反省と謝罪
「……どうでしょうね」
私の問いかけに対して少しの間が開いた後、そんな返事が返ってきた。身構えていた分の肩の力が抜けた。
「どうでしょうねって……」
こちらとしてはイエスかノーかの答えを期待していたんだけどな。濁されてしまった。
「もうずいぶんと昔のことですから」
確かに何年も前の話だけれど過去に付き合った人に恋愛感情があったか、ないかくらい覚えてるだろ。言いたくないなら濁してるだけだ、絶対。
「好きだったかすら覚えてないんだ」
皮肉まじりに呟くと、水野は小さく息を吐いた。
「もう気づいてるんじゃないですか。私が水野君と付き合った理由は、はるちゃんにもっと嫌われるためですよ」
この水野の言葉は、質問の回答としては十分すぎるものだった。
可能性が0でないことは何となく分かっていたけれど、やっぱりそうだったんだ……。なんだか頭がクラクラする。
「……なんで自分から嫌われにいくのかまじで理解できない」
水野君はうまく利用されて、私は失恋した気になって、神田は私に嫌われて……。誰1人として得なんてしないじゃん。
「好意、嫌悪……どちらにしても、はるちゃんの頭の中が私でいっぱいになれば良いと思ってたんです。好意を得るのは難しかったから嫌悪を取った。それだけです」
水野はいつもの調子で淡々とそんなことを言ってのけた。
仕事だと的を得たことをよく言うし、頷きながら水野の話を聞くことが多いけれど、今は何言ってんだこいつとしか思えない。まともな思考回路ではない。
「その思考回路でずっと生きてきたわけ? いつか刺されるよそれ」
人に嫌われることを良しとするなんて、敵しか作らないじゃん。よく今まで普通に生きてこられたな。
「大丈夫、はるちゃんにだけです」
「なんでだよ! 何も大丈夫じゃない!」
「はるちゃんにだったら刺されても良いですよ」
「刺しはしないけどさ……。私に嫌われるために付き合ったなんて水野君がかわいそうだよ。神田は好きじゃない人とも平気で付き合えるんだね」
「同じ質問を返しても良いですか」
「……」
顔面にカウンターを食らって口が半開きになった。
好きじゃない人とも付き合えるか。
過去の私だったら即答できたが、今は違う。
記憶を辿る。元彼たちの顔がぽつぽつと浮かんだ。
繋いだ手の感触、体温。彼らを愛していないわけではなかった。でも……。それが恋愛の「好き」だったかは今の私には分からない。
先ほどの水野と同様、回答は「どうでしょうね」になる。人のことを言える立場ではなかった……。
でも、好きだと思っていたから付き合ったんだ。私なりの好きという定義には彼らは当てはまっていた。
だから、好きじゃない人とも付き合えるかという問いはノーだ。大丈夫、私は水野とは違う。少なくとも自分の目的のために誰かを利用するようなやり方は――。
ブーメランが飛んできた。グッと胸の奥の何かが掴まれたような感覚になって息苦しさを覚えた。
私だって人からの見られ方を気にして、まるで自分の飾りのように彼らを隣に置いていたじゃないか。結局私も彼らを利用しようとして……。隣に座っている女に軽蔑の目を向けていたが、結局自分も同じだということに気がついてしまった。絶望。
片手で顔面を覆ってゆっくりと息を吐いた。
「はるちゃんが地位と名誉を求めるように、私にも求めるものがあるんですよ」
水野が求めるもの……。
「私からの嫌悪じゃなくて?」
「ふふ、それもそうですけど。それとは別にもう1つ」
「何」
「セックスです」
「…………はい?」
まさか水野の口からそんな言葉が出るとは思ってなくて、思わず首を横に向けて凝視した。通った鼻筋に長い睫毛、無表情の綺麗な横顔がそこにはあった。
今回は冗談じゃないよな……。
「愛犬を失った喪失感、寄り添えなかったことに対する後悔と自己嫌悪の中で私は生きていました。心の隙間を重なる身体の熱で埋めようとしていたんです。……誰でも良かった。水野君からの告白はこちらとしては好都合でした」
どこか遠くを見ているような表情で水野は言った。
水野の
当時から水野はモテていたけれど、誰でも良かったなんて……。そんなそぶり見せていなかったし気がつかなかった。顔に出にくいタイプだとは思うけれど、こいつは出会った当初から、簡単に人に身体を許してしまう程の精神状態だったってことなのか。
「依存してたの? その……やることに」
「そうかもしれません」
まじかよ……。興味本位で聞いてみたけれど、なんだかショックだ。
そういう人が世の中にいることは知っていたけれどまさか水野が……。
「もしかして水野君以外とも……そういう関係持ったりしてた?」
「はい。それが原因で別れました」
特定の人との行為に依存するタイプじゃなかったってことだな。
依存の域まで来ると、自分を制御するのが難しくなるものだと思う。依存症と病名がつくほどだ、ダメだと分かっていてもきっと止められなかったんだろう。同情する気はさらさらないけれど、何だか気の毒だ。
「……悲しかったのは分かるけどさ、不特定多数の人とそういうことして満たされるのかよ」
愛犬を失った。家族を失ったんだ。私はまだ身内の死を経験したことがないけれど、それはかなり辛いことだろうと思う。
でも、寂しさや心の傷を癒すために不特定多数の人と身体の関係を持つことが最善のやり方だったのかは些か疑問だ。好きじゃない人とするなんて虚しくなるだけだろ……。死んだ愛犬がこれを知ったらどんな気持ちになるかと思うといたたまれない。
「誰かに求められることで、必要とされることで、自分は生きてて良いんだって……一時的に思えるんです」
弱々しい横顔と、落ち着いているのにどこか小さく震えている声。
それは普段見ている出来るビジネスマンの顔ではなかった。
「……」
自分は生きてちゃダメだとでも思っていたのか。生死のライン考えるほど水野は思い悩んでた……。まさか今もそんなこと考えてるんじゃないだろうな? 言葉を失ってしまった。
なんでこいつはこんなに自己肯定感が低いのだろうか。
綺麗だし、運動もできて……。私にないものを全部持ってるくせに。私が水野だったらもっと高校生活を謳歌できた自信がある。なのになんで……。
きっと愛犬の死だけが、水野をこんな風にしたわけではない。それはなんとなく分かる。家庭環境にも問題があったんだろう。
親の愛情を受けずに育った子供は自己肯定感が低くなるというデータが存在する。私は小さな成功体験の積み重ねで自己肯定感を高めていったけど水野は……。
「幻滅しましたか」
水野の問いかけで思考がリセットされた。
「別に。生き方は人それぞれだし。ただ、やっぱり水野君がかわいそうだなって思うだけ」
目線を前のテーブルに戻した。
人それぞれ生き方は違うし、10人いれば10通りの人生がある。別に私はセックス依存を否定しているわけではないし、それで満たされるならどうぞ勝手にしてくださいとさえ思う。水野の人生だ。所詮他人である私が人様の人生にチャチャを入れるつもりはない。
でも、人を傷つけたり、誰かに迷惑をかけるような生き方には賛同しかねる部分はある。
今回の1番の被害者は水野君だ。利用されて挙句の果てに彼女が他の人とやりまくってたなんて地獄でしかないだろ。かわいそう。
「……水野君と付き合うという選択は失敗だったと思ってます」
「え?」
「あなたが私の前から姿を消してしまったから」
「……」
部屋に沈黙が流れた。
水野のせいで高校生活には良い思い出がない私は卒業と同時に連絡先を変えてシャットアウトした。
以降、大学デビューを飾り、快適な生活を送っていたけれど、こいつそのこと気にしてたんだな……。少なくとも水野君と付き合ったことを反省するくらいには。
「変なの。嫌われるのは良いのに、避けられると嫌なわけ?」
「避けられるのは別に良いんです。失うのが嫌なんです」
「……違いが分からん」
どっちも同じような意味だろうが……。
「失ったら元も子もないですから」
……確かマスターが似たようなこと言ってたな。
避けられるうちはまだ相手の視界に入っている証拠だけれど、関係が断ち切られたらそれまでだ。
でも嫌いな人とは極力関わりたくないし、視界にも入れたくないと普通思うものでしょ。嫌われたいくせに、繋がりがなくなるのは嫌だなんて我儘な話だ。
「嫌な人との関係は断ち切りたいって思うじゃん普通」
「嫌われすぎてしまうとそうなっちゃいますよね。愚かでした。ごめんなさい」
「何に対して謝ってんの」
「はるちゃんが本当に欲しいと思うものを横取りしたことに対してです」
まさかこのことを謝られる日が来るなんて思っていなかった。なんで今言うかな……。
「……謝るなら水野君に謝れ」
「彼にも申し訳ないことをしましたね、反省してます」
「よし」
ちょっとはまともになったようで良かった。ちょっとだけ、だけど。
人は失敗を繰り返して成長していくんだ。こうして過去を反省できてる今はメンタルも安定して、やることにも依存しないで、恋人ともきっと良い関係を築けている、そう思うことにしよう。
「偶然にもはるちゃんにまた会えて私がどれくらい嬉しかったのか知ってますか。神様って本当にいるのかな、って思いましたよ。反省したかいがありました」
水野は脚を小さくバタつかせた。
「嬉しそうには見えなかったけどな」
「顔に出してないだけです。今だってすごく……」
言葉が途切れたのでなんだよと思い、ちらっと横を見るとバッチリ目が合った。
「……なに」
上目遣いがちに顔を覗き込まれて、少し後ろに後ずさる。
「ねぇ、はるちゃん。もう私はあなたを失いたくないから……はるちゃんの欲しいものを横取りしたりしません。欲は言わないですから……ただ、そばに置いておいて欲しいんです」
耐えきれずに視線を逸らした。
私の欲しいものは取らない……。奪おうと思えばいくらでもできた状況だったけれど、私から大久保さんを取ろうとしなかったもんな、こいつ。
にしても、ただ、そばに置いておいて欲しいだなんて、よくもそんなこと言えるよな。言ってて恥ずかしくないのかよ……。
「なんでこんなにあんたに思われてんだろ」
ここまで人に好かれることなんてあんまりない気がする。私が水野にしてあげたことなんて何もありゃしないのにさ。私のどこが良いんだろう。
「人を好きになることに理由が必要ですか?」
水野の好意の正体。
好きでもない人と付き合ってまで私からの視線を得ようとしていた。普通に考えて、友達に抱くような好意ではないのは分かる。そしてその好意は今でも私に向いている。
私が水野の恋人の立場だったら、同性でもここまで執着しているのは見てて良い気はしないだろう。
「神田の言う好きってさ……」
ミヤちゃんも言ってたけど……私がもし仮に付き合おうって言ったらこいつは――。
「はい」
「何でもない……。猫見れたし、もう帰るよ」
男と付き合ってそういうことしてるんだから、きっとない。知らない方が良いことだってある。このことを下手につっこんでこれ以上私の頭の中を水野に支配されたくないし。聞かないで正解だ。
ソファから立ち上がって荷物を肩にかけた。
「分かりました。玄関まで送ります」
水野も立ち上がってカーテンを僅かに開いた。
その拍子に風に揺れる私のハンドタオルが再び目に入った。
てか冷静に考えて私のハンドタオルが何で水野の家で当然のように干されてるわけ? 理由が分からないんだけど。
「ハンドタオル返せよ」
「嫌です」
間髪入れずに水野は言った。
即答。
「プリンにあげたのに、あんたが持ってるの腹立つんだけど」
水野にあげたわけじゃないのに。
でもこの調子じゃ私が何を言っても返してはくれないんだろうな。まぁいいや、高いものでもないし。
玄関に向かって歩き出すと、水野が後ろからついてきた。
「代わりのハンカチあげたじゃないですか」
「あれ代わりのつもりだったのかよ」
「そうですよ。あと……」
「あん?」
歩みを止めて振り返る。
「ハンカチを見たら、私のことを思い出してくれるかなって思ったから。少しでもはるちゃんの中にいたいって気持ちは今でも変わらないみたいです」
水野は少し照れたような表情で目を細めて小さく笑った。
「……本当、変な奴だよな」
「知ってます」
少し日が落ちてきた駒米の街。
自宅に向いながら先ほどの会話を思い出す。
反省、謝罪……。水野のことを思う度に感じていた不快感のようなものはこの頃にはだいぶ薄れていた。
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