1on1――大久保
人事部は毎月の月末に
1on1とは――平たく言うと上司と部下の1対1のミーティングのことである。
普段は我々はチームとして仕事をしているので、社員は他の皆の前では言いにくいことや、悩みを密かに抱えている場合があったりする。1対1という機会を強制的に作ることで上司が部下1人1人に向き合い、問題解決することを主な目的としている。
部下の意見を受けて業務のネックになる部分を潰すこと、退職を考えている社員への早期対応、人材育成、コミュニケーションで各々のパーソナリティを把握してより業務を回しやすくすることなど、様々なメリットがあるのでおすすめだ。是非とも取り入れていない企業は検討してみて欲しい。
このようなメリットだらけのミーティングは月に1度、30分という時間で行われる。
この30分という時間はどのように使っても良い。自由な時間だ。相手によって話す内容がガラっと変わる場合もある。仕事のこと、業務の進め方のこと――趣味やプライベートなことを話す社員もいるが、そういう場合は私は聞き手に回ることが多い。何故なら自分のことはあまり話したくないし、話せるようなこともしていないからだ。
社員同士のスケジュールが合わない場合もあるので何日かに分けて行うことが多い中、今日は大久保さんとの1on1が待っている。
大久保さんは1on1ではあまり業務寄りな話をしない。主に聞き手ではあるのだが、唯一大久保さんのプライベートに触れられる時間は私にとっては月に1度の楽しみだった。
だからいつも以上にばっちりと化粧をして髪の毛をセットしたし、お気に入りのビジネスカジュアルなスタイルを決めた。おしゃれは正直面倒くさいけれど、着飾ることで1日自信を保つことができるし、大久保さんに見せると思うだけで気合が入るというものだ。
月に1度の楽しみなのだから、たとえその後に嫌なことがあったって大丈夫……。
嫌なこととは水野との1on1である。
1on1とは部下と上司のミーティングのことだ。
あぁ、自分で言ってて腹が立つ。誰が部下だクソ。
リーダー職はマネジメント側の人間だとわが社では認定されている。つまり、水野が……水野が私の上司として1on1をするのである。
多分このことでサンドバッグにパンチを100回は入れた。
仕事に慣れた水野は私のフォローをもう必要としなくなり、やんわりと私をマネジメントする素振りを見せてきたのが最近のこと。ポジション的に役割を全うしているだけだというのは分かるし、指示も的確なのでそれに従うしかないのだが、こうして上司と部下の位置づけを目に見える形で明確にされることほどストレスの溜まるものはない。
何も話すことなんかないのに無駄すぎる30分だ。寝ていたいもはや。
6月には人事評価があり、上司や他の社員からの評価で恐らく私はリーダー職に昇格する。自惚れ……ではないはずだ。少なくともリーダーの一歩手前まで来ていることは分かっているのでこのまま仕事が順調にいけば確実にリーダーだ。
だからその時までの辛抱だと思うしかないのかもしれないが、いかんせん時間の経過が遅すぎる。こっちは1分1秒たりとも水野の部下なんてやっていたくないのだ。
覚えとけよ……。目の前に座っている水野を睨みつけると、カワイイ顔して軽く首を傾げられた。うぜぇ。私は水野とあえて反対側に首を傾げた。精一杯の抵抗だ。
「戻りましたー!」
大久保さんとの1on1から戻った川添さんに横から話しかけられたので首の位置を即座に戻した。
「あれ、早いですね」
さっき会議室に向かったばっかりなのにもう戻ってきたんだ。
腕時計を確認した。
「はい、すぐ終わっちゃいました。時間に余裕ありそうなら早めに来ても良いって大久保さんから伝言です」
川添さんはそう言うと、デスクに腰かけてノートパソコンを開いた。
今は、我々中途採用チームのメンバーで順番に大久保さんとの1on1を回している最中だった。順番的に川添さんの次は私だ。
もしかして私との時間を作るために川添さんとの1on1を早めに終わらせてくれた……? 心の中の私が踊っている。いかんいかん。早まってはいけない。こうして期待して今まで痛い目見てきたんだから。
手元に仕事はいくらでもあるのだが、せっかくなので少し早めに大久保さんの待っている会議室に行こうと思った。パソコンの画面をロックして席を立つ。
同じ会議室でも、面接へ続く道とはまた違った感覚。
少し緊張しているのは同じだが床に花が咲いているような、実に晴れやかな気持ちだ。
「失礼します」
会議室のドアを2回ノックし、セキュリティカードを使って中に入った。
「お疲れ様」
大久保さんの少し低めの声が耳に届いた。
「お疲れ様です」
「いやー、昨日久しぶりに早く家に帰れたから筋トレしたんだけどさ、もう身体がバキバキだよ」
小さめの会議室の中、向かいの席に座ると大久保さんは肩の部分を片手で押さえながら苦笑した。
「大丈夫ですか?」
「なんとか。外に出る機会も減っちゃったから身体がなまっちゃってまずいね。京本さんは身体動かしたりしてる?」
「そうですね、余裕がある日は身体を動かすようにしています。発散できますし」
「へぇ、どんな運動?」
「簡単な有酸素運動です」
サンドバッグ殴ってるだなんて絶対言わない。
まぁ嘘はついていないからこれで良いのだ。
「さすが。筋トレならたまにしてるんだけど有酸素はやってないから見習わなくちゃなー。最近腹が出てきて困ってるんだよね、もう俺も若くないなって年を感じるよ」
大久保さんは引き締まった自分のお腹をポンと叩いた。
何を言っているんだ? どう考えたってお腹は出ていない。
「そうですか……? そんな風には見えないです」
「着痩せする体型なだけだよ、ははは」
私もつられて愛想笑いをした。
ひと段落して大久保さんは穏やかな雰囲気のまま自分のオールバックで固めた髪をさらっと撫でた。こんなにオールバックが似合う人って他にいるのかな。キレ長で目元はキリっとしているのにどこか優しい瞳。交わりそうで交わらない視線。
沈黙が私たちを包んだ。
なんとも言えない空気の中、何か話題を振るべきだろうかと考える。
実は事前に何を話そうか考えていたのだが、いざ大久保さんを目の前にすると振り出しに戻ってしまった。
どうしよう。業務関係のことは私もあまり……できれば大久保さんのプライベートなことをもう少しだけ聞きたいしなぁ。
「……大久保さんは1on1ではあまり業務のことをお話しされませんよね」
精一杯絞り出した言葉。
他の人にはどうなのか分からないけれど、私との1on1は今みたいな雑談でいつも終わっている。これは、あえてだろうか。あえて、だとしたらその意図は何なのか。少し期待している自分がいた。
「あぁ、俺は京本さんに関しては何も心配ないと思ってるから。業務関係で思うことがあったら遠慮なく言ってくれていいけど……何かある?」
信頼されている。
それが再確認できた。本当はもっと違う答えを期待していたけれど、これはこれで良しとしよう。
「いえ、特には。問題なく働けているかと思います」
「うん。水野さんもだいぶ様になってきたし、チームも良い感じだよね。京本さんがいてくれたおかげだよ」
「とんでもないです。水野さんの吸収が早いだけです」
吸収が早いのは事実だが、もちろんこれは本心で言っているわけではない。大久保さんの好感度を稼げそうな返しだから使っただけだ。
『同僚の良いところを見つけ、業務に活かすことができている』
これも評価指標の1つである。ここでアピールしておいて損はない。
私のおかげで水野はチームでも上手くやれているし、チーフながらにも全体のバランスを掴んで円滑に進められるよう調整しているのだから、チームメンバーもマネージャーも含めて皆私に感謝すれば良いと思ってるよ。これが本心だ。口が裂けても言えないが。
「リーダー職での採用だったじゃない? 正直あの年でリーダーは異例だし俺もちょっとどうかなと思ったんだけど採らなくちゃいけない人材だったから……。京本さんも色々思うことがあったかもしれないけど嫌な顔一つしないで対応してくれてありがとう」
大久保さんは苦笑いしながらこめかみの部分を人差し指でかいた。
ちゃんと考えていてくれていたなんて嬉しい。水野と私なら、明らかに大久保さんは私を選ぶだろうと確信した。やっぱり今まで一緒に仕事をしてきた分、構築してきたものが違うのだ。
今まで我慢して上司の水野と一緒に業務していたけれど、今の言葉でだいぶ救われた気がする。
「いえいえ、結果的に採用に繋がって良かったと今は思えます。水野さんは優秀ですし。年も近いので私も負けないよう頑張ろうと思えました。彼女のおかげで仕事のモチベーションも上がっているんですよ」
よそで水野は私のことを結構褒めてくれているようなので、私も少しは返してやろう。もちろんこれも本心ではない。
『自分に不利な状況を成長と捉えられているか』
これも評価の指標の1つ。ポジティブシンキングは大事だ。頼むよ大久保さん。次回の評価は満点でよろしく。
本当は今すぐにでも水野には転職してもらいたい。これが本心だ。
「はは、本当? 実はギクシャクしてるんじゃないかと心配してたんだけど」
「そんなことないですよ。水野さんとこの前ランチにも行きましたし。近くのお蕎麦屋さんに」
……話の流れとはいえ、まさか本当にこのこと話しちゃうなんてな。
ありがとよ、良い手札をくれて。ここで使わせてもらったわ。
「あぁ、本当? あそこうまいよね」
大久保さんは眉を持ち上げた。これは好感触の顔だ。
「はい。麺のこしがあって美味しかったです」
私も営業スマイルを決めた。
「そっかそっか、良かった。なんだか微笑ましいよ。……同僚に好かれるのも京本さんの強味だと思うよ」
大久保さんは両手を組み、テーブルに肘をつくとそっと手に顎を乗せた。
注がれる一直線の視線に体温が上昇するのが分かった。
「そうですかね、そう言っていただけて嬉しいです」
なんだか先ほどと雰囲気の違う大久保さんを前に私は音を立てないように唾を飲み込んだ。
「京本さん……。良かったら次の週末、飲みにいかない?」
「え……」
飲み……。
これ私に言ったんだよね……?
身体が硬直した。それに抗うように脈が内側から響き渡る。
「ちょっと相談に乗って欲しいことがあって。俺も立場とか色々考えなくちゃいけないこと多くてさ……。お代は全部俺持ちで良いから」
「相談ですか……。分かりました」
表情はエリートを保ったままだが、いつもよりも高めの声が出た。
今回は人事部の飲み会の誘いではない。話しぶりから1対1だ。まさかの大久保さんと飲み屋で1on1……。夢にも見たことだった。
期待してはいけないと分かっているのに、届きそうな距離に見えたモノ。
相談したいこと、というのがただの口実であって欲しいと心の中で願った。
「良かった。あぁ、これ皆にはオフレコでお願い」
秘密にしたいのはどうしてだろうか。
そんなことはさておき、2人で飲みに行く。このことは同僚には秘密。
それだけでなんだかドキドキしてしまうのであまり深く考えるのはやめておこう。
「承知しました」
その場はあくまで冷静を装ってやり切った。
「また連絡するよ」
「はい。では失礼します」
大久保さんとの1on1の帰り、私はトイレの個室で声にならない声を服の中で出していた。
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