好きと無関心
「あれから大丈夫だった?」
「はい、なんとか……。若干思い出すと辛い時あるけど、少し落ち着いてきました」
カウンター越し。ミヤちゃんはため息混じりに言った。
「そっか……。まぁ、こういうのは時間が解決してくれるだろうから」
いつもの味のジントニック喉に流し込んだ。
じわじわと体内で広がるアルコールの熱を感じながら、物思いにふけることは好きだ。ふいにやってきた思考の波に身を委ねた。
「人間は、どんなことにもすぐに慣れる生き物である」
ある偉人はこのような名言を残した。
どんなに嬉しいことや幸せだと感じることが起こっても、それが日々繰り返されるようになると、人はそれを「当たり前」だと思うようになってしまう。平和に過ごす日常がいかに幸せなことであるのかも忘れて。……その逆も然りだ。
辛いことや痛みのある環境にずっと身を置いていると、次第にそれに慣れて痛覚が麻痺してくる。
これらは適応能力と防衛反応に基づくものであるが、似たような機能で「忘れる」というものがあるように思う。
楽しかった記憶や喜びの感情、感覚も過去の記憶として徐々に薄れていき、「楽しかった日々」という表面上の言葉でしか残らないのはある意味残酷なことのような気もするが、今のように物事がうまくいかずに辛く、しんどい気持ちを少しずつかき消してくれる良い側面もある。
時が解決してくれる、なんてよく聞くけれど人間の適応能力、防衛能力を汲み取った本質をついているよくできた言葉だなと思う。
「寂しすぎたんで今アプリ入れて良い人探してるんですよ〜」
ミヤちゃんはスマホの画面をちらっとこちらに向けた。
「そうなんだ。最近はアプリで出会う人増えてるみたいだし、良い人見つかると良いね」
IT企業勤務としては世の中のトレンドやテックニュースなどにはアンテナを伸ばしているつもりだ。
スマホのアプリが市場を拡大させている中で、マッチングアプリも近年日本での利用者が増加中。アメリカでは結婚したカップルの3分の1以上はネットで知り合っているなんてデータもある。
今の日本ではネットで知り合って交際し、結婚までいきつくまでの確率は10%前後だが、今後もっと上がっていくんだろうと予測はつく。
私も大久保さんで懲りて、マッチングアプリに手を出そうか一瞬考えたけれどダウンロードはしなかった。
付き合ったその先には結婚がある。もう27歳だが、ぶっちゃけ私は結婚願望があるわけではない。キャリアを極めているので経済的な不自由はないだろうし、このまま1人で生きていった方が楽そうだ。
しかし、世間体を無視できない自分もいる。結婚できないことがマイナスに作用することを恐れているのだ。データ的にはここ数年で未婚率は上がっているし、女性の晩婚化も進んでいる。DAPの同い年の社員も結婚してる人なんて10%にも満たないし、結婚していることが普通な時代ではもうないと思う。分かってる。
ただ、「結婚をできる人」は特定のパートナーと長く添い遂げられるくらい人格的に優れていて、周りに与える印象としてはプラスの方に伸びることも否めない。そう考えるとやはりパートナーは今のうちに……。
またか。
私は周りからどう見られるかしか考えていない。地位と名誉、結局ここに行き着くんだ。呆れた。
「春輝さんは上司となんか進展ありました?」
「それが……。恋愛相談されて、好きな人がいるって言われた。蓋を開けたら最近入社してきた高校の後輩だった。水野っていうんだけどさ」
振られたと人に言うのは、愉快なことではない。こんなこと、DAPの他の社員には言えたもんじゃないが、マスターとミヤちゃんにならさらけ出せる。
愚痴は良い酒のつまみだ。
「え!? ……前、好きだった人をその人に取られちゃったんですよね? もしかしてまた……」
ミヤちゃんは目を少し大きめに開いてその場で固まった。
「今あいつ恋人いるみたいだし、今回は取られるってことはないと思うけど……。上司のことはもう諦めたよ、何かもうどうでも良くなっちゃった」
「そっか……春輝さんも……。もうここで付き合っちゃいます?」
ミヤちゃんの人差し指が、私たちの間を行き来した。
ははっと笑いを漏らして残りのジントニックを飲み干した。
ミヤちゃんは私が失恋したと思って、こういう冗談を言っているんだろうが、実際のところ水野の言う通り、恋愛感情ではなかったんじゃないかと思う。
大久保さんに抱いていた気持ちが恋愛感情ではないと水野に指摘されてから、自分の利己主義な部分が浮き彫りになり、果たして自分は誰かと付き合う資格があるのかと考えるようになった。
マッチングアプリをダウンロードしなかったのは、それも理由の1つ。私は恋愛をしたいんじゃない、相手を利用して自分を高めたいだけなんだと思ったから。そんな気持ちでアプリをしても相手に失礼だし、申し訳ないと思う。自分のために高みを目指すのは大事なことだが、人を巻き込むのは話が違う気がしてきて……。
いいじゃん、そんなの関係ないからダウンロードしちゃえよ、という悪魔の囁きに抗いながら心の中での問いかけを繰り返しているうちに、恋心だと思っていたもの――大久保さんへの気持ちが自分の中でほとんど消えかけているということに気がついた。
長くは続かなかったけれど、今まで人並みに誰かと付き合ってきたと思う。でも、どれも私が惹かれていたのはその人たちの地位や権力だった。
人を好きになること、愛することって何なんだろうか。まさかこの年でこんなことに悩む日が来るなんて思っていなかった。
「好きってなんなんだろ」
心の声が漏れる。
グラスを傾けて氷の音を静かに響かせた。
「おかわりいります?」
「お願いして良いかな」
ミヤちゃんは私のグラスを下げると、マスターにオーダーを通した。
お店のBGMと他のお客さんの話し声に耳を澄ましながら、体内を循環するアルコールの心地よさを感じていると、ミヤちゃんがやってきて出来立てのジントニックが目の前に置かれた。
「その人のことでいつも頭がいっぱいになって会うとドキドキして、緊張してどうしようもなく嬉しくて……。ちょっとのことなのに何でも気になってすぐ落ち込んだりして自分がバカになった気分になるというか……そういう感じじゃないですか、好きって」
先程の私の呟いた言葉にミヤちゃんは返事をくれた。
なるほど。私がミヤちゃんの回答を聞いて抱いた印象は、「忙しいな」だ。
付き合いたいと思う人が自分に好意を向けてくれた瞬間は、胸がハラハラするしどうしようもなく嬉しくなるけれど……。1人の人間に対してそこまで感情が揺さぶられたことはないかもしれない。自分がバカになった気分というのがそもそも理解できない。バカじゃないし、私。うん。
私の信じていた恋愛感情はミヤちゃんの言っているソレとは違うものだというのは分かる。
「ミヤちゃんは私より、好きを知ってそうだね」
27歳、今年21歳になる子に完敗。
「え、いや……うちより長く生きてるんだし春輝さんの方が分かってそうじゃないですか」
「最近になって分かんなくなっちゃった。私人間じゃないのかも」
大口を開けて酒を流し込んで、カウンターに突っ伏した。
人間が当たり前に持つ感情を自分は持ったことがないかもしれない。私は人として不良品なのかな。
恋愛なんてしないで、このままキャリアを貫けということなのだろうか。やるせない気分になる。
「人それぞれ好きには形があるからね、そんな気に病むことはないんじゃない」
私たちの会話を聞いていたマスターはグラスを拭きながらボソッと呟いた。
「マスターが思う好きって何ですか?」
突っかかるようにして話を振った。酒飲みのダル絡みだ。我ながら少し酔っているかもしれない。
「好きって定義づけられるものでもないと思うし、俺も正直分かんないな。でも、好きの反対は無関心って言うよね。相手に関心があれば好きってことじゃない?」
「無関心……か」
『他の人と同じ、無関心よりも嫌われる方が良いなって。だって私のことをそれくらい意識してくれているってことじゃないですか』
水野の声が聞こえてきた。
好きの反対は無関心。それは分かる。
でも、嫌われるとなると話は違う気がする。だって普通、好きな人には好かれたいと思うものだろ。
「ミヤちゃんは無関心より嫌われる方がマシって思える?」
「え……嫌われるのは、嫌かも」
うん、そうだよね。これが正であるべきだ。
「だよね、やっぱあいつって変な奴……」
「まぁでも、長期的なスパンで考えると少なくとも相手の視界には入ってるわけだから巻き返せる可能性が出てくるでしょ。俺は心の繋がりがあるだけまだマシって思うから嫌われた方が良いかな」
「繋がりですか……」
マスターは水野寄りな考えらしい。
無関心と嫌いの差は、心の繋がりがあるのかないのか。だとしたら、当時水野も私との繋がりを求めていたということだろうか……。
でもどうして。普通の部活の先輩後輩の仲じゃダメだったんだろうか。
マスターは他の客に呼ばれてオーダーを取りに行った。ミヤちゃんも接客中だったので私は携帯を取り出し、水野とのトークページを開いてグレーの猫の写真を眺めた。
結局あいつは写真を1枚送ってきただけで、他のメッセージを送ってきているわけではない。
高校の時は違った。連絡手段はメールアドレスを使ったやり取りだったけれど、必要以上に神田からメッセージを受信していたし、絡み方がなんかウザかった。あえて嫌われに来てたんだと思う。
今はお互い大人になったというのもあるけれど、あの時に比べて水野はだいぶ落ち着いた印象だ。本人も昔話だって言ってたし、今は私にそんな感情はないにしても……あれ、一回ランチした時に嫌いか聞かれて、嫌いだと言ったら嬉しそうにしてたよな……?
「春輝さん、さっき言ってたあいつって誰ですか?」
戻ってきたミヤちゃんがカウンター越しからひょこっと顔を出した。
「あぁ、水野のこと……。私に皆と同じ目で見られるなら、嫌われた方が良いって言ってたから」
「え……それ本人に言われたんですか?」
ミヤちゃんはドン引きしたような表情になった。
「う、うん……」
「その水野さんってもしかしてビアン……?」
「……ビアン?」
「レズビアンのことです」
そんな略し方があったとは知らなかった。今の若い子はやっぱりそういうのに対して理解が深いんだな。覚えておこう。
「あぁ。違うと思うんだけどな……」
会社でLGBT研修というものをこの前受けた。
LBGTの人の割合は13人に1人とも言われている。この数字を見た時に驚いた。体感として、そんないるんだという印象を受けた。公表しないで生きている人が多い証拠だ。
ダイバーシティという面でよりマイノリティの人が心地よく働けるような環境を作っていこうという弊社の取り組みの一環で、最近は男子トイレ、女子トイレの他に多目的トイレを増設したりなどもしている。
研修を通じて理解は深めたつもりだけれど、水野が当事者というのは考えづらいな。
思春期特有の感情はあるだろうし、本人も言う通りこれは過去の話。今は水野には恋人がいるんだ。
「話だけ聞いてると本当やばい人って感じで春輝さんが心配です……」
うん、水野がやばいっていうのは知ってる。
相変わらず振り回されてるけど、本人に悪意はないみたいだし今のところ大丈夫。
「頭おかしいけど、今のところは大丈夫。ありがとね」
――――――――――――
だいぶお酒が回ってきた。今夜も朝までコースだろう。
酔いで視界がぼんやりする。
マスターのタバコの煙りをぼうっと目で追っていた。
「マスター、タバコもらって良いですか」
「いいよ。珍しいね」
差し出されたタバコを取って口に咥えると、マスターはライターで火をつけてくれた。
「ゴホッゴホッ……」
肺が拒絶してむせる。
「大丈夫?」
「はい……すいません」
20歳になった瞬間、私が初めて買ったのはお酒とタバコ。禁止されると、それに抗いたくなる。その心理からだった。
私にとってお酒は美味しくてもタバコはまずかった。でも何度もコンビニで買っては、タバコのケースが部屋にどんどん山積みになっていった。
ストレスを感じた時、真面目に生きるのがバカらしくなった時は、そのタバコの山から一本取り出し、火をつけてむせていた。
人差し指と中指に挟まれた白く細長い棒。
その棒の吸い口の部分にロゴが入っていた――母親が吸っていたものと同じだった。
母親の残像が脳裏によぎった。私は過去の記憶を遡った。
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