第三十五話 コンプレックスの裏返し



「……なあ、ひーくん」

「ん」


 しばし思いを巡らせ落としていた視線を上げると、そこには真正面から俺を見つめる、いつになく真剣な表情をした志乃姉の顔があった。


「言わない、とは言ってないぞ? 彼女たちの理由について。ただし、その前に聞いておく」


 教えてくれる筈がない、はなからそう決めてかかっていただけに志乃姉の台詞は少し意外だった。無言で頷き続きをせがむと、志乃姉はゆっくりとこう俺に尋ねた。


「お前は――それを聞いてどうするつもりなんだ?」




 まさにそれこそが、俺の中にあるもう一つの疑問だった。




「俺は――」


 すぐ言葉に詰まる。自分でも分からないからだ。ここから先は単なる好奇心でも邪推じゃすいでもなくなる。ひとたび聞いてしまえば、誰かの抱える何かを背負うことになる。あの二人がそうせざるを得なかった事情を知れば、俺は、多かれ少なかれ、行動を強いられることになるのだ。




 俺がもし物語の《主人公》であれば、彼女たち二人の複雑な事情を知り、それでも無関心を貫き通すなどという怠慢は許されないのだろう。


 何せ《主人公》だ。


 とは言え、たかが高校生でもある。無論、大したことなんてできる筈がない。それでもせめて彼女たちのために何かしてやろうと悩み、もがき、あがくことになるだろう。そう、俺は知っている。その行為に意味があろうがなかろうが、だ。




 だが、俺は違う。


 少なくとも、もう違う筈だ。

 そう決めたのだ。俺自身が。


 なのに――。




 なのに、何故俺は彼女たちの問題に進んで踏み込もうとしているんだろうか? 自分でもそれが分からないのだった。




「いいか、ひーくん。お前はそういう人種なんだ。少なくともあたしは今でもそう思っているし、そうだと信じている。それは決して恥ではない。むしろ誇るべきなんだよ」


 すっかり黙り込んだまま口を閉ざした俺に、志乃姉はいつになく固い表情と口調で語りかけてきた。何を言ったらいいのか分からなかった。だから、俺は黙っていた。


「目の前で誰かが倒れたら、同じ人間でもその後取る行動はさまざまだ。手を差し伸べる者がいる。可哀想にと同情する者がいれば、大丈夫かと声をかける者もいる。その一方で関わり合いたくないと距離を置く者もいるだろうし、その不幸を喜ぶ者さえいるだろう。だがな――」


 志乃姉はそこで、俺たちに対してでさえ滅多に見せない、穏やかな、どこか夢見るような優しい微笑みを浮かべて目を伏せる。


「……あたしは知ってるぞ。知ってるんだ。お前はな、そこで余計な考えに一瞬たりとも時間をかけることなく、躊躇わず手を差し伸べてしまう部類の奴なんだってことを。その行為が高潔だとか何だとかの綺麗事はこの際どうだっていい。だが、それがお前の本質なんだ。お前自身がいくら否定しようがそれは変わらないし、変えようがない。なあ、もう自分をさげすむのは止せ。日陰を歩くな。日の当たる道を歩きたまえよ、ヒイロ少年――」


 だが志乃姉が浮かべる表情とは対照的に俺の顔は次第に曇り、徐々に熱を帯びていく志乃姉の感情のたかぶりに全てをられてしまったかのように心は冷えていった。痺れたような舌をのろのろと動かし、呟く。


「……買い被り過ぎだろ。それは弟可愛さのただの身内贔屓ひいきだ。俺はそんな奴じゃないし、実際大した人間じゃない。もう《第六感シックス・センス》だって残ってない《能力喪失者スキル・ロスト》なんだからな――」

「まだ三つ、お前にはあるじゃないか」

「………………だから?」

「お前が失くしたと思い込んでいるだけで、以前のように使えるようになるかもしれ――」

「………………だから何だよ!?」


 思わず語気が荒くなっていた。

 少し息を整えて、努めて静かに言う。


「もう昔みたいな生活は嫌なんだ。時代の寵児? 神の子? 来るべき世界を担う多重能力者マルチスキル? はっ、あんなちんけな《第六感》をどれほど持っていたところで、どれもこれも手品まがいの宴会芸レベルじゃないか。それにさ、親父が言ってたぜ。《第六感》はヒトの革新なんかじゃない。欠けたピースを埋めようとする行為、コンプレックスの裏返しなんだ、って――」


 台詞の最後で、目の前の志乃姉の表情が一転、苦々しいものに変化したのが分かった。


「お前……まだそんな戯言たわごとを気にしてるのか?」

「じゃあ何なんだよ? 教えてくれよ、先・生?」

「それは――」


 意地悪な質問だ。吐いたこの俺自身が一番それを知っている。まだこの世で誰も解き明かせていない問いに、一介の保険医でしかない志乃姉が答えられる筈はなかった。不意に、ちくり、と胸の奥で痛みが生じて、俺は長い溜息を吐いた。


「……なあ、志乃姉」

「――ん?」


 ビール一本で酔いでもしたのか、少しぼんやりとした顔付きをしている志乃姉を見つめたまま、目を反らすことなく俺は言った。


「……ありがとな。いつも。俺、感謝してるんだ」

「ああ。気にするな」

「でもさ……俺はもう少しこのままでいたいんだよ。それは悪いことなのか?」


 その問いに、志乃姉は答えなかった。


「ふーっ……お前も早く風呂に入ってこい」


 それだけを告げ、最後にもう一度とばかりに一気にバスタオルを被るようにして志乃姉はがしがしと髪を乾かし始めた。束の間、俺の目に映ったその表情は――少し悲しそうだった。




 多分、それがいけなかったのだろう、と思う。



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