Birth Day

「どういうことですか? これが私ですが」



 水野の前では飾る必要はない。私の弱い部分、劣っている部分をもう知られてしまっているから。そんな水野から見て、「京本さん」な私に違和感を抱く気持ちも分かるが、それは高校の時からそうだし今更である。

 表向き、私は模範的な学生だった。自分にないものは努力で補ってきた。人一倍努力してきたつもりだ。勉強では良い成績を修めたし、スポーツはそこまで得意ではなかったけれど並以上の結果は出してきた。良い人、明るい人物像を演じていたから先生からは好かれたし、周りにもたくさんの友達がいた。もちろん後輩たち――水野達の前でも。慕われていたと思う。

 でも、スタメンの座と男を取られてから水野の前では完璧な自分を演じるのはバカらしくなってやめたのだ。



 どうしてここまでして自分を飾るのか――。

 それは怖いからだ。



 私はいつも劣等感の中で生きてきた。



 日に当たっているのは表向きだけ。でも中身は違う。

 海の中、沈んでいく身体。私は必死に空気を求めて上に這い上がろうとしていた。もがいていた。

 大人になって深い海からようやく顔を出せた。もう1人で泳げる私は自由の身になれたと思った。けれど依然と空気を求めて、光を求めて上に行こうとする。身体は止まらない。

 これは悪いことだろうか。いや、そんなことはないはずだ。今だってこうして皆から好かれて、頼りにされているじゃないか。これが私だ。エリートを演じている私だって私なんだ。

 マグカップの中に揺れるコーヒーの取っ手を握る自分の手を見た。



「いつからコーヒー好きになったんですか? 飲めなかったのに」



 水野は隣に並ぶと自分のマグカップにコーヒーの粉末を入れて、熱湯を注いだ。湯気が細く上に伸びた。

 そういえば、あす……水野はコーヒー好きだったっけ。部活仲間と学食でご飯を食べる時、水野はいつもブラックコーヒーの入ったペットボトルをテーブルに置いていた。あんな苦いものよく飲めるなぁなんて思いながら私は紙パックのジュースを飲んでいた。



「何を飲もうと私の勝手ですよ」



 今の私は飲めるんだ。私は私。

 コーヒーを作り終えたのでもう給湯室には用はない。自分のマグカップを持ち上げて、踵を返した。



「無理しちゃって。疲れないんですか?」



 言葉によって道が遮られた。水野は逃してくれる気配がなかったので私はマグカップを再び置いて、浅く息を吐いて向かい合った。



「……質問するなら業務に関係のあることにしてくれませんか」



 私は水野の前では飾る必要はないと思っているけれど、これ以上私の中に入ってくるのは話が違う。

 人は誰しも隠し事の1つや2つはあるものだ。どうして嫌いな相手にここまで内情を話さなければいけないのか。

 昔から何かと理由をつけて私に近寄ってくるところは変わっていないようだが、あくまでここは学校ではない。仕事をするための場だ。関係のない話はしたくない。



「どんなことでも遠慮なく聞いてくださいねっておっしゃったのは京本さんなのに」


「水野さん、前職ではどうだったか知りませんがここではプライベートと仕事を切り離している社員が多いです。必要以上に干渉するのは巧みなやり方とは思えません」



 私は先輩社員として水野をしてやった。



「今更ですね。私の名字が変わった理由を聞いてきたくせにそんなこと言うなんて」



 水野はささやくように言うと、自分のマグカップに手を添えて笑った。



「……」



 揚げ足をとられ、言い返す言葉がなかった。

 先輩として指導したつもりがあっさり逆転……。

 頭はキレるし経歴書通り、仕事もできるんだろうなと思う。このまま仕事でも私は言い負かされてしまうのだろうか。



 ここでもこいつに……。



 マグカップに口をつけて渇いた喉にコーヒーを流し込んだ。



「あっつっ!」


「大丈夫ですか?」


「熱い!」



 舌先がひりひりしている。投げやりになって苛立ちを声に乗せた。

 その時だった。



「順調?」



 給湯室にタンブラーを持った大久保さんが入ってきた。



「順調です」



 私は舌先のひりひりを忘れて冷静に返答した。……危なかった。

 大久保さんの前ではしっかりしていなくてはならない。



「はい、順調です。京本さんに優しく教えていただいてます」



 水野も私の後に続いた。

 大久保さんの前では良きビジネスパーソンでありたい。という私の気持ちを汲み取ってか水野は私に合わせてくれたようだ。



「なんか楽しそうな声が聞こえたから。仲良くやれてるようで良かった。若手のエース2人には期待してるよ」



 大久保さんはタンブラーに熱湯を入れて軽くかき混ぜている。

 私たちは愛想笑いしながらお互い顔を見合わせた。



「じゃあ俺これから会議だからまた」



 大久保さんはそう言い残してすぐに給湯室を離れていった。この後、ミーティングあるって言ってたっけ。相変わらず忙しそうだ。

 


 再び給湯室に2人きりになった。

 水野の横顔を見た。



「……神田」


「なんですか」



 整った顔。少し潤んだ瞳がこちらに向く。

 舌のひりひりが戻ってきた。



 この女は何を考えているのか分からない。憎まれ口を叩いてくるわりにはこうして空気を読んで私に合わせてくれるところもある。今朝もハンカチでスーツと髪を拭いてくれた。一瞬でも、もしかしたら……過去の記憶をとっぱらえば私たちはうまくやっていけるのかなと思ってしまった。



 でもだめだ、そんなことはない。時折見せる儚げな表情に気持ちが揺れてしまいそうになるが、こいつは仮面をかぶっているだけだ。心の中のもう1人の私が警笛を鳴らしている。

 水野は危険人物。掴みどころのない後輩。総合的に考えるとやはりそう簡単に心を許してはいけないし、このままだとつけ込まれて何もかも奪われて終わるだろう。やはり適度な距離を保っていかなければ……。



「……なんでもないです。もう私は戻りますね」


「はい。では私も」



 執務室に戻って、熱いコーヒーをすすりながら業務に取り掛かった。



 その後、差し込みのタスクが山積みにされていったので水野のフォローに手が回るか危うかったが、そんな心配は元より必要なかった。

 1の助言で10を理解する。それが水野だった。



「お先に失礼しますね」


「お疲れ様でした」



 大久保さんに言われていたタスクを全て終わらせた水野は、川添さんと一緒にオフィスを後にした。

 川添さんは一般職なので基本的に残業はなく、2人揃って定時退社だ。水野と川添さんは今日1日ですっかり打ち解けている感じがしてこちらとしては面白くない。川添さんを取られた気分になる。



 対する私は今日は残業コース。

 新しく媒体に掲載するための、求人のたたき台を作る作業がまだ残っている。

 こっちは残業せずに退社できるようにスケジュール組んでんのに差し込みで業務増やすなよ、おやすみ腹立つなもう……。まぁやりますけど。

 そんなことを心の中で呟きながら手を動かした。



 作業が終わったのは遅い時間だった。

 長い長い月曜日である。



 まだ執務室にはちらほらと人影がまばらにあった。残っている社員たちは疲れが顔に出ておらず、呑気に笑いながら雑談をしている。

 私はキャリアを極めてきたが仕事が好きかと言われたらそうではない。私が仕事に精を出しているように見えるのは義務感からであって、仕事自体は実際そんなだ。

 でもこの会社には仕事が好きな社員が集まる傾向がある。今残ってるあいつらとか。

 仕事が楽しければ良いが、そうでないと1分の残業でもストレスになる。それは統計でも明らかなこと。でもこんな遅い時間まで労働しても、仕事が好きな彼らにとっては苦ではないと思うと少し羨ましかったりするものだ。



 オフィスから出ると、雨は幸いにも止んでいた。



 集中した後は頭がボーっとする。考え事をする余裕すらなくなる。ただひたすら生きるために呼吸を繰り返しながら電車の窓に反射している自分の顔を眺めていた。そこには疲れている女の顔が映っていた。

 眠い。

 朝から災難だったしもう何もしたくない気分だが、私は最寄り駅を降りた後に家とは反対方向に歩いた。捨てられていた子猫が気になっていた。



 子猫がいた場所まで足を運んだが、そこに姿はなかった。段ボールごと消えていた。飼い主が見つかったか、あるいは保健所に連れていかれたのか……。

 あーと声が出た。別に見に行ったところで何の解決にもなんないのにね、どうせ飼えないんだから。無意味な行動だと分かっているのに、気になってしまって身体は止まらない……。



「生きてるかな」



 空を見上げた。黒い空。星がまばらに散っている。

 雨は止んでいるが私の心は晴れやしない。



「コンビニで傘買って帰ろう」



 疲れた。

 コンビニで傘を購入し、家という名のただの宿を目指して歩きだす。ヒールの音が弱々しく夜道に響いた。



「ただいまー」



 家のドアを開いたが、もちろん返事はない。真っ暗の部屋。

 灯りをつけて、着ているものを脱ぎ捨て熱いシャワーを浴びた。いつものルーティン。疲れた体に降り注ぐお湯は気持ちが良いものだが髪や身体を洗うのが面倒くさい。髪を乾かすのがめんどくさい。でもやらなければいけない。仕事が終わってもタスク、タスク、タスク。無心でこなしていく。



 やっとの思いで全てこなし、部屋着でベッドに飛び込んだ。お腹が空いているが食べることよりも睡眠欲の方が勝っている。もう時計は12時を回っていた。

 このまま目を閉じれば良いだけ……と思いながらも今日一日のことをぼんやり振り返っていると更なるタスクを1つ思い出してしまった。水野にハンカチを返さなければならなかった……。



 なんであんな奴のために洗濯回さないといけないんだよ。寝かせろっつの。

 あーと声にならない声をあげながら無理やり身体を起こす。

 鞄から水野のハンカチを取り出して野球選手のようにポージングを決めて洗濯機の穴に投げ入れた。



 洗濯は週に1回だ。

 いつも週末に洗濯機を回しているが水野のせいで予定が狂った。

 1、スタートボタンを押す。

 2、洗濯が終わるのを待つ

 3、ハンガーにかけて乾かす

 タスクが水野のせいで3つも増えた。



 私は1のタスクをこなすと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してソファに胡坐をかいて喉元に注いだ。



「飲まないとやってられないわまじで」



 さっき歯磨きしちゃったけどいっか。

 仕事のストレスを酒で発散する日々だ。

 日付は変わって今日は特別な日なのに、何で洗濯機の音をつまみに酒飲んでんだよ。



『無理しちゃって。疲れないんですか?』



 水野に言われたことが脳内にこだましている。



「疲れるに決まってんだろ……」



 空になった缶を手で握りつぶした。



――――――――――――――



 翌朝、出社した私は朝会までの時間で洗濯したハンカチを水野に差し出した。



「これ、ハンカチ。ありがとうございました」



 しっかりアイロンまでかけてやったんだ。感謝して欲しい。



「やっぱりあげます」



 水野は笑顔でそう言うと、ハンカチを突き返してきた。

 


 は?



「……どういうことですか、洗濯して返して欲しいって言いましたよね?」



 私の貴重な睡眠時間を奪っといてそりゃないだろ。ふざけんな。



「はい。でも気が変わりました」


「いらないです。私ハンカチならいくつか持ってますし」


「それ、結構良いハンカチなんですよ。京本さんはお綺麗でかっこいいですけど、ブランドものも1つくらいは持っておいた方が良いんじゃないですか?」



 私がブランドものを持たないのはあえてだ。

 着飾るのは好きだが、いかにもな高級品をたくさん身につけていると、人から疎まれることを知っているから。

 それなのにまるで貧乏人みたいな言い方しやがって! 確かにあんたよりは給料低いかもしれないけどさ。怒りがふつふつとこみ上げる。



「神田……!」



 近くに人がいなかったので感情に身を任せた。



「しー。ここではその呼び方はだめ、ですよ」



 水野は人差し指を口元に当てて、いたずらに微笑んだので私はキっと睨んだ。



「誕生日プレゼントです。おめでとうございます」



 水野は私に一歩近づくと耳打ちしてきた。



「あんた、覚えてたの……」


「めでたい日ですからね」



 今日になって初めて言われたおめでとうの言葉。



 ハンカチを握りしめた。なんなんだよ……。怒っているはずなのに、嫌いなはずなのに祝われたことは素直に嬉しいと思ってしまった。

 くそ。本当、調子狂う。

 私がこんな気持ちになっているのも、きっと水野の思惑通りなんだろう。腹立たしいな。



「くれんなら新品よこせ」



 小さな声で言った。



「考えときます」


「おい」


「京本さん。今日の面接、同席させていただきますね。私も来週からは面接を回していくので」


「……分かりました」



 本当にこいつは……。

 まぁいっか。

 よし、今日もがんばりますか。スーツの襟部分を軽く引っ張った。

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