第十三話 姉弟で風呂に入るのは禁則事項です



「ね? ね、ひーくん? ひーくんってば」


 脇腹をしきりに小突く浅葱あさぎの声に、俺は我に返った。


「どした浅葱? じゃねえ、ひーくん止めろ」

「そんなことよりもだよ、ひーくん。今のヨーロッパって、一体いくつの国に分かれてるの? もーあんなの、浅葱、覚えられる気がちっともしないんだけど……」


 まあ、無理もない。英のEU離脱前で四〇ヵ国。それが今やさらに増加して五〇は下らない。当時でさえ知らない国はざらにあった。アンドラ公国とかモルドバ共和国とか。そこで暮らす人々には申し訳ないが、いまだにどこにあるのかそもそも本当にあるのかどうかすら見当もつかない。


 ただ、リヒテンシュタイン公国に関してだけは少しばかり語れる。単純に字面の恰好良さに惹かれて調べまくっただけだが。首都はファドゥーツ。人口は約三万五千。


「テストに出たら、俺も答えられない」

「でしょー?」


 ここ、出るんですよ……と、浅葱はどっかの霊能者みたいな口調で言うと、ぶるり、と身を震わせる。そこで志乃姉は、画面を見つめたままさらりと言い放った。


「今、この瞬間にも増えているかもしれんな。目立った紛争こそ起きてはいないが、今のヨーロッパはいまだに揺れているんだ。ここしばらくの間は沈静化しないだろう」

「え……えー……」

「そ、そ、そ、そんな顔するなよ、あさきゅん! だ――大丈夫だぞ!? 教師の方だって正解が定かでないテストなぞ作れまい! ふん、どーせ作成中に刷り直しになるのがオチだ!」


 お前が胸張ってどうすんだ。結構あるけど。


「テキトーだよ、しのちゃん……」

「いやいやいや! 口から出まかせじゃないぞ?」


 ぶんぶん! と首を振ってから、志乃姉はある種の異常性すら感じるほど溺愛している浅葱の頭を撫で撫でしつつ、優しい瞳と口調でその過ちを咎めた。


「なあ、あさきゅん? この私を掴まえて、しのちゃん♪はやめなさいと言っただろ?」


 そうだ、ひーくん♪もだぞ。

 かわいいけどやめなさい。


「私のことは、おねえさま♪と呼べとんがぐぶ!」

「ちょ――浅葱に妙なこと吹き込むんじゃねえ!」


 咄嗟に繰り出した一撃を正面からまともに受け、頬を無駄に上気させた姉は最後まで言い切ることができずソファーの端から無様に転げ落ちていった。ふう、危ない危ない。こんなところにまで性犯罪者がいるなんて聞いてないんだが。近頃は物騒で困るな。




 だが、敵もさる者。




「ふふふ……やるようになったな、ひーくん」


 ずるり。


 獲物を捉えた大蛇のごとく、志乃姉がソファーの向こうからゆっくりと這い上がって来た。


「だが、この程度ではまだ私は倒せんぞ……!」


 誰かー、男の人来てー!


「おっと、そろそろ頃合いのようだな……。成長したお前の肉体を存分に堪能させてもらうとしようじゃないか、ひーくん。風呂場でな!」


 もうそんな時間かー。こんなやりとりにはすっかり慣れっこなので、出来損ないの魔王めいた志乃姉の台詞は聞き流した。しっしっ、とぞんざいに手を振って、二人まとめて追い払う。


「いや、まだやることあるし。浅葱、志乃姉が風呂入ろうってさ。ほれ、一緒に行ってこい」

「ぬ……ぬうう……!」

「おっふろー♪ すぐ準備するねー」


 かたや口惜し気、かたやうきうき。両者の態度は両極端である。


 しかし、奴はまだ諦めてなかったのだ。

 むんず、とジャージの端っこを掴まれる。


「ふふ……ふふふ……。たまには一緒に入ろうぜ、ひーくん。なーなー」

「い――嫌だってば」


 俺はうろたえ、本気で抵抗した。三十路手前のオトナの女と男子高校生だぞ。仮にも姉弟なんだし、間違いを起こす気なんて毛頭ないけれど、なんか倫理的にいろいろ駄目だろ。


「互いの身体を確かめ合ったりさ。ほら、お姉さんがいろんなところ洗ってやるぞ? ん?」


 ん? じゃねえよ。

 あと言い方な。どこを切り取っても犯罪の臭いしかしねえ。


「どうだ? ん?」

「お断りします」

「そうかそうか………………さあ、準備しろ!」

「聞いてねえ!?」


 これで素面だってんだから困る。しかし、こんな時に救ってくれるのはいつだって頼りになる妹、浅葱様だ。いつの間にかその手には二人分の着替えとタオルが抱えられていた。


「ほらー。着替えは持ったからさ、早く行こうよ。ひーくんなんて放っとけばいーのいーの」

「むー……仕方あるまい」


 志乃姉はようやっと俺のジャージを解放した。やめろよ伸びちゃうだろ。


 実はやることなんて行きつけのサブカル掲示板の巡回くらいしかない俺は、ざざっと見るものを済ませてしまうと、ほっこりと幸せそうになった志乃姉・浅葱と交代に風呂に入り、鼻歌の一つでも歌って、丁寧に歯を磨き、そそくさと就寝した。




 何もない平凡な一日。


 それがいい。

 それでいい。



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