第三話 俺たちのルール
「はあ……はあ……」
「はあはあ」
ぐったりくたびれ果てた息遣いに、ちっとも情感のこもっていない無味乾燥の喘ぎ声を被せられ、さらにぐったりする俺。朝から散々である。落ち着いた頃合いを見計らって、ふてくされつつ智美子に尋ねた。
「つーか、一体何なんだよ、朝っぱらから!」
「ん、まだでしょ? ……イかなくていいの?」
――へ?
「い――いいって!」
恥じらう乙女のごとき仕草で薄っぺらい掛け布団を引っ張り上げ、俺は必死で拒絶する。
「いいって! 放っといてくれよおおお!」
「……いいの? ホントに?」
「しつこいっつーの!」
そこで智美子は、むっつり時間をかけて考え込んでから控え目にこう告げたのである。
「だって……今日、始業式だよ?」
あ……やっべえ!
「そういうことは早く言えって! まずいまずいまずいーっ!!」
時計に目を向ければ、今の時刻は八時半。ここから我が母校、南三街区高校まではどんなに急いでも一〇分以上かかる。身支度の時間を考えたらギリだ――走ればいい? やなこった。
「ととととりあえず着替えないとっ!」
「ん、見てる。………………ごくり」
「見んなっ!」
しかし余裕なんて皆無の俺は、智美子がいる目の前だろうが一切お構いなしに着替え始めた。こういう時、幼馴染ってのは耐性があって実に助かる。
どうせあの姉のことだ。ベーコンエッグにトーストに舌を火傷しそうな熱さのコーヒーなんて小洒落た物は影も形も存在しないだろうし、どのみちのんびり啄んでいる暇なんてありゃしない。その代わりに、胸元へと流れる毛先をいじいじ弄りながら慌てふためく俺をのんびり眺めている智美子に向けて、苛立ち混じりの台詞を投げつける。
「つ、つーかだな。俺に構わず登校したってよかったんだぞ? どうしたってんだよ?」
苛立ちの半分は罪悪感でできています、って裏バファリンか。
「む………………何となく」
「何となく、じゃねえだろ」
「私、一緒に登校するトモダチなんていないし。それに……志乃姉に頼まれちゃったから」
「ったく……」
そりゃ玄関先で出くわそうもんなら挨拶ついでに頼むだろ、と思ったが、智美子がいなかったら遅刻どころか進級初日からバックレ確実だった。それを思えばそれ以上の文句は出てこない。第一、智美子と登校するのだって珍しくないどころか日常の光景。いまさらって奴だ。
「悪ぃ! 待たせた!」
「ん」
律儀に準備が終わるまでベッドに腰掛けたまま待っていた智美子は、短い返事とともに、よいしょ、と鞄を担ぎ直して立ち上がった。その細い手を引き、急いで玄関を出て鍵をかける。
「ギリギリだ。ホント、ありがとな」
「ん」
タイミングよくやってきたエレベーターに乗り込み、一階に到着するやエントランスを飛び出す。このあたりは学生の姿を見かけない。それはウチのマンションが少し特殊なせいだ。
「クラス分け、どうだろうな?」
「ひーくんと一緒ならどうでもいい」
「ひーくん言うな! 俺はともかくとして、智美子はちゃんとトモダチ作れよ? いいな?」
「無問題」
潔く朝食を諦めて身支度を優先した甲斐もあり、いつものペースに落としてもじゅうぶん間に合いそうだ。学校へと急ぐ生徒の姿が次々横切る広い通りに出る直前、俺は歩調を緩めた。
「そろそろだぞ?」
「ん。またあとで」
智美子は頷き、俺とは逆に歩調を速めて弾むような足取りになる。徐々に離れていくほっそりとた背中と斜めに揺れるポニーテールを見つめながら、俺は背を丸め、視線を地に落とす。
やがて、
「あ! ともみんじゃん! ひっさー!」
顔には見覚えはあるが名前は思い出せない。
一年の時に俺も同じクラスだったんだが。
「……ひっさー」
「テンション低っ! って、いつもどーりじゃーん! ねー、春休みー何してたーん?」
すかさずツッコミが入りつつ、他愛のない会話を交わしながら二人は少し歩調を緩めた。そのすぐ横を俯き加減の姿勢のまま一気に速度を上げるようにして、俺は通り過ぎていく。
俺も智美子も、その瞬間、決して相手の方へ視線は向けない。もう、同じ学校へ通う生徒、というちっぽけな共通項しか残っていない。だが、これでいい。俺たちは他人なのだから。
これが俺たちが――。
いいや、俺が一方的に決め、俺と智美子に等しく課したルールなのだ。
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