時代遅れ
青みがかかる空の下、冷たい風を頬に受けながらポストを開けるとチラシが数枚入っていた。眠い目を擦りながら無造作に取り出す。カシャっとチラシの乾いた音がこぢんまりとしたマンションのエントランスに響いた。
無言でそれを見つめた。頑張っている配達員には申し訳ないけれど、これは私にとってはただのゴミでしかない。しかし、チラシに写るピザは酔いのまわった私の脳を通すと魅力的に見えた。アルコールで脱水症状を起こし、血中塩化物濃度が低下している証拠だ。身体が塩っけを欲している……。
チラシを裏返すと店の名前が大きく印字されていた。
「この店、寺内さんが教えてくれた店……」
イタリアン料理が好きという設定になっている私に、寺内さんは近場の美味しいお店をよく教えてくれる。
この店はランチタイムに500円でピザとサラダ、飲み物までついてきて、しかも味も美味しいとか言っていた。
「宅配はやってないか……」
極力休みの日は外に出歩きたくない。
家まで食べ物を運んでくれるウーホーイーツというサービスがこの頃マイブームであるが、宅配はやっていないようだ。まぁ機会があればだな。
再びチラシをひっくり返し、描かれているピザに目をやると自然に引き寄せられた。インクの匂いが鼻にささる。無意識に口元までチラシを運んでいることに気が付いて、スッと離した。
「おい、誰がヤギだこら」
酔って若干意識が朦朧としているとはいえ、ピザに引き寄せられるまま紙を食うなんぞ人間として許されることではない。ポストの前でチラシ食ってるOL――ホラーだしキチガイだと思われる。危ない危ない。
塩っけを欲っしているし、お腹が空いている。何か食べ物を胃に入れたいところだが疲れの方が勝っていた。このままベッドにダイブしたいが、その前に着替えて化粧を落としたり色々しなければならない。面倒の極みだ。
とりあえず衣類を床に脱ぎ捨てた。ジャケットは皺になったら面倒なので力を振り絞ってハンガーにかけた。下着姿のまま壁際の棚の上にある化粧落としに手を伸ばすと、その反動で何かが床に落ちた。落ちたものを目で追うと紫の綺麗な縫い目が特徴のハンカチだった。
これ、水野がくれたやつ……。ゆっくりと拾い上げて朧げに見つめた。
「ハンカチ君、君に罪はないんだけどね」
誕生日プレゼントとしてもらったは良いものの、水野の中古品。これを会社に持っていくのは負けな気がして嫌だし、だからといって捨てられもせず棚の上に無造作に置いていた。時が経ち、家具と同化してハンカチは日常に溶け込んでいたけれど、改めて見ると綺麗な模様をしているなと思った。
私のハンドタオルをあいつが持ってて、あいつのハンカチを私が持ってるのってなんか変な感じだな……。
洗面器で顔を洗った後、横に吊るされているフェイスタオルは使わず水野からもらったハンカチで顔を拭いてみた。さらさらの面が肌に触れる感覚は妙に心地良かった。
鏡に映る自分と目が合った。
何やってんだか……。寝よう。
ベッドに横になって目を閉じた。脳裏に水野の顔が浮かんだ。
最近水野のことを考えることが多くなった気がする。……あんな過去を打ち明けられて、逆に考えない方が無理だろ。
告白されてから相手のことを意識してしまって最終的に相手のことを好きになる心理が少しだけ分かった気がする。私はもちろんあり得ないけれど。不思議な生き物もいるんだなって感覚で水野のことを見ているし。
平日の疲れが一気に押し寄せ、私が意識を手放すのには時間がかからなかった。
――――――――――――――
『ブーブー……ブーブー……』
枕元で携帯が振動している音で意識が戻った。目を開けると、携帯の画面が太陽の光を反射させて瞳に突き刺さり思わず顔をしかめた。残像を頼りに携帯に手を伸ばすとバイブは収まった。んんっと寝起きの声を漏らして薄目で通知を確認する。時刻は13時を過ぎていた。
着信が同じ電話番号から5件入っており、先ほどの電話もこの番号からだった。私の連絡先には登録されていない番号だ。
まさか水野じゃないよな……。通話ならチャットのアプリからできるから違うか……。
5回もかけてくるから急用の可能性が高い。恐る恐るリダイアルボタンを押した。
3コール目で相手は電話に出た。
「もしもし……」
自分でもびっくりするくらい枯れた声が出た。
『はい』
電話口からはおばさんの声がした。
「すいません、お電話いただいていたみたいなんですけど……」
『あぁ、京本さん?』
明らかに不機嫌そうな声が聞こえた。何……。
「はい、そうですが……」
『クリーニング店の者ですが。ズボン、いつ取りに来られます?』
あぁ、やってしまった……。
取りに行こうとしては、めんどくさいと思って先延ばしにしていた件だ。まさか催促の電話が来るとは思っていなかった。
取りに行くのは明日で良いか。まだ眠いし疲れがたまっている。今日は休みたい。
「すいません。明日にでも取りに――」
『今日取りに来ないなら処分します』
「はい?」
『今日取りに来ないなら処分します』
そんなキッパリ言う??
「……分かりました。じゃあ今日取りに行きます……」
『お待ちしています。では失礼します。…………やっと京本さんに電話繋がったよ。明らかに寝起きの声だったわ。こんな時間まで寝てるようなだらしない生活してるくらいだもの、取りにこないのも納得――』
ここまで聞いて私は通話ボタンを切った。
おい、悪口なら電話ちゃんと切ってから言えや。
何、それとも電話切らなかったのはあえてなの!? 聞かせようとした?
だとしたら性格ひねくれてるにも程があるだろ!!
確かに取りに行かなかったのは悪いけどさぁ、そこまで言うことなくない??
お前が私の何を知ってるっていうんだ!
こう見えて会社ではエリートやってんだぞ!
なんなんだよクソババア!!
怒りで眠気が吹っ飛んだ私はとりあえずベッドから起き上がった。だるいけれど、取りに行くか。まずは服を着なければならない。クローゼットに手を伸ばした。
悪口を聞いてしまったので、いつものようなボロボロのジャージとスウェットで行ったら、まただらしらないとかどうとか言われてなめられる気がする。ジャケットに目を移した。
だからといって、いつもみたいにビシっと決めるのもなんだか……。たかがクリーニング屋ごときに……。無難にいくか。グレーのTシャツと、ジーパンを取り出して身につけた。
クリーニング屋でクソババアからズボンを受け取った私は、店を出たところで自分のお腹をさすった。腹が減った。
何か買って帰ろうと思ったけれど、今朝見たピザの残像が頭をよぎって、いてもたってもいられなくなった私は例のイタリアンの店を目指すことにした。Tシャツにジーパンならレストランくらいなら行ける装備だし、たまには休みの日に外食をするのも悪くないだろう。
数分歩いてイタリアンの店に入ると、入口から近い場所に案内された。店内はお昼時ということもあってまぁまぁ混んでいた。1人の客も見た感じ多い。会社の知り合いがいないか一瞬警戒したが大丈夫そうだ。良かった。
マルゲリータとオレンジジュースを注文してがっついた。気がついたら皿とコップは空になっていた。
結論、悪くなかった。美味しかったし、お腹もある程度膨れた。これでワンコインならコスパは良いと思うし、手軽に来られる点は評価する。寺内グッジョブ。
そろそろ行こうかと立ち上がろうとした時だった。
「クレジットカード使えますか?」
「申し訳ございません、当店は現金のみでのお支払いとなっております」
「分かりました」
客と店員さんのやりとりが耳に入ってきた。
……え。
え、現金もってなくないか私。
私はIT人材。キャッシュレス化を進めている。だいたいのものはクレジットカードや電子決済で済む時代になったので、現金を今日は持ち合わせていなかった。
冷や汗が流れた。嘘だろ……どーすんのこれ。
やばい。
やばい。このままだと食い逃げになってしまう……。もう飲み終わっているはずのオレンジジュースをストローで意味もなくすすった。
こういう時どうすれば良いのかをすぐに携帯で検索をかけた。見たところ、お店の人に事情を説明して、住所の分かる身分証を提示して――などと面倒くさいやりとりが発生するそうだ。場合によっては職場の場所や電話番号も知らせなくてはいけないらしい。そんなことしたくないし、恥だ。更にスクロールすると警察沙汰になった人の記事も出てきた。
え、無理なんだが。レジを凝視した。にこやかな店員さんが立っていた。
無理なんだが。
誰かに助けを……。
真っ先に思いついた名前はミヤちゃんだった。
でも彼女も明け方まで働いていたわけだし、もしかしたらまだ寝ているかもしれない。いきなり私から連絡が来て金を貸して欲しいなんて言われたら困惑してしまうのではないか。私としても、あまりこのような情けない年上の姿を見せたくはない気持ちもある。
……ミヤちゃん以外で連絡先を知ってる人だともうあいつしかいないじゃん。くそ……。
食い逃げか水野の2択ならやむなく水野だ。ボタンを押すかギリギリまで粘ったが、思い切って通話ボタンを押した。
『はい』
電話口から水野の声が聞こえた。
繋がってしまった……。
「あの……今何してんの」
どういうテンションで話したら良いのか分からない。力のない間抜けな声が出た。
『洗濯物を干してました。どうしたんですか』
洗濯物を干しているということは、家にいるということ。ここまで来るのにそう時間はかからないだろう。よし……。
「言いづらいんだけどさ、お金貸してくれませんか……」
『いくらですか』
「500円」
『……え?』
ずっと平常運転だった水野の声が少し上ずった。
まぁそりゃそうだよな……。
「今駅から少し歩いたところのレストラン来てるんだけど、電子決済ができない店で……その……現金が今なくて……」
『一文無しでお店に入るなんてすごい度胸ですね』
「現金しか使えないの知らなかったんだって!」
店員さんの視線を感じたので、咄嗟に口元を手で隠した。
『ふふ、分かりました。500円持って向かうのでお店の名前教えてください』
お店の場所を教えると、水野はすぐに店にやって来て、500円玉を私の座るテーブルの上に置いた。
……助かった。見直したぞ水野。
「ありがとう。今度返すから」
会計を済ませて、お店を出たところで私は両手を合わせてごめんなさいのポーズをとった。
「別にこれくらいなら良いですよ」
清楚感漂う私服の水野は口角を僅かに上げた。
「いやいや、お金は返さないと! ここまで来てくれたし、それも含めて今度お返しするから! ほんとごめん!」
「ふふ」
水野は目を細めて小さく笑った。
「……な、何?」
「別にそんな必死に謝らなくてもって。私は頼ってくれて、嬉しかったですよ」
「……」
なんとも言えない気持ちになった。
私に頼られて嬉しいだなんて、本当にそんなこと思ってんのかな。
「はるちゃん。せっかくだし猫、見ていきますか? うちここから近いですから」
「あ……ええと……」
家に呼ばれている……。猫が気になってないといったら嘘になるが、家ってことは……つまり……。
いやいや、別に意識しているわけではない。プライベートな時間を天敵である水野と共にすることに少し抵抗があるのだ。
「予定があるなら無理にとは言いません」
「……じゃあちょっとだけ」
なに、ついでだ。ついで。
猫の元気な姿を見てすぐ帰ろう。そうしよう。
「分かりました。私の家、こっちです」
「あ、うん」
水野が歩き出したので、そのままついていくように華奢な背中を追った。
少し歩いたところで振り返った水野は透き通った視線をこちらに向けた。
「……警戒してますか」
心臓がドキッと高鳴った。
「は? なんで警戒すんのさ」
「私に何かされるんじゃないかって」
私の反応を見て楽しんでいるだけ。水野の悪い癖。
「……別に」
過剰に反応したら相手の思い通りになってしまう。無愛想に返事をした。
「はるちゃんかわいい」
「どこがだよ。年上にかわいいって言うな」
本当にこいつは……からかいやがって。ジーパンのポケットに手を突っ込んだ。
「別に取って食おうなんて思ってませんから。安心してください」
「もしそんなことしたら殺すから」
水野が私のことをどう思っていようが、関係ない話だ。考える必要のないこと。今はただの同僚でそれ以上でもそれ以下でもないのだから。
私はこれから猫を見に行くだけ。それだけ。
動く2つの影。
水野の家に着いたのはその数分後のことだった。
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