あんたのせいで私のエリートが台無しなんだが
あれから私の仕事に対するモチベーションは急降下した。まず集中できない。思い出してしまう。
こういう時こそ何か作業をして気を紛らわせるようなもの――業務は良いツールかと思ったがそうでもなかったようだ。苦患のトリガーが同じ職場、同じ空間にいるのだから。
姿を目にする度、「大久保」という名前をPC上で目にするだけで心臓をナイフで貫かれたような感覚に襲われてしまう。そしてそれと同時に水野の顔が脳内を過るのだ。大久保さんを見ても、水野を見てもダメージを受ける。毒のようにHPがジワジワと削られていき、まるで回復の兆しが見えない。
今回は水野のせいではない。それは分かってる。でも、水野に対する不満がこれまで以上にどんどん膨れ上がることを私は止めることができなかった。
きっかけは全てあいつがDAPの面接を受けてしまったから。あの時、あの場所で、あの一瞬で……長く想い続けて積み上げていった信頼関係のツミキも、その時を迎えたことでツミキのピースが1つ引き抜かれて全てが崩れ落ちてしまった。
水野さえいなければ、私はこんな思いにならずに済んだのに。水野さえいなければ……。
八つ当たりをするのはガキのすることだ。人の好き嫌いはあれど、多少の我慢が必要なのが社会人というもの。露骨な態度は厳禁だというのは百も承知だが、水野が近くにいると胸焼けがしてどうしてもその場を離れたくなってしまう。自分が惨めだ。水野を始めとして、誰かと目を合わせることも嫌でオフィス内の移動も下の方を向いて歩くことが多くなった。
そしてこの心理状況で、水野に恋人がいるかどうか、大久保さんのことをどう思っているのか聞かなければいけないという任務も残っている。本当はこんな頼み、投げ出してしまいたいが評価のためだ。まだ私はリーダーを諦めるわけには……。もうあれから一週間ちょっとが経ったけれどまだ私の心は沈んだままだ。この任務には期限が切られているわけではないのが唯一の救い。メンタルが回復するまではもう少し時間が必要だろう。
残業。
集中力が切れてしまうので、当然のことながらタスクが終わらない。本当に落ち込んだ時はサンドバッグを殴る気さえもおきない。
この無気力は業務にも反映される。
只今絶賛書類選考を実施中。
候補者の添付してきた職務経歴書をマウスでクリックして開いた。また未経験で応募かよ、クソ……。エンジニアで募集をかけてるのに何故かエンジニア歴0のデザイナーが応募してきやがる。バカか? 日本語読めるようになってから応募してこいや。
吸収力のあるポテンシャルの高い若手ならまだ目を瞑ることはあるが、今回の候補者は30歳。30歳で未経験? 笑わせんな。
考えてみて欲しい。某RPGゲームでは剣士から僧侶といった具合で転職できるシステムがあるが、転職した場合新しい職業はレベル0から始まる。それはここでも同じ。中途は新卒と違ってある程度のレベルの即戦力を求めている。
高級料理店でど素人が作ったものを高い金を払って食べる理由があるか? ないだろ。よってレベル0を採る理由はない。はい、不採用。人を1人雇うのにいくらコストがかかると思っているんだ。そんなことも想像できない奴が応募してくるんじゃねーよ。
あと、転職エージェントも未経験者を推薦してくるな。数打ちゃ当たると思って未経験者をこぞって紹介してくるエージェントがいっぱいいるからな。困った奴らだ。心の中で暴言を吐きまくりながらお見送りメールを作成した。
時計を見ると21時だった。この時間にメールしたらブラック企業だと思われるから不採用通知は明日の午前中に送ろう。
溜息をつきながらToDoリストに文字を打ち込んだ。
「京本さん、体調悪い? 大丈夫ですか?」
隣を見ると、川添さんが座っている席に寺内さんが座っていた。
またか……。私の様子がここ最近おかしいので何人もの人に体調が悪いのかと聞かれた。痛めているのは身体じゃなくメンタルの方だが、聞かれるたびに私は体調のせいにした。その方が少し楽になれる。いつもの私でいなきゃいけないという縛りから解放される。
自分が惨めなのは変わりないが、これは時が解決してくれる問題だろうから一時的な手綱だ。
「すいません、少し頭痛が……」
頭を押さえながら無理やり笑顔を作って笑ってみせた。
「あんま無理しないでください。5月病なのか最近体調崩してる社員さん多いですから。今日は早く帰った方が良いんじゃないですか?」
寺内さんは眉頭を持ち上げてこちらを見た。
「お気遣いありがとうございます。でもやらないといけないことが残っているので……」
仕事へのモチベーションは下がっているけれど、それは私の個人的な理由であって責任を放棄するわけにはいかない。帰ることができるのはやることを終わらせた社員だけだ。
「ここで無理して明日以降休んだりしたら、その分工数持ってかれちゃうじゃないですか。全体に迷惑がかかっちゃいますよ」
私の体調の心配よりも工数の心配かよ……。寺内……悪気はないだろうが私のことが好きならもっと上手い声の掛け方あるだろうが。
「……そうですね、でもあと少しですから。寺内さんはお仕事終わったんですか?」
「それがまだ……。スカウトメールの返信率が悪くて文面作り直してたらこんな時間です。今の学生には何が刺さるんですかねー」
寺内さんは困り顔で笑いながら手を頭の後ろで組んで背もたれに体重を預けた。
「昔と違って今の学生には会社の選択肢がいくつもありますからね。他の会社にないものを全面的に出していく必要がありそうですね」
「ですねー……。京本さん、体調回復したらで良いんで今度飯にでも行きませんか?」
「はい、回復した頃に」
雑談はここまでだ。まじで帰れなくなる。
まだ何人か書類選考が残っているので目を通さなければ……。また暴言だらけの書類選考になりそうな予感だ。
再び自分のパソコンの画面に嫌々向き合ったところで背後に気配を感じた。
「京本さん、少し良いですか」
20時開始の二次面接を終えた水野が無表情で声をかけてきた。
なんだか嫌な予感がする……。
「はい」
寺内さんは私たちの様子を見て、椅子から立ち上がると自席の方に戻っていった。
周りに誰もいなくなったところで水野は口を開いた。
「中曽根さんですけど、お見送りです」
「そうですか……」
最悪だ……。
中曽根さんは先ほど水野が面接をした候補者で一次面接官は私だった。そして二次面接官は水野。つまり、私が水野に頼んでこの時間に面接をセットしてもらった。
やっかいなのは今回の面接で中曽根さんはお見送りになりDAPの選考は終了するわけだが、DAP内部はそれで綺麗に「終了」とはならない。お見送りになった候補者を上にあげた人が怒られるという事象が発生する。それが今だ。
「志望動機もあいまいですし、前職の悪口が多いですね。成功体験にも根拠がありませんし、論理的思考能力に欠如していると思いました」
「そうでしたか……」
良いと思ったのだが……。私の目が甘かったということだ。失恋直後の面接だったから多少投げやりになっていた部分は否めない。
人は第一印象で人を判断する傾向にある。清潔感のある服装で笑った顔が爽やかだったから面接の受け答えが知らずのうちに脳内で美化されていたんだろう。
結局は面接の合否なんて面接官の好き嫌いで決まってしまうが、やはりある程度の定量的な選考基準というものも存在していて、私はそれを満たしているかの判断ができなかった。そういうことだ。
「他の会議があったのに、無理言って他の日にずらしてもらってこれじゃあ話になりませんね」
「……すいませんでした」
頭を下げた。
もう反抗する気力なんてなかった。HPはほぼ0だ。プライドを保つ体力さえも残っていない。
こいつが近くにいると弱る。勝てない。今回も役職でも恋でも勝てなかった。憎悪は怒りには変わらず、ただただ私を傷つけ弱らせていくだけだ。目を合わせることも億劫な今、頭を下げることの方が普通に立っているより楽だった。
仕事に真面目な水野は間違ったことは言っていないと思うし、これは私を苦しめてやろうという気持ちの嫌味でもない。私の判断ミスというのは事実なのだから謝るしかない。
もうどうにでもなれ。
「京本さん、明日1on1しましょう」
1on1……?
意外な言葉に固まった。
「はい? スケジュール的にそんな時間ないです」
私はパソコンでカレンダーを開いた。
明日の予定は会議や面接、自身で設定した作業時間で全て埋まっている。30分という時間でも入る隙間などない。
水野は社用携帯をポケットから取り出して、何やら操作をし始めた。
「今、週次ミーティングの時間に会議室を押さえました」
平然とそう言い放つ水野の顔を3秒見た。
「待ってください。週次ミーティングに参加しないということですか?」
週に1度、チームメンバーで集まってお互いの進捗と反省点を1時間の間で報告し合う週次ミーティングというものを行なっている。
私の日本語の解釈が正しければ、その時間に1on1を行うと水野は言っている。
「各自の進捗は議事録を確認すれば済むので。週次ミーティングより1on1の方が大事です。私から大久保さんに話を通しておきます」
「勝手すぎます、どうして1on1するんですか」
こいつ、私のことを叱り付けるつもりなのか?
水野と2人きりになったって私の今の心境はどんどん悪くなる一方だというのは分かっている。こんなことしたって何も変わりはしない。
嫌いな奴と1時間、会議室で監禁されるこっちの身にもなって欲しい。無理だ。
「京本さんの仕事のパフォーマンスが全体的に下がっているからです。あなたが成果を出さないと責任を問われるのは私になるんです。分かっていますよね?」
「でも……ただの体調不良です、少し休めば……」
「先週からずっとその言葉を聞いてきました。ご自身の体調のマネジメントができていないなら、そのことについても明日話し合う必要がありますね」
「これはリーダーとしての指示ですか」
「……そうです」
こう言われてしまえば断ることはできない。
上司、部下――役職は「偉さ」ではないというのが我々の組織の考え方。各々が与えられた役割を担っているだけだ。
水野が1on1を申し出ているのもマネージメントという役割を果たすため。先程の寺内さんと同じで、個人の心配というよりは私のパフォーマンスの心配。結局皆、業務のことばっかり。まぁそれで良いんだけどさ……。浅くため息をついた。
「変わらないと思いますよ、1on1をしたところで」
「……話は明日聞きます。タスク、何時までに終わりますか?」
「終電までには帰ります」
「今週、残りすぎです。半分巻き取ります」
「いいです、私の仕事ですから」
勘弁してくれ。
水野にフォローされるなんて、これ以上自分を惨めにさせないで欲しい。
「これもリーダー職としての指示と言えば、言うことを聞いてくれますか」
「……分かりました」
弱いな、私。
結局、水野にタスクを強引に奪われてしまった。
そのおかげで予定よりもだいぶ早く帰ることができるようになったが、綺麗にタスクを二等分したこともあり水野と帰りが被ってしまった。
こいつとは最寄りが一緒。電車の窓ガラスには2つの影が映っていた。私よりも小さな影を見る。すました顔で吊り革を握っていた。
「あの……ごめん」
「え?」
水野は少し驚いた顔で窓の鏡越しに私の顔を見た。
「タスク、私のやってもらったのにお礼も言ってなかった」
直接顔を見ていないから言える。
さっきは悔しさというか情けなさもあって悪い態度になってしまったかもしれないが、本来なら水野はこれよりも早い時間に帰れたはずだし、なんなら私も今終電を免れているのは彼女のおかげだ。
ビジネスうんたらよりも、人としてお礼を言っておくのが筋だと思った。悔しいけど。
「気にしなくて良いですよ」
「でも……」
今度コーヒーでも奢って返すか……。
「本当に申し訳ないと思っているなら、業務で返してください。そして、どうしてこうなっちゃったのか明日教えてください」
「……説教するつもりなの?」
「いいえ。解決策を一緒に見つけます」
「……」
解決策、ね。
私がこんな風になってるのは、あんたのせいなんだけどな。
こんな奴いなければ良いのにって思うのに、どこか本気で憎めないのはどうしてなんだろうな。
帰りの電車。線路に擦れる電車の音を聞きながら私たちは吊り革に捕まり、ただ揺られていた。
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