➂踵を返したみずがめ座 #日常

 あの日のことを私は忘れもしないし、強く忘れたいと思っている。

 非現実を重ねすぎて、私の中の世界が崩壊しそうになるくらい、その日は衝撃的だった。息が詰まった。泣いた。泣いた。ないた。


*****


 私は美容室に行こうと靴を履き、ドアノブに手をかけた。家族は皆、仕事や趣味や買い物にでかけてしまった、休日の午後三時。私は忘れ物がないか頭の中をぐるぐる回して確認し、ドアを締めた。朝のニュース番組でやっていた星座占いで、私のウミガメ座が一位だったから、今日の気分は最高だった。

 ルンルン気分の道中、唐突に今日の占いのラッキーポイントを思い出した。「何事も用心が大事です!」という言葉が、いつも聞くアナウンサーの声で再生されると、そういえば鍵締めたっけなー、ていうかガスつけっぱなしじゃなかったけなー、ということを思い始め、ついにはそれ以外のことを考えられなくなってしまい、美容室の予約の時間に余裕があることから、一度家に戻ってみようと思い、踵を返して北道を歩き始めた。

 まあそんなことはないか。なんせ、今日の私は超ラッキーなんだ。

 そう、思ってた。


 家の前まで行くと、知らない男が脇目も振らずにドアの前で何やらガチャガチャ作業をしているようだった。男は全身を真っ黒に包んでいた。私はその場に凍りついてしまい、ただその光景に釘付けになっていた。手は震えていた。足はだんだん力が抜けていく気がした。頭の中で様々な思考を張り巡らす。その末にたどり着いた結果は、無論、通報だった。私はバッグの中をまさぐり、スマホを取り出した。そしてホームボタンを押したのとほぼ同時に、ガチャガチャの音が止んだ。恐る恐る男の方を見た瞬間、私は再び凍った。

 男はこちらを見ていた。ガン見していた。彼はピッキングの手を止め、こちらをただ見ていた。何もかもを見透かすような、黒い目をしていた。口は半開きで、その周りの無精髭が悪人顔をより引き立てていた。


「……あ………………あ」


 私は口から声が漏れていた。男は急に手に持っていた何かを捨て、こちらに向かってきた。私はどうしようもなくなってその場にしゃがんでしまった。もはや上から刺されても、何らかの方法で気絶させられてもおかしくない状況だった。


 しかし、私のその日の超ラッキーなところはそこだったのだろう。

 男は何も言わず、それどこか私のことを無視してどこかへ逃げていってしまった。


 それでも私はその場にしゃがみこんで、どうしようもなく泣いていた。声も上げられず、ただ涙を流していた。

 母が買い物から帰ってきて、酸欠状態の私を見つけるまで、私は泣き続けた。


*****


 私はその後母の付添のもと警察に行き、しどろもどろになりながらも事情を説明した。その約一週間後、近所の防犯カメラの情報から犯人の居場所が割り出され、逮捕された。その時は私の家の近くには何人か報道関係の仕事の人がうろついていた。

 私はその日から気が滅入ってしまい、しばらく家に引きこもった。体重も十キロほど減った。今はもう立ち直ったが、今でも朝の電車の中で見かける知らない男の人には怯えて距離を取ってしまう。あともう一つ、変わったことがある。


 その日から私は、星座占いを見るのをやめた。

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