飼い主

 水野の部屋の間取りは1Kで、キッチンと部屋が分かれているタイプだった。玄関から見えるキッチンにはたくさんの調理器具が並べられており、自炊しているんだなということが分かる。

 玄関から入って水野に倣って洗面所で手を洗った。棚のコップには2つ歯ブラシが入っており、その隣には髭剃りが置いてあった。男の気配。恐らく恋人のものだろうと思う。

 どうぞ、と部屋に通された。シンプルな木製の家具に、ベッドカバーは薄いピンク。全体的に綺麗に整えられていた。サンドバッグが置いてある私の殺風景な広い部屋とは大違いで、生活感と清楚感のある「女の子」な部屋だった。

 部屋の中には見覚えのある子猫が1匹。出会った頃より少々身体が大きくなっており成長しているのが見てとれた。



 とりあえず座るか。肌色のミニソファーが置かれていたので私は遠慮なく腰掛けた。

 水野は私と少し離れたところでラグの上に体育座りになった。私服の水野が体育座りしているのを見ると、普段見ているキャリアウーマンの姿とは似つかず、あどけなさの残る高校生の頃の水野を見ている気分になった。不快な疼きが胸の奥でごろごろとしている。部屋は無音だし、なんか気まずい。



 コトッと音がした。猫が部屋の隅にあるタワー状のツミキのようなものにひょいと乗り上げた音だった。

 そうだ、本来の目的を忘れかけていたが、私は猫を見に来たんだった。



「名前、何ていうの?」



 タワーの上で猫は自分の手を舐めて毛づくろいのようなものをしている。ずいぶんとくつろいでいて、ここの生活にも結構慣れてきたんだなって感じがする。



「プリンです、女の子なので」



 プリン。

 よく聞くペットの名前のようにも思うけれどプリンか……なんか少し違和感だ。



「……うん。名前はかわいいと思うけどなんでプリンにした? 灰色じゃん」


「本当は付けたい名前があったんですけどね。さすがにやめました」



 水野はプリンを見上げながら言った。

 私の瞳には水野の儚げな横顔が映った。



「付けたい名前って何だよ……ってうわっ。何これ」



 ザザザっと音がして、タワーの横に置いてある機械からキャットフードらしきものが器に流れた。



「子猫用のドライフードです。ある程度成長したので、もう水でふやかさなくても良くなりました」


「これ自動で出てくるの?」


「はい、時間を設定しておけば。スマホから遠隔操作して餌をあげられますし、カメラもついているので猫の様子を観察することができます」


「ほぇー」



 全く、便利な世の中になったものだ。

 「人」のために「動」くと書いて、「働く」。すべての仕事は誰かのために何かをすることで成り立っていると私は思う。テクノロジーが発達することによって、AIに仕事を取られてしまうことを脅威に感じることもあるけれど、AIが人のために「働く」ことで人間とAIが共存し、より皆が生きやすい世の中になればそれに越したことはない。

 と、IT企業の人事――私は思っていたりする。



「これ、川添さんがおすすめしてくれたんです」


「川添さんが……?」


「川添さんも猫飼ってるんですよ。私は猫を飼うのが初めてなので、この前遊んだ時に色々教えてもらったんです。そこに置いてあるキャットタワーも川添さんのおすすめです。猫は上に登りたがる生き物だから賃貸ならこれがあった方がストレスを溜めにくいって」


「あの時2人で遊んでたのって……そういうことだったのか」



 入社したての水野がいきなり川添さんと休日に遊ぶなんて、何か不自然だと思ったんだよな……。

 2人は駅ビルの前で待ち合わせしていたようだが、駒米の駅ビルの中にはペットショップがある。そこで色々と教えてもらっていたんだろう。



「私が川添さんと2人で遊ぶの、嫌でした?」



 水野は少し顔を傾けて、口角を上げた。

 私をからかう時の顔。見覚えのありすぎる顔だった。



「……川添さんを取られるのが嫌だった」



 あの時確かに水野と川添さんが2人で遊ぶことに対してモヤモヤした。でもそれは、水野が川添さんと遊ぶことというよりは、川添さんを水野に汚染されたくなかったから……だと思う。

 今まで色々と奪われてきた私は、川添さんまでも奪われることが嫌だったんだ。だから取り返そうとしてランチに誘おうと――



「嘘。川添さんのことなんてどうも思ってないくせに」



 発せられた言葉に一瞬固まった。



「はぁ、そんなわけないだろ。何なのまじで!」



 分かったようなこと言いやがって!

 拳をソファーに叩きつけた。反動でぽよんとバウンドした。

 このことに深く突っ込むと「権力にしか興味がないはるちゃんが事務職の川添さんに入れ込むなんておかしな話じゃないですか」なんて言うんだろうな。

 でも川添さんのことはチームメイトとして大事にしているし、私にも情くらいあるっつの!



「……ごめんなさい。そういう風に怒るはるちゃんの顔が見たくて、つい」



 水野は笑いを堪えるようにして口元を手で押さえて目を細めて少し俯いた。

 こいつは私が怒ったり嫌ったりするほど嬉しそうにする変態だ。嫌いだから嫌悪を向けるのに、嫌悪を向けられて喜ぶのがこいつ。じゃあどうすれば良いわけ? どうすればこいつにダメージを与えられるの? 

 私が何やったって喜ぶじゃん。本当無理なんだけど。イライラする。



「……プリンが神田に変なことされてないか心配。大丈夫? こんな奴に飼われて」



 プリンの後ろ姿に問いかけたが、どうやら餌に夢中で私の声は届いていないみたいだ。

 変態に飼われるペットってどうなの。恋人にも同情するわ。



「大事にしてますよ、はるちゃんに似てるから」


「ん……似てる?」



 少しドキっとした。

 私がずっと子猫を気にかけていた理由――それは自分に似ているからだと思ったからだ。選べない環境、恵まれない境遇。不思議とどこか重なるものがあった。私は猫に同情していた。だから――ベランダに干された私のハンドタオルが一瞬目に入った。



 水野は何をもって私に似てるって……。



「私に興味ないふりして、急にすり寄ってくるところとかそっくりです」


「おい、待て。すり寄った覚えはないんだが!」


「えぇ、そうですか? さっきのはるちゃん、焦ってるのが電話越しでも伝わってきてかわいかったなぁ」



 流し目がちに水野はこちらを見た。



「いや、今回の件は消去法だからな! 仕方なくだから」


「分かりました。じゃあそういうことにしておきます。でも似てますよ、着てる服の色も同じですし」


「服は関係ないだろ!」


「ふふ……」



 水野は再び口に手を当てて小さく笑った。

 餌を食べ終わったプリンはてくてくと歩き、水野のところまで来たので、水野は体育座りを崩してプリンを抱き抱えた。華奢な細い手が猫の身体に触れる。

 頭を撫でられているプリンは舌舐めずりしながら気持ち良さそうに目を細めた。

 私はそんなグレーの猫の姿をただ見ていた。



「実は、生き物を飼うのはこれで2回目なんです」



 水野はプリンを撫でながらそんなことを呟いた。



「……前は何か飼ってたの?」


「犬です」


「へぇ、いつ?」


「小学生の時から。両親が別居して私は母と2人で暮らしでいたんですが、母は夜の仕事をしていて……。昼は寝たきりでしたし家を空けることも多かったので、私が寂しくないようにと犬を飼い始めたのがきっかけです。大型犬だったんですけど人懐っこくてとても良い遊び相手になってくれました」


「そうなんだ……知らなかった」



 以前、それなりに私たちは仲が良かった時期もあったけれど、水野が私に愛犬のことを話してくれたことはなかった。

 私が知っている水野の家庭環境に関する情報は、一人っ子だということ、母子家庭だったということ、そして、今水野の両親は離婚しているということだけだ。親が夜の仕事をしていて、家を空けることが多かったこと、犬を飼っていたことは知らなかった。

 家族や姉弟がいても私にとって家は賑やかなものではなかったけれど、同じ屋根の下、どこからか聞こえてくる生活音で寂しさは紛れていた。水野のように一人っ子で母子家庭、親がほとんど家にいない生活はそれなりに寂しいものがありそうだし、犬を飼うのは良い選択だったのかもしれないな。



「愛犬のことは言ってませんでしたね、高校生になる頃に亡くなったんで」


「……まじか」



 じゃあ水野は高校生になる頃から、ずっと1人だったのかな……。

 ちらっと顔を伺うと、憂に満ちた表情ながらにもどこか悟りを開いたように落ち着いていた。輝きのない乾いた目をして水野は口を開いた。



「ええ、胃がねじれてうまく食べ物を消化できなくなる……治らない病気でした。臆病だった私は愛犬が日に日に弱っていく姿を見ていられませんでした。だから学校帰りにわざと寄り道をして、家にいる時間を減らしました。死から逃げていたんです、怖かったんです。我ながら子供でした。結局ずるずると時間だけが過ぎて、犬の死に目に会うことはできませんでした。もっと一緒にいてあげられれば、世話をしてあげられればって、私はそれを今でも後悔しています」


「……」



 息が詰まった。大丈夫、きっとその愛犬は神田のことを恨んでないよ、なんて勝手なことも言えず、どう声をかけて良いのか分からずに沈黙した。



「……だから……この子は私が死ぬまで面倒を見ます。そう決めてます」



 水野の目からは強い意思を感じた。



「この子にとっては、唯一の飼い主だもんな」



 あの時は子供だったかもしれない。怖いことだってあるし逃げたくなることだってあると思う。

 でも今は経済的にも肉体的にも大人だ。そんな大人が飼うんだと決めた以上は最後まで責任を取るべきだし、当たり前のことだ。

 水野は過去を後悔して、反省しているしきっと今回は大丈夫。



「はい、そうです。私だけが飼い主……。かわいいと思いませんか? この子は私がいないと生きられない。私だけを頼って、私に全てを見せてくれる。そして私から与えられる愛情しか知らないまま死んでいくんです」



 普通こんなこと考えるか……? やっぱちょっと変わってるよな……。

 抱かれているプリンの顔を再度見た。

 ご飯を食べた後だからか、目を瞑ってじっとしていた。



「……それは猫にとって幸せなことなのかな」



 子供は親を選べない。

 この猫も同様に、水野に意図せず拾われた。溺愛してるのは分かったけれど、はたして水野に飼われることが猫にとっては幸せなのか。この小さな部屋の中だけじゃなくて、もっと色んな景色を見てみたいとか猫は思わないものなんだろうか。



「どうでしょうね。幸せは比較対象があって初めて分かることですから。少なくとも、あのまま雨に打たれて死ぬよりは良い人生送ってるんじゃないでしょうか」



 確かに。



「そうかもな……。ただ生きてるだけで愛してもらえるんだもんな」



 先ほどからプリンの様子を見ているけれど、リラックスしてくつろいでいるように見える。きっと今のプリンを見て不幸だと言う人はいないだろう。



 ペットって良いな。

 何も努力なんて必要なくて、好きなように時間を過ごして、無償で与えられる餌と愛情に身を任せて生きていれば良いんだもんな。



「はるちゃんも私に飼われてみませんか? 全部面倒を見て、全部愛してあげます」



 水野は少し前屈みになって、口元を僅かに緩めながらこちらを覗き込んだ。



「は? ふざけてんのか?」



 バカにしやがって。キッと睨みつけた。



「冗談ですよ」



 サラッといつもの無表情で返された。



「真顔で冗談言うのやめろ」


「今更ですね」



 プリンは目を覚ましたようで、ひょんと水野の腕から抜けるとキャットタワーの方に向かって行った。

 水野は猫の毛を軽く払うと、足が痺れましたと言って私の隣に座った。普段嗅ぎ慣れない男ものの香水の匂いがした……気がした。

 洗面所に置かれた髭剃り、歯ブラシ。今、このことを聞いたってきっと大丈夫だと私は悟った。



「ねぇ、1つ聞いても良い?」


「何ですか」



 隣から返事が聞こえた。

 私は視線をそのまま、前に置かれている木製の小さなテーブルに向けながら言った。



「怒らないから教えて。神田はさ……水野君のこと本気で好きだった……?」



 今更過去のことを知ってもどうしようもないことは分かっている。でも過去だから、過去のことだからこそ今話せることだってある。あの時、どんなに特別な感情を私に抱いていたとしても、水野は今新しい人と現在を作っているし、本人だって昔話だと割り切っているなら問題ない。

 この回答を聞いたところで何かが変わるわけではないと思う。ただの好奇心だ。考えの読めない「神田」が当時何を考えていたのか。たびたび頭に浮かんで来ては解決できないモヤモヤをどうにかしたかった。

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