第32話 私はどうして大人になるんだろう

 ゆっくりとフローラが唇を離した。

 そして、

「めっちゃカワイイ」

 繭の耳元でそう囁くと、フローラは何事も無かったかのように教壇の横へ戻り、

「フローラです。よろしくね」

 そう言ってスカートの裾をつまんで、おどけるように膝を折った。


 フローラの声をかき消すように再び歓声が上がったのは、その数秒の後の事だった。




 -昼休み-


「あーあ、先生カワイそ」

 体育館で、バスケットボールをつきながら、星香が言った。

「めちゃめちゃ動揺してたじゃん」

「…うん」

 繭はステージに腰掛けて、ボールを目で追っていた。

 星香の放ったシュートが、吸い込まれるようにゴールネットをくぐった。

「チョーク、ボキッてすんごい音立てて折ってたし」

「うん…」

 星香は、ボールを拾うと、繭の前に立った。

「さすがにね。ライバルだったけど、先生純粋な分カワイそうってゆーかさ…」

「うん…」

 繭は首を上下させた。

「だよね…」

「………」

 星香は、そんな繭をしばらく見つめていたが、やがて、

「ねえ、繭…」

 何かを言いかけた。

 と。


「あっ、星香っ、見つけたっ」

「うわ、やばっ、これ、パスッ」

 星香は、入り口に立つかすみの姿を見ると、ボールを繭に投げ渡して、ダッシュで逃げ出した。


 誰も居なくなった体育館で、繭も星香から受け取ったバスケットボールをつきながら、ゴールポストの前まで来た。

「………」

 狙いを定めてシュートを放った。

 ボールはポストをはねて、繭の足下に転がった。

 そしてその直後、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。




 -屋台-


「てやんでぇー、バーロー」

「へー、お花もそんな飲み方するんだねー」

 片頬をついて、茂子が花の横顔を見つめながら、瓶ビールを傾けた。

「当たり前でしょ。自分の彼女が他の女の子とキスしてるの、目の前で見せられたら」

「そーなの? まあ、お花はねー」

「お茂は、お茂は? ビックリしないの?」


 酔いの回った目で、花が茂子を見た。

「そりゃ、『おおー』って思うと思うよ、そこに居たら。でも、何回も言うけど私離婚してるし。酸いも甘いも通り過ぎて来てるワケよ。むしろ、燃えるくらいじゃないの?」

「燃える?」

「そ。場合によっては、萌えるの方かもね」

 そう言って、

 -キャハハハ-

 まるで女子高生のように笑う茂子に、

「何か……。今日のお茂、すっごいステキ」

「…は?」

 花がグラスを両手で持って、じっと茂子を見つめた。

「…あんた、やっぱ今日飲み過ぎだよ。それと、そんな女子大生みたいになってその仕草も止めとき」

「何でよ」

「もう一度、夢を見させちゃうからだよ」

「夢?」

「もう一度、誰かを好きになって今度は穏やかに人生を送ってみたい…みたいな中年女の夢」


「………」

 花はじーっと、茂子を見つめた。

「…なァに言っちゃってんのー」

 次の瞬間。

 弾けるように、花は笑った。

「ナイナイナイナイ。お茂が私になんてっ」

 そして、一口ビールを飲み、やがて花はグラスをカウンターに置いた。

「不思議ね。お茂と居ると…、本当に二十歳だったあの頃の私に戻ってる気がするの。体だけじゃなくて、心まで」

「そお?」

「うん……。それにとっても楽しいの」

「ま、時々はさ、ヨロイを脱いでもいいってことなんじゃないの? せめて、私と会う時くらいはさ」

「そう…そうね」

 花は大きく頷いた。

「あ、そうだ、ここの大根の煮物、超美味しいんだ。お花、食べる?」

「食べるー」


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