縮まる距離
人事評価
なんだか今日は落ち着かない。仕事に集中しているつもりでも、何かを揺らめかせる風のようにそわそわと身体が浮き足立っている。落ち着かない。それは私だけではないというのは執務室を見渡すと一目瞭然だった。普段通りのはずなのにどこか違う空気感。
エリートたるもの冷静に。心の乱れは業務の乱れに繋がる。たかがソレにびくびくしていると思われたくない。顔の表面に出ないようにグッと口元に力を入れてパソコンの画面と向き合った。
『いつもお世話になっております。ディープアプリケーションの京本です。早速のお返事、ありがとうございます。それでは――』
冒頭の文章は返事ボタンを押すと自動で打ち込まれるようになっている。それに続く文章を考えるところから私の業務は始まる。集中しろと自分に言い聞かせながらタイピングをしていると執務室内の雑音のレベルが上がったのを感じた。騒めき出す執務室。受信箱には新着メール1件。来たか……。
今打っている文章を放棄して、マウスで新着メールをクリックした。
『人事評価: 結果のお知らせ』
身体の中心部分がドクンと鼓動した。
唾も飲み込まないまま添付されているエクセルのファイルを開こうとするとパスワードを求められた。
ちっ……。
こういう大事な資料にはパスワードがかけられていて、別のメールで送られてくることが多い。焦らさないで欲しい。真顔のまま何度もカチカチとメールボックスの更新ボタンを連打する。
2分ほどしてようやくパスワードが送られてきたのですぐにコピペして鍵のかかったエクセルファイルを開いた。
『人事評価結果
京本春輝 クラス: チーフ
評価: A
あなたのクラスは本日付けで「リーダー」になります。年俸は下記の通りで――」
勝った……!
今回の人事評価でリーダーになることはほぼほぼ確定していたけれど、何があるか分からないのが人生だ。この目で結果を見るまでは油断できなかったが、これで一安心だ。まだうるさい心臓を鎮めようと静かに深呼吸を繰り返した。
無事リーダーに昇格。しかも評価はAでほぼ満点。年収も結構上がった。にやけそうになるのを必死で我慢した。
年収の変化を確認した後、下の方に更にスクロールする。
そこには評価者のコメントが並べられており、誰がコメントしたものなのかはマスキングされて隠されている。同僚たちからの生の声。人からの見え方を気にする私としてはここに書かれていることが全てだったりする。
……
『安心感がある。どんな業務においても、素早くキャッチアップして実行に移すので、仕事を安心して任せられる。また、同僚とも打ち解けるのが早い。不利な状況でもポジティブに捉えて働くことができている。常に高いパフォーマンスを発揮して、チームメイトを引っ張る姿勢で良い。今後はマネジメントにも携わって欲しい』
これはきっと大久保さんだな。
よく、京本さんには仕事を安心して任せられると口頭でも言われてきた。人事評価の前にも個別の依頼を頑張ってこなしたかいがあったものだ。
……
『いつも笑顔でチームのモチベーションを維持してくれている。少しミスしても笑って許してくれるし、優しい』
多分これは増田さんあたりかな。
チーフの場合、評価者は自分よりもクラスが上か同じ人たちだ。増田さんのミスは私が何度もカバーしてきたし、このくらいは書いて欲しかったよ。
……
『チーフとして申し分ないと思います。自身の役割が何なのかを明確にし、実行に移すまでのスピードが速いです。レスポンスが早いところも良いですね、信用できます。業務をほぼ時間内に終わらせますし、パフォーマンスも高く、良い意味で機械的な働きをしますが、残業してまで人のミスをカバーするなど人間らしい根の性格の良さもあり、人から好かれることにも秀でているように思います。ただ、人にどう見られているのかを気にしすぎているところもありますね。人に頼ろうとせずに全て自分で解決しようとするので、工数に余裕がない時は本気で笑えていない時があります。笑顔を心掛けるのは良いですがそれで自傷しないでください。疲れや焦りが出た時はタイピングの音が少し大きくなるのですぐに分かります。そういう時はコーヒーを飲む時にとても苦そうな顔になってて心配になります。本当に困った時に頼れる人はいますか?』
一際長いコメント。
これ…………絶対水野だろ。最後のはコメントというよりは質問じゃねーか。
人に見られないからって好き放題書きやがってあの野郎。
本当によく私のこと見てるよな……。
「あーーー。終わった」
斜め前から大きな声が聞こえた。自然と視線がパソコンから離れて声のする方を見た。
そこには椅子にふんぞり返った増田さんがいた。
「……」
増田さんの表情は人事評価の結果を物語っていた。
「聞かないんすか? 評価どうでしたって」
「……」
目を合わせてしまったが最後、増田さんは私の方を見ながらそんなことを尋ねてきた。やめろよ……頼むから私に地雷を踏ませないで欲しい。
「評価出たんですね。どうだったんですか」
水野は増田さんに問いかけた。
今回、水野は入社したばかりだったので評価者としては機能したが、評価される側としては対象外だ。
まぁ何はともあれ私の代わりに聞いてくれたので助かった。あれ、これ、私を助けるためとかじゃないよな……?
「アソシエイトに落ちました」
「そうですか、残念でしたね」
水野は感情のこもっていない声で言った。
いつも無表情で淡々としているとはいえ、ちょっとこれは増田さんかわいそう。
「……きっと増田さんなら巻き返せますよ! 大丈夫です」
フォローするように少し声を高めにして言った。
「いやー普通に考えて不利ですよね。人事は人事の中でしか評価されない、つまり優秀な人の中で順位付けされるんだからそりゃ落ちますよ。はぁ……最悪。コンサルの頃に戻りてーな」
増田さんは人事になる前、コンサルだったっけ。人事は色んな部署からできる人が寄せ集まっているから、バックグラウンドは様々だ。私も元営業だったし。
「増田さんが人事部からいなくなっちゃうのは寂しいですね」
実力社会。私にできることはこうして労いの言葉をかけるくらいだろう。
こうやってショックなことがあっても人に言えるのは、少しでも自分の傷を癒すためだと思う。誰かに聞いてもらうことで心の負荷を減らそうとしているから。増田さんのように私も自分の弱みを吐き出せるようになったら少しは楽になれるのかな。
「あはは、ありがとうございます。まぁこんなネガティブなことばっかり言ってるから落とされるんでしょうねー……ちょっと一服してきますわ」
増田さんは席を立って喫煙所の方に向かって行った。喫煙者はイライラしたりするとこうして気晴らしができて良いな、と思う。タバコを普段吸わない私は仕事中に何かを発散する時は喫煙所の代わりにある場所に向かう。
席を立って執務室を出た。
増田さんは気の毒だったが、対照的に私はリーダーに上がった。近くの同僚たちに自分の昇格を告げても良かったかもしれないが、増田さんのように降格した人がいる前でそれをするのは気が引けた。とりあえず今は自分の中で喜びを爆発させたい。私、お疲れって言いたい。
入ったのはガラガラの女子トイレ。
ただでさえ女子が少ない会社だし、同じフロアにトイレは3つもある。人事部に近いここのトイレは特に利用者が少ないので穴場だ。
「っしゃ!!」
個室に入って腹から声を出してガッツポーズを決めた。
よし、スッキリした。これでまた一歩進んだ。仕事は楽しくないけれど、それが評価されて目に見える形で返ってきた時の喜びは何にも変えがたいものがある。自分の頑張りは無駄ではなかったと思えるから。特に報告できる人が誰もいない中で一人でこの喜びを噛みしめる。
両手で頬を押さえて満面の笑みをこぼした。今日はいつもみたいにビールじゃなくて、ちょっと良いお酒でも買って帰ろうか。
トイレの鍵を開けて個室の外に出ると川添さんが手洗い場のところに立って身なりを整えていた。
「京本さん……?」
鏡越しに見える私に気がついて、川添さんは振り返った。
「川添さんっ……!」
ちょっと待って、なんでいるの。いつから?
さっきの私の雄叫び、聞かれた……よね? え、無理。無理。
「風邪ですか? すごいくしゃみしてましたけど……」
川添さんは本当に心配そうな表情でこちらを見た。
くしゃみという切替しに笑いそうになってしまったが堪えた。そうだよね、京本さんはあんな雄叫びあげたりなんてしないから。
幸いにも生理現象と勘違いしてくれたので、そういうことにしておこうと思う。
「そうなんですよ。最近風邪っぽくて。でももう治りかけで大丈夫ですから。ありがとうございます」
「お大事になさってくださいね。あ、そういえば京本さんが席を立った直後に大久保さんが来て……探していましたよ」
「私をですか?」
「はい。急ぎではないみたいでしたけど……」
「分かりました、行ってみます」
いつも用件はチャットで済ませることが多い大久保さんだけれど、何の用だろう。
業務連絡なことは確かだけれど。
トイレから出た私は執務室を目指した。
「あの、川添さんから聞いたんですけど私に何か……?」
「あぁ、京本さん。ちょっとあっちの椅子に座れる? 話したいことがあって」
「はい」
大久保さんは少し離れたところにある壁に面したテーブルと椅子を指さした。社員たちが息抜きによく利用している場所だ。
椅子に腰かけると、大久保さんは笑顔で言った。
「まずは昇格おめでとう」
マネージャーは人事評価が出る前に皆の結果を知らされるからな。
私の結果も当然のごとく知った上での言葉だ。
「ありがとうございます」
「東京本社の人事部でクラスが上がったのは京本さんだけだよ。さすがだね」
「そうなんですか? 大変嬉しいです」
やっぱり仕事ができる人に褒められると嬉しいな。
さっきしっかり喜びをくしゃみにのせたので、今は余裕がある。私はわずかに口角を上げて大人の笑みを作った。
「で、本題なんだけど……今朝、横内さんから相談があって。来週の夏季インターンシップの呼び込みイベントに行ってきてくれないかな。人手不足らしいんだ」
横内さんは新卒採用の声の大きいおじさんマネージャー。
そして夏季インターンシップというワード。身近なようで今は遠い言葉だ。
私が新卒採用担当の時はこういうイベントの勧誘の時は、道行く学生にひたすら声をかけて呼び止めていたな。
「新卒向けのイベントですよね、確か関西の方でやるんじゃ……?」
「そうそう、関西支社の社員が数人感染症にかかって参加が難しくなったとかで、代理で参加できる人を東京本社から何人か出して欲しいって要望があったらしい。京本さんは新卒採用の経験もあるしどうかなと思って」
「なるほど。……来週ですか」
急な話だな。
スマホからスケジュールをチェックした。おおよそ一週間後までの予定はたてているが、締め切りがあるタスクを背負っているわけではないしな……。1日くらいなら大丈夫か。
「見たところまだ面接の予定入ってなかったみたいだし、こっちで巻き取れる仕事は巻き取るから。火曜と水曜。いける?」
「あれ、2日間なんですか?」
「そうだよ。東京組にはホテルを手配する予定」
「……」
泊まりか。
荷造りがめんどいのが正直なところだが、大久保さんがわざわざ私に声をかけてくれたんだ。期待に応えなくてはいけないな……。あんまりこういうイベントは好きじゃないけれど、相手が社会人ではなく学生だと思うと少し気が楽だったりする。
「水野さんも行ってくれるって」
「え」
私に期待して声をかけてくれたと思ったのに水野に先手を取られていただと……。その場で固まった。
「ん、1人より心強くない? こうやって言えば行く気になってくれると思ったんだけどな」
「あ、いや……水野さんも行くんだと思ってビックリして。も、もちろん行きますよ」
水野に先に声をかけたのは、私がトイレに行っていたからだ。
そうに違いない。悔しさが溢れる。
昨日まで私はチーフだったが今日からはリーダーだ。それは明日にもチーム全体に知らされること。もうあいつは上司なんかじゃない。今度こそ水野を負かしてやりたい……。
「行ってくれるかぁ、良かった。じゃあうちからは2人かな。水野さんも新卒採用の経験があるから良い機会だよ、横内さんも喜んでくれると思う。若手リーダー2人がいないのは少しこっちも痛手だけど、俺が何とかしとくから」
大久保さんは少し疲れたような表情で笑った。
「ありがとうございます、大久保さんは頼りになりますね」
「京本さんも頼りになるよ」
「そんな……」
評価コメントでも書いてくれてたしな。
だがこの場はあくまで謙遜。
「あと……この場を借りて京本さんには話しておきたいことがあるんだ」
視線がまっすぐにこちらを向いた。
身体に少し力が入った。
「はい、なんでしょう」
大久保さんは溜息を一つつくと口を開いた。
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