日の当たる場所
「初めまして、本日から入社させていただきました水野と申します。どうぞよろしくお願いします」
朝の光が薄く差し込むオフィスの中。
人事部のメンバーは神田を中心に円を作っていた。
最悪な事態が起こってしまった。
決して迎えたくなかった日。神田がわが社へ入社してしまったのだ。
面接の評価は2次も3次も好評だった。抜群のスキルと経験、人柄、所作言動。どれをとっても評価はほぼ満点だった。弊社としては絶対に逃がしたくない人材だと役員にも絶賛。
役員がノリノリで神田の採用の稟議書に捺印する様子を腑に落ちない気分で見ていたが、特に釈然としないのが神田の役職だった。まさかのリーダー職でのオファーなのだ。
私の職位は現時点でチーフであり、リーダーを目前に控えている。そんな私を差し置いてこの職位なのはどういうことなのか。確かに「人事」としての経験は神田の方が長いかもしれないが、新卒でDAPに入社してそれなりの成績を私は出してきた。
最初はスタッフ職からスタートし、アソシエイト、チーフと役職を上げていった。現時点で私の同期でチーフ職の人は片手で数える程度であり、リーダー職の人はまだ出ていない。それなのに中途組で尚且つ年下である神田の方が役職が上だなんてまるで納得がいかない。
決まってしまったことは仕方がないことなのかもしれないが、さすがに腹の虫がおさまらずに私は大久保さんに抗議した。
「うん、京本さんの気持ちも分かる。でも、前職の経験と希望年収、学生時代からの経験値も含めるとこのポジションしかないんだよ。それで条件下げて他に行かれても困るし今回ばかりは目を瞑ってくれないかな」
この時の大久保は……。おっといけない。感情が荒ぶって呼び捨てにしてしまった。
この時の大久保さんは渋い顔をしていた。
やはり私がいくら反発したところで事態が覆るなんてことは起こり得ない。無意味な時間だったのだ。
「そうですよね……すいません。大久保さんのおっしゃる通りです」
これ以上抗議したところで時間の無駄だと分かったので、笑顔でその場を収めた。
オファー内容は決まったが、要は神田が内定を承諾しなければ良い話。
最後の手綱。承諾してくれるなと何度も心の中で願ったが、内定通知した即日中に神田は承諾してしまったのだ。悪夢だ。……悪夢でしかない。
人事部内は優秀な人材の入社が1人決まったこと、新しい同僚が増えることで盛り上がっていたが、私の心境は最悪だった。
「新しい方が来るとなんだかわくわくしますね」
一般事務の川添さんの声で我に返った。
そうですね、と静かに返事をした。
神田の挨拶、自己紹介に皆は目を輝かせていた。皆スポットライトの当たる神田のことを見ていた。私は大衆の中の影に隠れてしまった。
さっそく私は神田にリーダー職の座を奪われた。
京本さんは仕事ができるし、かっこいい、期待のエースだと何人もの人から言われてきた。
私が唯一輝ける場所としての地位を長い年月をかけて確立させてきたつもりだ。人事部を照らす光、エースは私だと思っていたのに……。それがこの女のせいで台無しになってしまった。なんでこんな奴に……。
神田に仕事の指示をされるなんて嫌すぎるにも程がある。
「京本さん、1次面接ではありがとうございました」
朝会の後、神田は私のところに挨拶に来た。
この人は今は神田じゃなくて水野さんだ。私の知っている神田はどこにもいない。初対面も同然。自分に言い聞かせた。
高校を卒業してから約9年の年月が経った。大人になった。人間の体は細胞段階で7年ごとに新しく生まれ変わると言われているんだ。だから私の知っているあの生意気な神田はもういないはず。
「いえいえ、これからよろしくお願いしますね」
私は笑顔を一瞬向けた後ですぐ自分のパソコンの画面に目線を戻した。やはり初対面だと自分に言い聞かせたところで不快感は消えてはくれなかった。さっさとどっかに行ってほしい。社交辞令として挨拶に来ているのなら、馴れ合いはこの辺で十分だろう。
「あの、お手洗いの場所ご存じですか?」
「そこのドアを出て左側です」
私は目を合わせないまま、柔らかいトーンで回答した。
「京本さん。私まだセキュリティカードが発行されてなくて……午後には届くみたいなんですけど。一回ドアから出たらカードないと戻って来られないですよね」
会社のセキュリティの関係で、どこの執務室や会議室に入るにもセキュリティーカードが必要になってくる。セキュリティカードがないうちは、会社内での移動を容易に行うことはできない。
「そうですね、戻れないですね」
そのまま一生戻ってくんな。そんな思いを込めて笑顔で返事をすると、神田はニコッと口角を上げた。
「場所を教えるついでじゃないですけど、お手洗いに付き合ってもらえないでしょうか」
本当は断ってやりたいところだが――。入社初日ということもあって、神田を気にかけている社員の視線をチラチラと感じる。ここで嫌ですなんて断るのは私の評判を落とすことに繋がりかねない。やむなしか……。
仕方がないので新入社員に優しくするOLを演じてやることにした。
「……分かりました。ではついてきてください」
「はい。どうもありがとうございます」
席を立ち、ドアまで面接の時のようにエスコートする。
神田は黙って後をついてきた。
他人行儀な話し方。面接の時も初めましてと言ってきた神田。もしかして覚えてるの私だけだったりするのかな……。いや、そんなことはないはず。これで忘れたなんて言われたらちょっとやるせない。
「ここです」
トイレの入り口まで来て振り返った。
「やっと2人きりになれましたね、はるちゃん」
「……」
懐かしい響きだった。やっぱり覚えてたか。どこか心の中に暖かさが戻るような感覚だったが、苛立ちの方が勝った。
私はここでは「はるちゃん」ではなく、「京本さん」で通っている。負け組のはるちゃんはもうここにはいない。
「面接ではるちゃん見た時びっくりしちゃったなぁ。こんな偶然ってあるんですね」
神田は一歩距離を詰めてきた。大きな目の整った顔。私より少し低い身長。上目遣いながらもどこか冷めたような表情。面影はあの頃のままだ。
「何のことですか?」
私がしらを切ることで察して欲しい。もう大人なんだからそれくらい分かるよね?
私が過去の思い出話に花を咲かせる気なんてさらさらないことくらい。
「覚えてますよね? 私の顔見てピクってしてたじゃないですか。一瞬ですけど」
「神田……」
犬の威嚇しているような声が出た。
「ふふ、今は水野ですよ」
神田は私とは打って変わって嬉しそうだった。
「……あんたなんで名字変わってんの」
腕を組んで壁に体重を預けてボソッと呟く。結婚という言葉が飛んでくるのが怖い。神田の顔を見ていられなくなって視線を斜め下に向けて防御態勢に入った。
「気になりますか?」
「気になるから聞いてんでしょ」
「水野君と結婚したから」
「っ……」
心臓の跳ねる音が身体を揺らした。強烈な一撃。吐き気のようなものが込み上げてくるのを感じた。
「っていうのは嘘です。そんな顔しないでくださいよ。両親が離婚したので母方の旧姓になっただけです」
嘘かよ……。呆れ顔で神田の顔を見た。
「離婚か…………」
労いの言葉をかけようと思ったがやめた。
神田の家庭環境のことは知らない。神田の両親が離婚したところで私には関係ない。嫌いなはずの相手に優しくしようなんて浅はかな真似はしたくない。
しかしながら状況が状況なだけに下手に罵ることもできなかった。
「私が水野君と結婚してないって知って安心しましたか?」
「……怒らせたいわけ?」
別に今、水野に未練があるわけではない。だいぶ昔の話だし。こいつは私が当時水野が好きと知っていて水野と付き合い、こうして今更皮肉を言ってくる。性格の悪さにイライラする。結局何も変わっていなかった。あの時のままだった。
大人になって少しは変わったと思ったのにこれだ。これから一緒に仕事していくわけ? この先のことを考えると不安でしかない。
「ふふ、ごめんなさい。はるちゃんが昔のままで安心しました。雰囲気すごく変わってたから中身も変わっちゃったのかなって少し心配だったんですけど」
神田は奥の方に入っていき鏡の前に向かい合うと、リップクリームのようなものを塗り始めた。トイレの前でもたれかかっているのも変なので、私も中に入った。
くるっと上にカールのかかった長いまつ毛がまばたきの度に大きく揺れている。あの時は制服姿だったが、シンプルなスカート、ブラウスにスーツを着こなしている神田は妙に色気づいているように見える。
「神田も性格の悪さはそのままだね」
神田は髪を耳にかけながらこちらを見た。
「他の人がいる前でもそう呼ぶつもりですか? 変な誤解されちゃいます」
そうだ、名字変わったんだった。今は水野だ。
思考を巡らせた。私が神田と呼ぶことによって、同僚たちに私と神田――改め水野の間につながりがあることがバレてしまう。
京本さんは高校生の頃はどんなだったの? なんて質問をされたくないし、後々面倒なことになりそうだ。
私は仕事にはあまりプライベートな情報を持ち出したくはない。化けの皮は剥がされたくはないからだ。このまま昔の呼び方で呼ぶのは良くないだろう。お互いにメリットがない。
「……じゃああんたも私のことはるちゃんって呼ぶな」
「分かりました。皆の前では呼びません。なんだか2人だけの秘密みたいでドキドキしちゃいますね? 京本さん」
誰がこんな奴なんかと……。
「なんで入社したんだよ……」
本音がこぼれる。なんで会社のトイレで水野と一緒にいるのか。目の前の現状を受け入れたくないが、今視界に入っている情報が全てだろう。
「なんでって……はるちゃんが上に私を上げてくれたんじゃないですか」
「わ、私は反対した!」
「そうなんですか? オファー面談の時に聞きましたけどね。これまでの面接官全員から高評価だったって」
「それは……」
上にあげる報告書には人事目線で見た印象や評価ポイントを書き込んだ。でもそれは仕事だからであって……。
「そうやって完全に悪人になりきれないところも変わってないですね。好きですよ、はるちゃん」
好き……。
自分より劣っている私を心で嘲笑っているくせに。今だって、役職が下の私を見下してる。こいつは……惨めな私のことが好きなんだ。
「……てかトイレすんじゃないわけ?」
腕時計を確認した。いつまでも長話をしている気はない。私と話すための口実としてこの場を利用したのかもしれないが、もうこれ以上話すことなんかない。
「そういえばそうでしたね。はるちゃんはトイレ大丈夫ですか?」
「大丈夫。さっさと済ませろ、こっちは仕事残ってんだ」
「はい、わざわざ付き合ってくれてありがとうございますね」
水野を待たずにそのまま執務室に戻ってしまおうかと思ったが、それで私が新入社員を置き去りにしたヒドイ奴だと悪評が立つのはいただけないので仕方なく待ってやった。
――その日、水野は入社初日なこともあってドキュメントの読み込みやオリエンテーションへの参加がメイン業務だった。主に新卒採用、中途採用のどちらにもパフォーマンスを発揮してくれることを上からは期待されているが、直近は私と同じ中途採用がメイン業務になる見込みだ。
今日は金曜日。人事業務に本格的に参入してくるのは週明けになるだろう。
私は仕事を早めに切り上げると、椅子にかけていたジャケットを羽織ってブルーライトカットの眼鏡をしまった。社内にはまだ何人も残っていたが、私は自分の業務をきちんと終わらせたので早く帰ることについて誰かに文句を言われることはない。
DAPには残業を美徳とする文化はない。フレックス制を導入しており、残業をしてもしなくても支払われる給料は変わらない。むしろ残業をしない方が生産性のある働き方をしているとして評価は高くなる。
水野に目を向けた。パソコンでカタカタと文字を打ち込んでいた。同じ部署なので席としては近いところにいるが、隣や向かいではなくて良かった。あいつが視界に入るところで仕事なんてごめんだからな。
「お疲れ様です、お先に失礼します」
「「お疲れ様です」」
同僚から返答がちらほらとある中で、水野はこちらを見るとニコっと笑った。
私は逃げるようにして背を向け、執務室から出てエレベーターのボタンを押した。
まじでやってらんない。
今日は行きたい場所がある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます