Bad Day
土日はいつも通り家から一歩も出ずにベッドで過ごし、週が明けて月曜日になった。
全身鏡の前に立って自分の容姿をチェックする。
毛先にかけてウェーブのかかった艶のある髪、派手すぎず控えめながらに上品さの残る化粧。小粒なピアスに腕時計。今日もパンツスタイルでピシっと決めた。できる女は容姿も大切なのである。
棚の上に置いてある香水を胸元と手首に1プッシュずつつけて、トントンと両手首を合わせながらパンプスに足を通した。
よし、今日も頑張りますか。
玄関のドアを開けると雨だった。
「……うっ」
鞄の中に傘は入っていなかった。
私は傘を1つしか持っていない。鞄に常備していた折り畳み傘は子猫に差し出してしまったことを思い出して頭が真っ白になった。
せっかく頑張って身なりを整えたのに……。ないものは仕方ない、どこかで買うしかないか。少し濡れてしまうが駅に向かう途中にあるコンビニで傘を購入しよう、そうしよう。
エレベーターを降りてマンションのエントランスを出ようとしていたら、傘をさしたおばさんがこちらに近づいて来た。
「すいません、この辺に喜多見クリニックってありませんか?」
喜多見クリニックは内科で、私もお世話になっているところだ。
「あぁ、そこの角を右に曲がってまっすぐ行ってつきあたりを……」
一生懸命説明したがおばさんの頭上にははてなマークが浮かんでいた。
この辺は地形が入り組んでいるので言葉で説明するのは結構難しい。腕時計を確認した。ちょっとくらいなら大丈夫だろう。
「案内しますよ」
「良いんですか? ありがとうございます」
一歩エントランスを踏み出すと、容赦なく雨が私の頭を打った。
待って。傘ない。助けを求めるようにおばさんの方を見たが雨に打たれている私のことなど全く気にしていないようで、そのまま傘で自分の頭上を守っていた。
え、普通入りますかとか言わない?
私濡れてるんですけど……?
自分で案内を名乗り出てしまったからにはもう引くことができず、私は喜多見クリニックまでおばさんを引きつれて歩くことになる。雨に濡れるのが嫌なのんで走りたいところだが、走って道案内をするのもどうかと思うし、クリニックに行くくらいだからどこか悪いんだろう。おばさんを走らせるのは良くない、うん。
髪から滴った雨粒が汗のように私の頬をつたって流れている。おばさんの顔をもう一度見たが真顔で見返された。こういうのサイコパスっていうんだろうな……。面接なら絶対不合格だ。
朝からストレスを溜めたくないので、極力何も考えないようにしながら歩いた。
「すいませんね、本当にありがとうございます。これ良かったらもらってください」
クリニックの前に着くとおばさんは私の手のひらに黒糖飴を1つ乗せた。
瞬く間に私の手の平は雨に打たれて黒糖飴の周り小さな池ができた。
「ありがとうございます」
おばさんがクリニックの中に消えていくのを確認すると、黒糖飴の口に入れてその場でかみ砕いた。飴をくれるくらいなら、傘を差しだして欲しかった! 不合格! 不合格だ!
濡れた時計の液晶を親指で拭って時刻を確認した。思ったよりも時間が経過していた。次の電車乗れるかな。私はコンビニには寄らずに早足で駅を目指した。
人事の執務室のある14階――朝会までまだ時間はある。エレベーターが開き、俯き加減に歩きながら即座にお手洗いに向かった。
元々DAPは女性社員が少ない会社なこともあり女子トイレは閑散としていた。鏡の前で自分の容姿を確認する。最悪だ……。結局傘を買うことができなかった。髪の毛は濡れ、巻いた髪のカールも取れて台なしになっていた。スーツの色も雨のせいで変色している。化粧が乱れていなかったことは唯一の救いかもしれない。口コミ1位の化粧崩れ防止スプレーを買っておいて良かった。
今日は面接がなく、組織外の人に会うわけではないからまだ良かったものの、こんな姿を皆に見せてしまうのはエリートとしては少し気が引ける。
洗面台の横にあるハンドドライヤーが目についた。スーツを脱いでこの隙間に入れれば乾くだろうか……。なんて思ったが、こんなところを他の社員に見られたら終わる。もっと健全な手段を……。
鞄からハンドタオルを取り出そうとしたが無かった。そうだ、これも子猫にあげちゃったんだ……。
なんだかなぁ。良かれと思ってやったことがどうしてこう裏目に出てしまうんだろか。今日はついてない。仕方なく手で乱れた髪を手で整える。
「はるちゃん」
名前を呼ばれて身体がピクっと反応した。
水野は私の隣に立って洗面器で手を洗うと、ハンカチで手を拭きながらこちらを見た。
「なんでそんなに濡れてるんですか」
なんでよりによってこいつに……。雨に濡れただらしない女を晒してしまうなんて。また弱みを1つ握られた気分になる。
「……傘忘れたから」
ボソっと呟いた。
「忘れたって……電車に置いてきちゃったんですか?」
「忘れたというか……傘もってないの」
「え、そんなことありますか?」
「あるんだよもう……!」
睨みつけると、水野はこちらに一歩近づいた。
「ジャケット、濡れちゃってます」
水野はしっとりとした声で言うと、ハンカチで私のスーツを拭った。
「……」
くそ……。手を振り払いたいところだが拭いてくれているのでじっとすることしかできない。
「はるちゃん、ハンカチ持ってないんですか?」
「ハンカチも傘も……猫にあげた」
「猫?」
「駅の近くで捨てられてたから……。てかはるちゃんって呼ぶな」
「2人の時くらいは良いじゃないですか」
「やだ」
「……髪も濡れちゃってます」
水野はハンカチでそのまま私の髪をなぞった。
人に頭をこういう形で撫でられるなんて何年ぶりだろうか。相手が年下の水野っていうのがムカつくけど。
「……ありがと」
スーツと髪を拭いてくれたことだけは評価してやる。不愛想にお礼を言うと水野はふふっと笑った。
「はるちゃんかわいい」
年上の先輩に対してかわいいって言うのってどうなの?
またバカにされてる気がする。私は水野から目を逸らして時計を確認した。
「……朝会が始まる時間なのでそろそろ戻ります」
私は表情から作り直して仕事モードに切り替えた。
ちらっと鏡を見たが拭かれたこともあって、まだ少し濡れているがさっきよりもマシになっている気がする。水だしそのうち乾いてくれるだろう、うん。
「そうですね、戻りましょう。あとこれ、1日使って良いですから洗って返してください。私は予備のがあるので」
水野はハンカチを私に差し出してきた。
「は、はぁ……」
洗って返せって、まるで私のことを拭いたハンカチが汚いみたいな言い方だな。厚意から言ってるのか、そうじゃないのかよく分からないが、とりあえず受け取ってジャケットのポケット部分にしまった。
水野はニコっと笑うと歩き出したので私も後に続いて執務室を目指した。
――朝会が終わり、自席でエージェントにメールを打ち込んでいた時だった。
「京本さん、今週末空いてる?」
振り返ると大久保さんが目を細めて笑っていた。
心臓が跳ねた。週末のお誘い……これってもしかして……。
「金曜日ですか……? はい、空いてます」
胸の底から何かがこみ上げてきそうになったが、悟られないようにあくまで冷静を装った。
「良かった。水野さんの歓迎会をやろうと思って今みんなに予定聞いて回ってたとこなんだ」
「あぁ、水野さんのですか……」
「川添さんは大丈夫?」
「あ、私は大丈夫です」
名前を呼ばれた川添さんは振り返って応答した。
心の中で私は肩を落とした。まぁそうだよな。隣に川添さんが座っているのに堂々とデートに誘うなんてこと普通しないか。
でも名前を呼ばれて週末空いてるかなんて聞かれて期待しない方が無理だ。ずるい誘い方だな。
「じゃあ2人とも参加で良い?」
「はい」
「はい」
空いてると言ってしまったし断ったら不自然だろう。
「OK。あと、これは京本さんにお願いなんだけど、仕事に慣れるまで水野さんのフォローをしてあげて欲しいんだ。俺、今週会議が重なってて手が回らなくって。他に頼める人が思い浮かばなくてさ。お願いできないかな」
「フォローですか。はい、分かりました」
なんで私なんだよ……チーフの私が役職が上のリーダーのフォローなんておかしいだろ。
マネージャーなんだからマネージメントはお前がしろと言いたいところだけれど、他に頼れる人がいないみたいな言い方をされたら引き受けるしかないじゃんか。
……でも良く考えたらそれくらい頼りにされているということ。少なくとも信頼関係は築けているわけだし、ここで水野をしっかりフォローすれば大久保さんの好感度を高めることにつなげられる。これはチャンスだ。
「京本さんの向かいの席空いてるよね? そこに水野さんに移ってもらおうと思ってる」
嘘だろ、目の前に来るのかよ……。
でもいや、待てよ。フォローするということ=マウントを取れるのでは……?
役職なんて名ばかりだろう。社会人経験は私の方が長いわけだし絶対私の方が仕事ができる。この機会にとことん指導して、どっちが上なのかを分からせれば水野が出しゃばることはなくなる気がする。
何年DAPの社員をやってきたと思ってんだ。それなりの仕事のノウハウは知っている自信がある。
「はい、この席空いてるので大丈夫ですよ」
私は心の中でほくそ笑んだ。
しばらくして、水野が席移動のためディスプレイとPC本体を持ってこちらにやってきた。
「重そうですね、お手伝いしましょうか?」
私は席を立ちあがって水野の元まで歩いていくと笑顔を向けた。
「お気遣いありがとうございます、持てるので大丈夫ですよ」
「そうですか、とても重そうに見えたので1人で大丈夫かなと心配してしまいました」
「大丈夫です」
「水野さん細いから……」
水野は何もできない無力な生き物だ。
そんな彼女に手を差し伸べてあげる私、やっさしー。
「京本さんはお優しいですね。でも私、力はありますよ」
「えぇ、そうなんですか?」
「多分京本さんよりも」
「はい?」
「ジムで鍛えてるんです」
この野郎……。
私だってストレスのたまった日はサンドバッグに拳を叩き込んでいる。
殴り合いの喧嘩では負けないはず。水野は無力。大丈夫。
「そうですか。じゃあご自慢の筋肉でさっさと運んでください」
「はい、最初からそのつもりですから」
ディスプレイの重さで筋肉痛になって痛みに苦しみますように。
私はそそくさと自席に戻って作業を再開した。
「水野さん、よろしくお願いします!」
水野が向かい側でPCのセットアップを始めると、川添さんが水野に声をかけた。
「こちらこそよろしくお願いします。川添さん……ですよね?」
水野は整いすぎた笑顔を川添さんに向けた。
「はい。あれ、自己紹介しましたっけ?」
「先週、座席表をいただいたので」
「覚えてくれてたんですね、嬉しい……。もしかしてもう全員の名前を覚えたんですか?」
「はい。人事部の皆さんに関しては」
「すごい……! さすがですね」
川添さんは目を輝かせている。
「私も配属されたその日に覚えましたよ。顔と名前が一致しないと仕事に支障が出てしまいますし」
名前を覚えたくらいで威張り散らさないで欲しい。こんなの当たり前のことだ。
「京本さんも! ……優秀な人ってそこからなんかもう違いますよね。かっこいいなぁ」
「いえいえ。分からないことがたくさんあるでしょうけど、どんなことでも遠慮なく聞いてくださいね? 水野さん」
……決まった。声優ばりの良い声が出た。
「はい、ありがとうございます」
水野は静かに私にお礼を言った。
……勝った。これは完全に私の勝利だ。
そうそう。そうやっておとなしく私に頼って、従っていれば良いのだ。
気分を良くした私はコーヒーを一口飲もうとマグカップに手を伸ばしたが中身は空になっていた。
オフィスでコーヒーを飲みながら仕事をする女性はかっこいいという私のイメージ。未だにコーヒーを美味しいとは感じたことはないが、ちびちびと飲み、空になったらお代わりを持ってくる毎日だ。
マグカップにコーヒーの粉を入れ、席を立って給湯室に向かった。
「京本さん、早速なんですけど質問しても良いですか?」
給湯室で熱湯を注いでいると背後から水野の声がした。
「はい。なんですか?」
わざわざ給湯室まで追いかけてきて聞きたいことって何。
「どうして猫かぶってるんですか?」
「……」
目を見開いて水野を見た。
水野は口角を上げて笑っていた。
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