第二十四話 姉、帰る
「おい、この状況……説明して欲しいんだが――?」
「ん? 何がだ?」
いつものように出迎えた俺の不穏な空気を丸ごと無視して、一言も答えぬままにぬけぬけとソファにどっしりと構えた志乃姉の真正面に腰を降ろし、輪をかけて不機嫌そうに尋ねる。対する志乃姉はむしろ上機嫌だ。口元には笑みすら浮かんでいる。だから余計に腹が立った。
「何がじゃねえ。どうして
「奈々瑠――か。もう名前で呼び合う仲になったのか。なるほどなるほど。それはよかった」
「そう呼んでくれと言われたからだ。よかったも何もない。つーか、ちっともよくない」
俺はどきりとすらしない。
至って冷静に答えると、志乃姉の笑顔がわずかに鈍った。
「ん? おいおい、ひーくん。お前、まるで怒ってるみたいに見えるぞ? 喧嘩でもしたか」
「怒ってるみたいにみえるんじゃなく怒ってるんだ、俺は。あと、ひーくんはやめろ。今は」
志乃姉は、理解したんだかしていないんだかはっきりしない合槌を打つと姿勢を正した。
「説明、説明か……。私はな、この奈々瑠=ティアーレの《学園島》滞在における身元引受人になった。彼女たちは留学生だ。同行者もいない。となれば、ハウスマザーが必要だろう?」
「……はぁ!? どどどうしてそうなるんだよ!?」
一瞬、理解が追い付かず言葉を失う。よかった。ショックで失語症にでもなったらどうする。俺の悲鳴じみた一言を聞いて志乃姉は阿呆を見るような残念そうな目つきで一瞥した。
「おいおいおい。今、理由は言ったぞ? 聴こえていただろう?」
「じゃなくて!!」
ばん!
思わず反射的にテーブルに手を叩きつけてしまったことを少し後悔する。
「……ひ、ひーくん」
「あ……あの。どうか落ち着いて――」
はっ、と我に返った瞬間、浅葱と奈々瑠の表情が視界の隅に入る。驚きと恐れの入り混じったあんな浅葱の顔、もう五年近くも見たことなんてなかったのに。糞っ。
「じ――じゃなくてさ」
冷静になることは今の俺にはとても難しかったが、何とか声のトーンだけは落とした。
「どうして志乃姉なんだ? ハウスマザーってことはだ……奈々瑠は……ここに住むのか?」
「何だ、期待しても何も起こらないぞ?」
チェシャ猫のような志乃姉のにやにや笑いが俺の感情をごりごりと逆撫でしてきたが、それこそ思う壺である。ぐっと言葉を呑み込む。それ幸いと、志乃姉が代わりに口を開いた。
「おいおい。この私が、思春期真っ盛りの男子高校生と彼女たちを同居させる訳ないだろうが。それこそ身元引受人として許容できないからな? ちょうど隣が空き家になったものでな、そこに彼女たちは住むことになる。下宿という形でだ」
「ま――待て待て待て! 隣って、そこには杉原のおじい……杉原さんがいたはずだろ? つーか、下宿って何だよ!? あああ! ツッコミどころが多くて間に合わねえ!?」
「うるさいな、まったく」
志乃姉は憮然とした顔で溜息を吐き、ヒッチハイクするような身振りで隣を指さした。
「杉原さんは念願叶って息子さんたちと同居することになった。引っ越しは先週だぞ?」
えー……聞いてないんですけど。
「あとな? 下宿って言うのは本当のことだ、噓じゃない ……おや? 言ってなかったか? 元々このマンションは、全部丸ごと私の所有物なんだが」
え――えええええ!?
そうなの? マジで!?
すっかり呆気に取られてキッチンの方を見ると、うんうんと浅葱まで頷いている。何で俺だけ知らねえんだよ……別にいいけど。つーか、このマンション結構でかいんだが。トレイを手に現れた浅葱からマグカップを受け取り、優雅すぎる仕草で一口含んでから志乃姉は続ける。
「身元引受人には誰がなってもいい。私以外の誰が引き受けてもいいさ。しかしだ、逆に言えばこの私がその役を引き受けても何ら問題はないだろう? ましてや彼女たちの通う学校の、学年主任直々に引き受けると言うのであれば、そこに異論を唱える奴はいない。何せ――」
志乃姉は何かをいいかけ、不意に言葉を切った。
「ま、そういう訳だ。いろいろ納得いかないようだが、いろいろ諦めてくれ。いいな?」
「……聞いてくれ、志乃姉」
「諦めろってば。しつこい男は嫌われるぞ?」
「聞けって――」
「あああ、うるさいうるさい」
「聞けよっ、しーねえちゃんっ!!」
思わず口走ってしまってから、しまった、と苦い顔をして俯く。静まり返った場の空気に、余計気まずい思いで視線だけを戻すと、そこには気持ち悪いくらい優しい微笑みを浮かべた志乃姉の顔があって、冷やかしもからかいもせずただ静かに俺を見つめていた。
「久しぶりに聞いたよ、その呼び名。お前、本当に怒ってるんだな。そうでもなければ――」
最後まで言おうとはせず口を噤んで志乃姉は力なく首を振った。そして事の成り行きを堅い表情のまま隣で窺っていた奈々瑠の方に身体ごと向き直る。そしていきなり頭を下げた。わたわたと手を振り慌てる奈々瑠だったが――徐々にその速度は落ちていき、やがて、止まった。
「あの……そういう訳でな、奈々瑠=ティアーレ。私の落ち度だ。本当に済まない……。我ながら良い思いつきだと思ったんだがな……。少しばかり深慮に欠けていたようだ」
「あ……あの……いえ」
視線を感じたが、俺は奈々瑠の顔を見ないように膝の間で組んだ手の中に視線を落とした。
「こう見えても私は家族のことが何より大事でな。ひーくん――いや、ヒイロには、今までたくさん、いろいろなことがあったんだ。今でこそ感じの悪い口ばかり達者でとっつきにくい奴ではあるが、これでもずいぶんマシになった方なのだよ。以前と比べればはるかに、な」
よくよく事情を知らない他人が耳にすれば、いくら身内でも随分な物言いだと眉を顰める人もいるだろう。が、それは紛れもない事実だ。あの頃は今以上にひねたガキだったし、今とは比べ物にならないほど内向的で、他人と――いや、この世界そのものとの関わりを一切拒絶していた。今ここにいるこの俺は、当時と比較したらかなりマシになったのだ。これでも。
それに、少なくとも分かる。
本当に俺のことを大事に思ってくれているのだということが。
その口調で。
その仕草で。
だから俺はただじっと俯いたまま、静かに志乃姉が語る言葉の一つ一つに耳を傾けていた。
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