第二十三話 前髪の向こう側には



「ねーねー、奈々瑠ななるさん?」

「は……はひ?」


 唐突に浅葱あさぎがすり寄ってきたせいで、奈々瑠はソファの上でびっくぅ!と小さく飛び跳ねた。あ、別に相手が俺だからって訳じゃなかったんだな、それ。そうと分かってちょっぴりほっとする。


「ずーっと、浅葱、気になってることがあるんだけど……聞いてもいーい?」


 こくこく。


 無邪気な笑みに押されっぱなしの奈々瑠が無言で頷くと、


 ばっ!!


 浅葱は手を伸ばし、奈々瑠の表情を覆い隠しているぼさぼさ前髪を跳ね上げてしまった。


「~~~~~っ!!」


 突然のアクシデント発生!にパニック状態に陥った奈々瑠は、ソファごとひっくり返りそうな勢いでやたらめったらにぶんぶん手を振り始めた。今にも過呼吸で卒倒してしまいそうな慌てぶりで、反射的に紙袋を探したくらいである。だが俺の息も、確かにその一瞬、止まった。


「やーっぱりそうだと思ったー! 男を見る目はないけど女の子だったら自信あるもんね!」


 やめて、怖いこと言うのは。まあ当分男を見る目なぞ必要ないし、何ならこの先一生なくたって一向に構わない。悪い虫が寄って来たら全力で追い払う。なお、社会的に抹殺する模様。




 だが、確かに浅葱の目に狂いはなかったのだ。




 美人、と言うのとは少し違う。


 あまり高くもない鼻。でも、愛嬌がある。口元はきりりというにはほど遠く、兎っぽい。へにゃん、と目尻の下がった大きな黒い瞳は、驚くほど長く緩やかなカーブを描く睫毛でびっちり縁取られていて、はっ、とさせられた。そして透明な産毛に覆われた色白の肌は羞恥のあまりピンクに染まり、まるで瑞々しい白桃のようでもあり――しきりにぷるぷると震えている。




「にゃに……するんですか………………っ!!」


 噛んでる噛んでる。再び伸びっ放しの前髪に閉ざされた奈々瑠の顔は、トマトのように真っ赤に染まっていた。唇はあうあうと震え、いつも以上に言葉を発するのが困難な状況らしい。


「だってー、奈々瑠さんってば、すっごく可愛い! なーんでそんな風に顔隠しちゃうのー? もったいないよー! あ……お気に入りのピン留めなくしちゃったからー、とかなの?」

「いえいえいえいえっ! あの……や……やめて……くだ…………っ!」


 ぶん! ぶん! と首を激しく振りながら奈々瑠は後ずさろうとするが、浅葱にしっかり両手を握り締められては動けない。が、さすがにこれは目に余る。不本意ながら厳しめの口調で制止する。


「こら、浅葱。頼むからやめてやれ。奈々瑠は過剰なコミュニケーションが苦手なんだ。その前髪だって奈々瑠にとってはちゃんとした理由があるんだろう。放してやりなさい、すぐに」


 過剰であろうがなかろうがそもそもコミュニケーション全般が不得意なのだが。




 なお俺は、妹に対して滅多に声を荒げない。

 理由は簡単、かわいいからである。




 それは冗談として、厳しい言葉を浅葱に対して投げることは滅多にない――もう今は。だからこそ浅葱は、俺が少しばかり本気で腹を立てていると瞬時に悟ったようだ。残念そうに唇を尖らせながらも、ぱっ、と奈々瑠の両手を解放して、俯き加減に詫びる。


「ごめんなさい……」

「は……はい。ち、ちょっとびっくりしましたけど、べ、別に怒ってませんから…………」


 空気を読んで自分を曲げる――変なところで器用な奴だ。

 だからこそ、つい、俺は苛ついてしまう。


「でも――嫌だったんだろ? だったら、お前から折れる必要なんてないんだぞ、奈々瑠? 少し反省した方が浅葱のためにも良い。済まなかった。どうか許してやって欲しい」

「は………………はい」


 そうまで言われてしまったらどうすることもできず、奈々瑠は黙り込んでしまった。




 これでいい。場の空気を悪くして周囲の人間を落ち着かなく不安げな気持ちにさせるのは、いつだって俺の役目でなければならない。浅葱でも奈々瑠でもなく、俺が悪い。それでいい。


 誰も気付かない。

 誰にも気付かれない。


 そう、元々存在しない者ならば、自ら進んで悪になろうとさしたる違いはないのだから。




 と――タイミングを図ったかのように、俺の個人端末宛に一通のメールが届く。




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 ラブコメの波動を感じるっ(`・ω・´)

             from しのちゃん

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 感じねえよ。ポンコツか、そのセンサー。


 スクリーンから視線を上げて立ち上がると、落ち着かなげな顔付きの二人が無言で問いかけてくる。が、素っ気ない態度で俺はこう答えた。


「さて――と。やっと帰ってきたよ。この状況の元凶が、な」



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