日の当たらない場所

 オフィスを出た。



 冷気の少し入った風が髪をサラっと撫でた。早めの退社だったのでそこまで外は暗くはなく、桜の花びらの色をかろうじてまだ認識することができる。春――4月。

 新しい季節の始まりを告げる月であるが、社会人になってからというもの特段に目新しさがあるというものではない。新卒が入って来るなぁ、くらいの感覚だ。



 思い返せば、新卒で入社してからがむしゃらに仕事に精を出してきたけれどプライベートでは失ったものも多い。友達、彼氏……。土日は疲れているから寝ていたいし、私が仕事で忙しいことを良いことに皆離れていってしまった。結局私に残ったものは仕事だけだった。

 この4月で社会人としては5年目。もうすぐ27歳になる。このままキャリアだけを追い求めて生きていくことが正なのか、否か。周りが結婚したり、同棲している姿を見ていると少し複雑な心境だ。

 風が吹いて桜の花びらが下にひらひらといくつも落ちて行った。



 何のためにこんな頑張ってるんだろうか。

 使い道もなくお金ばかりが口座に溜まっていく。



 仕事ができる自分が好きだし、これが正しいと思ってこの道を選んだ。後悔はしていない。でもどこか拭えない不安や焦りのようなものがこの季節――散っていく花びらの数だけの靄が私の心を曇らせていく。



 でも、そんなキャリアだけな私にも心の靄を忘れさせてくれる唯一の楽しみがあった。

 


 電車で20分ほど揺られ最寄り駅に着くと、家とは反対の方向に歩いた。

 繁華街を少し進んだ先にある人気のない路地裏に入り、暗がりに見えるOPENの看板を目にすると安堵にも似た小さなため息が漏れた。



「いらっしゃい」


「おぉ、春輝さん!」



 少し重たいドアを開いて中に入ると、口ひげを生やした白髪混じりのマスターと髪のサイドの刈り上げが特徴のミヤちゃんが出迎えてくれた。



「こんばんはー」



 はぁ、安心する。ここは唯一私が私でいられる場所。

 こじんまりとしたこのバーの名前は「シャドー」。

 暗がりに誘われるようにふらっと立ち寄ったのがきっかけで通い始めた。今ではすっかり顔なじみである。

 マスターは私にとっては父のよう、ミヤちゃんは妹のような存在だ。家族と呼ぶには仰々しいかもしれないが、私が「京本さん」でいなくても良いのはこの2人の前くらいだ。



「今日は何にする?」



 カウンターに腰掛けるとマスターは注文を聞いてきた。



「えっと……じゃあジントニックをお願いします!」


「はいよ」



 マスターは飾られているジンのボトルに手を伸ばした。



 酒はそこまで強いわけじゃないけれど、比較的好きだ。身体の内側が熱くなってホカホカする感覚とか、仕事とかどうでも良いやって気分になって漠然とした将来への不安が薄れていく感覚とか。



 何気なく周りを見渡す。小さなバーだ。店内にはちらほらと飲んでいる客がいたが特に見知った顔はなかった。

 膝の上の鞄が振動した。社用携帯に何か連絡が入ったみたいだ。知るか。こっちはもう退社してるんだ。取り出して画面に映し出される通知を見たが急用でもなさそうだったので電源を落として鞄に戻すと、そのまま下の荷物入れに押し込んだ。



「春輝さん、お待たせ」



 ライムの乗ったジントニックがカウンターに置かれた。

 私はマスターにお礼を言ってからグビっと飲み込んだ。

 ジンの鮮烈な香りと共にトニックウォーターの苦味と甘味が喉の下へと熱を持って下りていく。ライムの酸味、フレッシュさ余韻となって鼻腔と口に残った。



「なんで家で作るのとこんなに違うんだろうな……」



 アルコールの熱で僅かにぼやける視界。薄暗がりの中でぷつぷつと浮かんでくる炭酸の粒をグラス越しに見つめた。



「そりゃ、バーテンの腕の良さはジントニックで決まるっていいますしねー!」



 ミヤちゃん腕組みをすると歯を見せて笑った。



「さすが! もっと飲んじゃおーっと」



 グラスの傾斜を強めにつけて流し込む。

 バーでお酒を喉元の音が鳴るくらいの勢いで飲むなんて見苦しいかもしれないけれど、ここは正統派なオーセンティックバーというよりは、地元のローカルな空気感が強く、価格もそれほど値が張るわけではない。気軽に立ち寄れるフランクさを兼ね備えたバーなのである。



「飲みますねー!」


「飲まないとやってらんないよ」



 当時私が新卒採用担当だった頃―― ある新卒の子は言った。企業説明会で京本さんの話す姿を見て私も人事になりたいと思いました。京本さんは私の憧れです、と。

 人事はかっこいい、華の人事、なんて思われがちだが実際は苦労も多い職種だ。

 まず第一に、人に裏切られる仕事だということがあげられる。これは営業にも同じことが言えるが、人は基本的に自分の思い通りには動いてくれない。人に期待しすぎると、裏切られた時のダメージがそのまま自分に返ってくる。

 毎月の退職者リストに、自分が頑張って口説いて入社を決めてくれた社員の名前を見つけた時は辛くなるし、面接で第一志望ですと興奮気味に言っていた求職者が普通に内定を辞退してきたりする世界だ。



 メンタルを保つため、人に期待してはダメだ、情が入ってはダメだと言い聞かせながら機械的な対応をしててもそれはそれで成果が出なくなってしまう。人は生ものだから繊細なのだ。少しの対応の違いで結果が大きく変わってきてしまうのが難しいところ。

 面接は未だに緊張する。合否はこちらが判断する立場ではあるが、選ばれるための努力もしなければならない。面接官の印象が悪かったという理由で選考を辞退されてしまうことも多いから。



 人事は裏切られるばかりではない。時には裏切ることを強いられることもある。個人的に一番辛いのが、一緒に働きたいと思って二次面接、役員面接などの三次面接にあげても、お見送りになるとそのメールは人事が送らなければならないことだ。恋愛に例えると付き合いたいと思っているのに、付き合えないとメールを送るようなもの。

 縁がなかったと割り切るしかないのかもしれないが結構メンタルに来るし、なんでこんな人を上にあげたんだと上司に怒られたりもする。



 会社を運営する側としての立場と、一社員としての立場、どっちにもつけず板挟み。常に中立を意識して働かなければならないため、人事は孤立しがちになる。

 採用目標人数、退職者数、退職を引き留めた数……。人事といえども数字を追うところは営業と変わらないしタフな職種だ。

 会社の重要器官の一員として働けている誇りとプライドが人事のモチベーションをかろうじて支えているのだと思う。

 


 ストレスは酒に流すしかないと思っている。だから今日も飲む。



「あのイケメンの上司とはどう?」



 マスターが聞いてきた。



「うーん、特に進展なしです」



 イケメン上司とは大久保さんのことだ。

 前々から気になっている存在の彼のことはマスターやミヤちゃんにも話している。



 誰に対してもフランクに接する大久保さん。私たちの仲は決して悪くないし、上司と部下としての関係は良好だ。しかし、一歩踏み込んだ何かというのがない。一緒に仕事をするのは3年近くなるわけだが……。うちの会社は自分も含めて仕事とプライベートを切り離すタイプが多い。

 分かっているのは大久保さんには今、彼女がいないということ。それだけだ。



「春輝さん綺麗なんだし、アプローチすればイチコロなんじゃないですか? 断る男はバカだと思うけどなぁ」



 ミヤちゃんは緑色に染められた少々短めの髪を後ろに束ねた。真っすぐに伸びた鼻筋と薄めの眉毛。少しボーイッシュな感じがして、バーテンの衣装がなかなか様になっている。



「ここで私がいって無理だったらもう立場がないし……」



 大久保さんはモテる。イケメンだしマネージャーだし紳士だしスーツの着こなしもおしゃれ。モテないはずがない。そういう人ほど女性の理想が高いだろうし、これでグイグイいって拒否されてしまったら……「完璧な京本さん」である私が、「ふられた女」に変わってしまう。

 いくとしてもタイミングは見極めないといけない。けれど今のところ大久保さんが私に脈がある感じはしないしな……どうしたものか。



「職場恋愛はそういうところ難しいよね。俺のところは付き合ったらどっちかが異動しなくちゃダメってルールがあったなぁ」



 マスターはたばこに火をつけるとそう呟いた。

 マスターは元々は会社員だった。昔からバーをやるのが夢で、貯金をして貯めたお金で開業して今に至る。夜の仕事なので家族との生活リズムが合わずに、数年前に奥さんと離婚した。

 ミヤちゃんはマスターの1人娘の友達である。高校を卒業してから、就職はせずに夜間にできるバイトを探していた。専門学校に行く資金調達のためだ。そんなミヤちゃんをマスターは雇い入れた。

 ミヤちゃんは不定期で働いているが、比較的店にいることが多い印象。行くと大体いるから。



「破局した場合とか社員に相談されて異動させることはうちもありますね。社員の生産性の向上のために、どちらかを転勤にして物理的に距離を離すこともあります」



 DAPでも社内恋愛の話はちょくちょく聞く。中には結婚したカップルも複数存在する。今日も超絶イケメンコンサルの羽山さんが結婚したというニュースが流れてきた。

 人事なのでそういう話は比較的耳に入ってきやすいのだ。



「いやぁーさすが人事ですね!」


「バランスとるのって難しいよ」



 私はジントニックを飲み干すと、おかわりを頼んだ。



 ――異動といえば、私には今最も異動させたい奴がいる。



「今日、嫌いな奴が転職してきたんですよ。同じ高校の後輩で」


「へぇ、すごい偶然だね」


「……男の人ですか?」


「女。いつも私のこと見下してくるの。そのくせにさ、好きとか言ってくるし本当何考えてんのか全く分かんない」



 今日、水野に好きと言われたが、実はあれが初めてなわけではない。高校の時から何度か言われてきた言葉だ。



 マスターは話を聞きたそうにしていたが、お客さんに呼ばれてずらかって行った。



「好きだからちょっかい出したいだけだったりして」



 ミヤちゃんが会話を続ける。



「それとはちょっと違う気がするんだよね。例えばミヤちゃんに好きな人がいたとします。それをずっとAさんに相談してました。でもある時から、その好きな人とAさんが付き合ってました。どう思う?」


「えー……無理……まさかそのAさんが転職してきた人ですか?」


「当たり。好きになっちゃったならしょうがないと思うけどさ、悪びれる様子は一切なくて。挙句の果てに私のこと好きとか言ってくるしバカにされてるようにしか思えない……」


「その人ヤバいですね。そんな人でもディープアプリケーション入れちゃうんだ」


「仕事ができる人みんな性格が良いわけじゃないからね……」



 うちは能力主義の会社だから、性格の部分に重きを置いているわけではない。

 まぁ性格や人柄重視で採用するところでも外面の良い水野は良い感じにやるんだろうけど。



 注文をとり終えたマスターが戻ってきた。



「マスター、おかわりください」 


「はいよ。ちょっと待っててね」


「はーい。ミヤちゃんも1杯好きなの飲んで良いよ」



 もうミヤちゃんも飲める年だ。



「本当にー!? 春輝さん好き!」



 同性からの好きという言葉。どうしてミヤちゃんに言われるのと、水野に言われるのでこんなに感覚が違うんだろうな。



 酔いが少しずつ回り、考えることを放棄してぼうっとマスターのタバコの煙を眺めながら、他愛もない話をしていたら気が付いたら朝になっていた。

 あっという間に夜が明け、店も閉店の時間になった。



「あー雨か」



 バーの外に出ると、もう外は太陽の光を取り入れていたが、小粒の雨がしとしとと降っていた。鞄に常備している折り畳み傘を開いてふらふらと帰路を歩きだす。

 少し肌寒い明け方の道。この土地に一人暮らしをして5年目。この景色も見慣れたものだ。



 駅の方に向かって歩いていると、歩道の脇に置かれている段ボールが目についた。

 近寄ってみるとなんとそこには子猫が一匹入っていた。

 思わずしゃがみ込んで猫を見つめた。酔いがどんどん覚めていくのが分かった。



 雨だからか、子猫は身体を震わせていた。

 私は持っているハンドタオルで子猫の身体をふいた。子猫は抵抗せず、おとなしかった。



 囲われた檻の中で、されるがまま。子猫は生を望んだわけでもない。この世界に勝手に産み落とされて、不運な境遇に苛まれている。それはまるで――。



「ごめんね、うちでは飼ってあげられないけどせめてこれくらいは……」



 住んでいるマンションはペット禁止だ。だから飼ってあげることはできない。でも、雨に濡れている子猫をここに置き去りにするのは心が痛んだ。

 私は自分のさしていた傘を猫が濡れないように立てかけた。そして、ハンドタオルを広げて段ボールの中に敷き詰めた。これで少しは温かいかな……。



「良い飼い主さんが見つかりますように」



 家まですぐだし、スーツが少しくらい濡れたって大丈夫だ。

 私は小走りで自宅を目指した。

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