゃって」


「いえいえ、どうしました?」


「あぁ……」



 ひと目こちらを見ると、すぐに視線が逸らされた。



「……?」


「なんか普段着の京本さん、見たことないから変な感じですね。あ、別に悪い意味じゃなくて、新鮮というか……なんかいつもと違うからどう接して良いか……」



 赤い顔の寺内さんは後頭部を何度か手でさすった。顔が赤いのは照れてるからというだけではないだろう、きっと酒だ。

 この時点で寺内さんが私を呼んだ目的を察した。



「寺内さんもいつものスーツじゃないから新鮮ですね、若いというか」



 早くも部屋に戻りたいという気持ちが湧き上がって来ているものの、同僚は同僚である。粗末に扱うこともできず、無難に会話を続けた。



「あはは、横内さんにも言われましたよ、少年っぽいって」



 改めて寺内さんの全身を見てみると、前髪は垂れ下がり、上下ジャージのようなものを着ていた。社内でも弟系として密かに女性社員の人気を得ている寺内さんだが、今のこの見た目はまるで高校生のようだ。

 本当にこれで私の一個上かよ……。



「そうですね、私より全然若く見えます」


「……俺、男に見えないですかね」



 寺内さんは切なげな表情でそう呟いた。



「え、えと……」



 何。やめろよこういう質問。

 そういう対象として今のところ見てはいないけれど、男に見えないなどとバカ正直に言てしまったら、酔っぱらっているとはいえ恐らく傷つけてしまうだろう。

 だからといって、そんなことないと否定するのも相手を逆に勘違いさせてしまいそうで困る。



「あ、いや。なんでもないです。なんか変ですね、俺。お酒飲んだからかな」



 寺内さんはその場でため息を漏らした。



「顔、だいぶ赤いですよ。大丈夫ですか? 明日もありますし今日はもう部屋に戻って休んだ方が良いんじゃ……」


「あ、全然大丈夫です……! ほら、この通りピンピンしてます」



 部屋に戻ってもらう作戦、失敗である。

 あー帰りたい。

 大企業ではあるが、人事という狭いコミュニティの中にいる以上は極力こういう男女の面倒な関係になることは避けたい。寺内さんからの好意は前々から感じていたけれど、それとなく受け流してきたし、それを察してか彼は必要以上には近づいてこなかった。

 しかし今は出張先で修学旅行気分なのもあってか知らないが、なかなかしぶとい。



「何か用件があったわけでは……?」



 用件がないことはもう分かっているけれど、あえてこれを聞くことで用もないのに呼び出してんじゃねーぞという私の間接的なメッセージを伝えたい。



「あ、いや、特に用ってわけじゃなくて、せっかくだから少し話したいなって。俺京本さんの連絡先知らないから……。でもだからって社用携帯使うなんて、ちょっとどうかしてたかもしれません」


「緊急の連絡かと思ってビックリしましたよ」


「そうですよね、すいません……。あの、もし良かったら普通の連絡先教えてもらえたりしませんか」


「……」



 悩ましい。仕事とプライベートは分けたい私にとって社内の人に連絡先を教えることには抵抗がある。ましてや自分に好意のある人に教えるなんてもっと嫌だ。

 でも、嫌ですよなんて冗談っぽく言える関係でもないので、ここで断ってしまったらきっと今後気まずくなってしまう。明日だって一緒に仕事をするんだ。妙な空気の中に自分を晒すくらいなら――。



「だめ……ですよね」


「教えますよ」



 やむを得ない。ポケットから自分の携帯を取り出して、チャットアプリのホーム画面を開いた。



「いいんですか?」



 寺内さんは目を見開いて、信じられないといった表情をしている。



「あんまり普段私用の携帯は開かないんですけど……」


「良いです、十分です! 良かったぁ……」



 QRコードを読み込んで、連絡先を追加する。

 画面に映る私の無地のアイコンを寺内さんは嬉しそうに見ていた。



「俺、ずっと京本さんに憧れてたんです。年下なのにすげーなって。もう今じゃリーダーだし……。かっこいいのに、いつも笑顔で明るくて。仕事嫌だなって思うこともあるんですけど京本さん見ると頑張ろうって思えます。あと――」



 止まらぬトーク。あれ、なんか雲行きが怪しくなってきた気が……。



「今日呼び込みの時に手招きしてる京本さん見て、こんな一面もあるんだって結構ドキっとしたというかなんというか――とにかく俺京本さんのことが……」



 まずい、この先を言わせてしまったら――!



「あれ、密会?」



 少ししゃがれた声が後ろで聞こえた。

 振り返るとタバコの箱を手に持った横内さんが立っていた。



「あぁ、お疲れ様です……」



 そういえば喫煙所、ロビーにしかないって言ってたな……。



「なかなか部屋に戻って来ないなーって思ってたらそういうことねぇ。はーん」


「これは……その……」



 横内さんがニヤっと笑うと、寺内さんは気まずそうに目を伏せた。



「違いますよ、横内さん。たまたまですから」



 ここで慌てるような素振りを見せたら余計怪しまれる。

 私は余裕の笑みを浮かべた。



「ふーん、そう」



 横内さんはつまらなさそうにちらっと腕時計を確認した。



「もう夜も遅いですし、私はそろそろ戻りますね」



 足をエレベーターの方に向けた。



「あ、京本さん! また連絡します……!」



 寺内さんにスマイルを決めた後、そそくさとその場を立ち去る。

 今回ばかりは横内さんが喫煙者で良かったかも。変な誤解されてないと良いけど。



 部屋の前まで来た。待望の部屋。

 ここには水野がいるけれど、寺内さんと話すよりも幾分かマシである。



「おかえりなさい」



 カードキーをさして部屋に入ると、椅子に腰かけた水野がビジネス本のページをめくりながら出迎えてくれた。

 またビジネス本読んでるし……。

 水色の斑点がちりばめられた部屋着を着ている水野はいかにも女の子といった感じだった。そういえば部活の合宿の時もこんな服装だった気が……遠い記憶を辿る。

 今見えているその姿は高校生の頃の神田とまるで変わらない。でも業務中は社会人っぽくジャケットを羽織って、無表情で淡々と仕事をこなしている水野がいるわけで……変な気分だ。

 


「あぁ、うん」



 ただいまと言うのは少し抵抗があったからそれとなく返し、自分のベッドの上に座って脱力した。

 時間外労働にも似たソレから解放された安心感で溜息が漏れた。化粧落とさなきゃな……。



「寺内さんと会ってたんですよね」



 ハッとする。

 咄嗟に水野に顔を向けた。



「なんで知ってんの」


「さっき電話がかかってきた時に携帯のディスプレイに名前出てましたから。……彼、本当分かりやすいですよね。業務中もずっとはるちゃんのこと見てるし」



 水野は本から目を離してこちらを見た。

 私のことをよく見てるのは知ってる。だからこそ、私の見ている人も知っているということだろうか。

 そんな私自身は他の社員同士の人間関係にはあまり興味がない。でも水野が入社早々、大久保さんを始めとして色んな社員から言い寄られているのは知っている。自然と目に入るのだ。今日だって――。



「はぁ……。それ言ったら横内さんだって神田のこと見てるじゃん。今日もご飯食べてる時めっちゃあんたのこと見ててキモかった。もう目がセクハラだよあんなの。私無理だ」



 誰かに好かれるというのは嬉しい。自分が女として魅力的だと思ってもらえているということだから。

 でもあれに好かれるのはいただけないな……。



「心配してくれているんですか?」



 水野は僅かに顔を傾けた。



「別に……横内さんは良い噂聞かないからさ」



 不愛想に言って顔を背けた。



「そういうのを心配してるって言うんですよ」


「あーもううっさいなぁ。化粧落としてくる」



 水野を調子に乗らせたくない。

 心配していると認めたら負けだと思うから反抗する。でもこういう私の言動が彼女を喜ばせている。分かってる。でもそれはそれでもういっかと思っている自分がいて歯痒い。

 逃げるようにして浴室の前の洗面器の前に立ち、化粧落としシートで顔面を拭った。



「メイク、またし直したんですね」



 いつの間に移動してきたのか、鏡に映る水野が言った。



「さすがに同僚にスッピンは見せられないでしょ」



 一番落ちにくくてやっかいな目元をシートで丁寧になぞる。



「私には見せてくれたじゃないですか」


「……」



 本当にこいつは……。

 ありのままの顔面になった私は、むっとした表情で身体ごと振り返って水野を見た。

 長いまつ毛に白い肌。水野もスッピンだったが化粧をしてる時とあまり変わらなかった。透明感のある肌に釘付けになる。



「はるちゃんはそのままでも十分綺麗ですよ。寺内さんには勿体ないくらい」



 そう言いながら水野は一歩近づいてきたので、思わず私も一歩下がる。

 くるっと身体を回転させて再び鏡と向き合った。洗面器の横に1つ置かれている未使用の歯ブラシを手に取って、歯磨き粉を付けて口に放り込む。

 綺麗ですよなんて……。私をからかいたいのか、本音で言ってるのかが分からない。ここで反応したら負けだ。無心で歯を磨いていると、水野はふふっと小さく笑ってベッドの方に戻っていった。



「もう寝よう」



 歯磨きを終えた私は電気のスイッチの前に立った。



「さっきまでぐっすり寝てましたけど眠いんですか?」


「逆にあんたは眠くないわけ……?」


「はるちゃんが寝るというのなら合わせます」



 水野は読んでいる本をそっと閉じた。



「私は寝る。電気消すね」



 スイッチに人差し指を当てる。



「小さい電気はつけておいてくれませんか」


「……分かった」



 完全に消灯すると寝れない人、いるもんな。

 ドアの近くにある小さな電気を残して他を消した。



「……」


「……」



 広いベッドに両手を広げて大の字になる。

 ベッドに入ってしばらく時間が経ったが目が冴えている。さっき寝たこともあってあまり眠くない。

 そんな中何故早く寝ようとしたのか――部屋で水野にからかわれると、なんだかむずむずするので早く切り上げたかったというのが正直なところだ。



「あのさ、大久保さん会社やめるらしい。8末までだって」



 薄明りの中、消え入りそうな声で呟く。



「そうですか」



 不愛想な返事が返ってきた。

 もう寝てるかもしれないし、今言ったことは聞いても聞かれなくても良いやって思っていたのだけれど水野はまだ起きていたようだ。



「そうですかって……興味ないかよ」



 自分の上司が転職するっていうのにこれか。



「新しくポジションの募集をかけて面接する手間が増えるだけですね」


「本当淡泊だよな、そういうとこ」



 サッパリしているというか、思い切ってるというか……。

 そういうところもこいつの良さなのかなって最近思えるようになってきたけど。



「じゃあ私の興味のある話をしても良いですか」


「なに」


「はるちゃんの仕事のモチベーションはどこから来ていますか? 時折無理してるように見えるんです。高校生の時からずっとそう。どうしてそこまでするのか興味があります」



 首を横に動かして水野の方を見た。目が合う。つぶらな瞳。

 水野は横向きで布団を抱きしめていた。



 これを言うのは、まるで自分が親から愛されなかったダメな奴だって人に告げるようなもの。

 だから今まで誰にも話していなかったことだけどこいつを前にしてプライドなんてものはもうない。水野になら言っても良いか……。ぐっと唾を飲み込んだ。

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