相談
あのなんとも言えない微妙な水野との1on1の後、何事もなかったかのように日常は過ぎていった。あの謝罪は本意だったのか、他の人間がいないような場所でも水野が「神田」になることはなかった。だから私も「はるちゃん」になることはなかった。
『大久保さんと付き合えてもはるちゃんは救われない』
どこか匂わせるような水野の意味深な言葉が頭にまとわりついていたが日に日に近づいて来る大きな楽しみによって、絵具に白が足されていくようにそれは薄れていた。
「お疲れ様です」
ビジネスバッグを持った大久保さんが執務室を出て行った。
「大久保さん今日早いっすね、珍しい」
斜め前に座っている増田さんが隣の水野に話しかけていた。
「そうですね。金曜日ですから飲み会でもあるんじゃないですか」
「いいなぁ。僕も飲み会を口実に早く上がりたいっすよ。でも終わんないし」
「そうですね、私も今日はもう少しかかりそうです」
水野は平然とパソコンの画面を見ながら作業をしている。増田さんは部署の中ではあまり仕事が早い方ではないので帰りが遅くなることが多い。この前の飲み会も遅刻してきたし。
時刻は19:30頃。川添さんは定時退社で30分前に帰った。この時間にオフィスを出るというだけで早いと言われてしまうのだからマネージャーは大変だなと思う。私も新人の頃は終電帰りなんてザラだったが、最近は仕事にも慣れてようやく落ち着いてきたところだ。
この先もリーダー、マネージャーと職位を上げていきたいと思っているけれど、マネージャーになると途端に給料も大幅に増える代わりに責任の大きくのしかかる仕事を任されることになる。その分、仕事にかかる工数も増えて日々の労働時間が必然的に長くなるだろう。だから私もマネージャーになる頃は覚悟を決めなければならないと思う。
「私もそろそろ上がります」
作業を終えた私は5分後に席を立った。
「「お疲れ様です」」
水野と増田さん達に背を向けて執務室を後にする。
この日は絶対に仕事をこの時間内に終わらすと決めていたのだ。私の口元は緩んでいた。
オフィスを出て、社用SNSのチャットに書かれていた住所に向けて足を動かした。
都会の金曜日の夜、街は街灯でこれでもかというくらいギラギラと光っていた。一段と大きく光る街灯の下にスーツの似合う男――大久保さんがポケットに手を入れて立っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
ついにこの時が来た。仕事後の1on1の幕開けである。
皆には秘密なので、時間差でオフィスを出て現地集合という流れだった。少しドキドキする。
今日はもう既に大久保さんと顔は合わせているのだけれど、オフィス以外のこういう場で会うと今日初めて会ったような感覚になって変に緊張してしまう。
大久保さんはニコっと笑うとエスコートするようにして私を店の入り口に通した。
地下へと続く階段を降りた。お店の中は暗く、耳に心地良いジャズが流れていた。
金曜夜ということもあり客数は少なくはなかったが、話し声は遠く、全体的に静かで上品な印象を受ける。大久保さんが選んだお店として、なんら違和感のないおしゃれなバーだった。
「こちらのお店にはよく来られるんですか?」
店員さんに案内されたテーブル席に腰掛けて店内を見渡した。
男性はジャケット、女性も綺麗に身なりを整えた客が多く、一人でカウンターで飲んでいる客もいたがカップルが大半だった。
「仕事帰りにたまにね。何飲む? 好きなものを頼んで」
メニューを渡されたが、あんまりこういう感じの王道なバーに来たことがないから何を頼めば良いのか分からない。ビールとかだと味気ないだろうし。とりあえずはいつもの……
「じゃあ……ジントニックを」
「オーケー」
「ご注文はお決まりでしょうか」
黒ベストを着た店員さんが席までやって来た。
「ジントニックとマティーニを。あとはチョコレートとナッツをお願いします」
「かしこまりました」
大久保さんは気を利かせてくれたのか、おつまみも一緒に注文してくれた。
なんとなくそわそわとしてしまい、話を繋ぐために話題を探す。
「マティーニって強いお酒ですよね」
「あぁ、映画って知ったんだけどハマってしまっちゃって。今日は強いお酒を飲みたい気分なんだ。ちょっと緊張してるのかもしれない」
「私も少し緊張……してるかもしれません。こういう雰囲気のお店はなかなか来ないので」
お店のせいにしてまったけれど、この緊張には他の理由がある。大久保さんが緊張している理由が私と同じでありますようにと願いながら、水を口に含んだ。
大久保さんは、ははっと笑うと私に倣って水を飲んだ。
「……実は1人で飲むことが多くて、誰かを連れてここに来るのは初めてなんだ」
「そうなんですか」
「うん、仕事帰りにこうして1人で来ることが多い。なんだか新鮮な気分だよ」
お気に入りの場所に連れてきてくれるなんて嬉しい。腹の内側から熱いものがこみ上げてくる。大久保さんの思わせぶりな挙動に、久しぶりに自分の中の乙女的な部分を感じたかもしれない。
好きな人をお気に入りの場所に連れていくってどういう感覚だろうか――私はシャドーで大久保さんと一緒に飲む場面を想像した。……なんか違う気がするな。やはりこういうところでマティーニを飲む大久保さんが一番フィットする。
「最初が私なんかでごめんなさい」
着飾っている今の私の居場所としてはシャドーよりもこの場所が妥当かもしれない。でも、素の自分にフィットする場所はここではなくシャドーであるということは間違いなく言える。
大久保さんがここに初めて連れてきた人が私であることは大変嬉しいことだけれど、どこか罪悪感が湧き出てしまった。
「いやいや、俺が誘ったんだし」
大久保さんは少し照れた様な顔をして顎を触った。
「こんな素敵なお店に最初が私なんて思うと……大久保さんならたくさんお相手いるでしょうし……」
「はは。まだまだ遊べる年だとは思ってるんだけどね。気がつけば仕事ばっかりで気軽に誘える人なんていないよ」
「その気持ちは分かります……」
人生は取捨選択だと思う。
何を取るかで大きく変わっている。私はキャリアを1つ取った。だから友達も恋人も失った。もうやることがそれしか今はない状況の中で、自分の信じた道が正しいのだと己に言い聞かせてきた。
そして大久保さんも私と同じようにキャリアを選んだんだ。だからこそ、分かり合えるものがあると思っている。
「京本さんには俺に似たものを以前から感じてた」
「確かに、私たちは似てるかもしれませんね」
「でも――」
大久保さんがそう言ったタイミングで注文したお酒とおつまみが席に運ばれてきた。
私の目の前のコースターの上にジントニックが置かれた。
「……でも?」
「先に乾杯しようか」
「はい」
乾杯によって遮られた会話。
でも、に続く言葉はポジティブなものではないというのは何となく分かる。不安と期待の混じった気持ちで私はタンブラー型のグラスを、大久保さんはオリーブの入ったカクテルグラスを持ち上げた。
「お疲れ様、乾杯」
「乾杯です」
軽くグラスを合わせてジントニックを少量飲んだ。
渋みが喉を突き刺した。バーによって味が違うのって本当なんだ。シャドーの方が好きかもしれない……。
大久保さんはグイっとマティーニを喉に流し込むと、口を開いた。
「20代の頃は仕事、仕事だったけど最近は少し落ち着きたいと思い始めた。だからここを離れるのも選択肢の1つかなって思ってる」
「え、転職されるんですか?」
驚いて頭が真っ白になった。まさかすぎる展開だった。この先、大久保さんとはもう仕事ができないってこと?
優秀な人材を失う人事としての悲しみと、個人的な悲しみが交じり合って胃を重くした。
「視野に入れてる。実は今、知り合いの会社に誘われてて、給料はグッと下がるけど私服で気楽だしプライベートに割ける時間も増えそうで、それもそれでアリかなって」
大久保さんはカクテルの中のオリーブをぼんやりと眺めていた。未来を見据えるような、そんな不確かながらも意思のある目だった。
相談したいことってそういうことだったんだ。オフレコってそういう意味か、納得。
「本当ですか」
「少し驚かせてしまったかな。まぁまだ検討中の段階だよ」
「……ご自身の選択なら仕方ないとは思いますが少し寂しいですね」
引き留めたいところだけれど、最終的に決めるのは本人だから。残念ではあるけれど仕方がない。
「でもここを去るにはまだ思い残したことがあってね。それを京本さんに相談したいと思って誘った」
「思い残したこと、ですか……」
相談したいことって転職のことではなかったってこと? とすると……淡い期待が胸を走った。
大久保さんはカクテルグラスの中のオリーブを口に入れた後に、またマティーニをゴクッと飲んだ。グラスに残る液体はあと僅か。これは酔おうとしている飲み方だ。
私は大久保さんが何を言うのかを静かに待った。
「京本さんは一目惚れってしたことある?」
「一目惚れ……?」
「そう」
恋話か。
この流れは期待していたけれど、一目惚れという言葉に若干の違和感を覚えた。
「うーん……。かっこいいなって思うことはありますけど……」
「うまく言えないんだけど……目が離せなくなるというか、グッと心を掴まれて、その人のことを何も知らないのにずっと頭の中で考えてしまうような経験」
「そう考えると、ないかもしれません」
容姿の良い人やタイプな顔の人を見たって綺麗な虹を見ているような感覚だし、そこまで心を揺さぶられたことはない。私はその人のこと――性格、趣味、地位、周りにいる人間など様々なことを知った上で人を好きになってきた。
私はきっと顔だけでは人のことを好きにはならない。
「俺も一目惚れなんてないと思ってた」
「思ってた……ってことは大久保さんはあるんですか?」
「あぁ。つい最近ね」
「最近、ですか」
最近、という言葉でその一目惚れの相手が自分でないと分かったので息が詰まった。
なんだったんだよ今までのフリは……思わせぶりもほどほどにして欲しい。もう無理、帰りたい。
「京本さん、知ってたらで良いんだけど教えて欲しい。水野さんには恋人いる?」
「一目惚れってまさか……」
「あぁ。面接で初めて見た時から、惹かれてる」
終わった。
「……恋人の有無は分かりません、すいません」
吐き気のようなものがこみ上げてくるのを感じた。
まただ……また……あいつに……。
「多分ここを辞めたら水野さんと接点は取れなくなると思う。でも俺の中の初めての一目惚れを無駄にしたくないというか……このままじゃ悔いが残りそうだからできる限りのことはしたいんだ」
「私にできることはありますか?」
聞きたくもない大久保さんの思いが耳に入ってくる中でちゃんと脳内処理を済ませた私は、呼吸が苦しいのを我慢しながら精一杯の言葉を放った。
それはきっと、ここでネガティブなことや粗末なことを言うと6月の人事評価が下がってしまうから。こんな絶望的な状況の時まで評価のことを考えている自分って何なんだろう。
もう早く帰りたい。
「恋人がいるか聞いて欲しい。できたら俺のことどう思ってるかも」
「はい……分かりました」
「京本さんがいてくれて本当に良かった」
大久保さんのグラスの中は空だった。
本来だったら嬉しいと思える言葉だが今の私には何も効果のない言葉だ。大久保さんが私を飲みに誘ったのは仕事である程度信頼関係を築けてきていたからというのももちろんあるけれど、私と水野が表面上は良好な関係だからという理由が一番大きいだろう。思い返せば、誘ってきたタイミングも水野の話をした直後だったじゃないか。
この時、表情ではいつも通りを演じていたけれど、心の中の私は息を切らしながら地面を這いつくばっていた。
これ以上ないくらいのストレスが全身を支配していた。
「ご馳走してくださっているんだからこれくらいのことはしないとです」
「好きなだけ飲んで良いよ。お酒進んでないみたいだけど」
「……お酒はあまり得意ではありませんから」
これ飲んだから帰ろう。
私はそう決めて美味しくないジントニックを無心で飲んだ。
――その日の夜。
「こんな縁起でもないもの……」
まだ中身のたくさん入っているパックの袋ををゴミ箱に投げ入れた。
ドサっと乾いた音が、心の外側をかすめただけだった。
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